2014 年 7 月 20 日

・説教 ヨハネの福音書5章31-47節 「あなたの前にキリストは現れないのか?」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:07

2014.7.20

鴨下 直樹

先日、ある書店に立ち寄りました。そこで、興味深い本を見つけました。本のタイトルは忘れたのですが、学生時代、成績がオール1だった人が、二十代半ばで一念発起して定時制高校、大学、大学院と進んで、今、中学の数学の先生になったという方の本です。学生時代、本当に勉強ができなかったようで、高校卒業時の通知表は家庭科と技術だけが2で、あとすべて1という成績表の写真までのせられていました。この方が、なぜ、急に勉強を始めるようになったのかと言うと、高校を出て土建の仕事をしていたんだそうですけれども、そこでも、要領が悪くて、厳しい同僚から毎日叱られながらの仕事の生活だったそうです。両親は二人とも、この頃までに亡くなってしまいます。ある日、何かの映画を借りて観た中で、アインシュタインの相対性理論の説明があったんだそうです。その説明を聞いて、世界はこういう理論でなりたっているのかと衝撃を受け、もっと勉強したいと思ったのがきっかけになり、小学校三年のドリルを自分で買って勉強を始めます。その本は、おそらく夏休みの学生向けの課題図書なのでしょうか、小学生でも読めるようにカナがふってあります。とても面白くて、どんどん引き込まれていきます。そして、なぜ数学が難しいと感じるのか、わかるようになるためにはどういうふうに勉強していくとよいのか、実に丁寧に書かれています。その秘訣は、分からなくなったところから、また何度も問題を解いて、わかるようにしていくことなんだそうです。

なぜ、こういう話を説教の冒頭でしているのかと言いますと、今日のところは、主イエスが何者であるのかを証明しているところです。数学にも証明というのがありました。私は大の苦手でしたけれども、この方の本を読んでいると、なんだかもう一度自分にも数学が解けるようになる気がしてきます。それと同じように、主イエスはここでご自分が何者なのか、特にここでは、なぜ、自分は安息日に働くことが許されるのかということを丁寧に証明しようとしています。その主イエスの証明というのをここで楽しみながら解いていけるといいと思うのです。

ヨハネの福音書というのは、好きな方と苦手な方とどうも真っ二つに分かれるようです。奇跡の物語であるとか、出来事の描写は他の福音書とかなり違った書き方がされているので、それで、ヨハネの福音書に興味を持つ方が多いのだと思います。ところが、その反面、とても論理的に書かれておりまして、説明の文章が他の福音書にくらべて多いので、それで、苦手意識を持つ方も少なくないようです。実は、こんなことを言ってはいけないのですけれども、私もヨハネの福音書に苦手意識をもっています。というのは、数学の証明が苦手なこととも関係するかもしれませんけれども、ヨハネの説明的な文章を、自分でもはっきりつかみとれないままで、人に説明できるかという思いがあるからです。もっと言うと、説明を説明されることほど面白くないものはありませんから、きっと面白くないだろうなぁと、私のほうで決めつけてしまうところがあるのです。

それに対して、ヨハネの黙示録のようなものはどちらかと言うと、好きです。まるで、絵を見ているかのようで、一つずつ解けていくことに楽しさを覚えるからです。人によっては、ヨハネの黙示録のほうが苦手意識を持たれる方が多いのかもしれませんけれども。

ですから、私もその本を書かれた先生にならって、できるだけ分かりやすくしたいと願っていますけれども、どうなることでしょうか。まずはざっとこの箇所に何が書かれているのか見てみたいと思います。

私はここでずっと「証明」という言葉を使ってきましたが、このヨハネの福音書では「証言」という言葉が使われています。

もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。(31節)

わたしについて証言する方がほかにあるのです。(32節)

と言っています。この「証言」という言葉は、「証し」とも言います。今週から夏休みを迎えました。夏休みの期間は、いつも「信徒交流月間」ということで、水曜日と木曜日の祈祷会は、信徒の方々が証しをしてくださることになっています。毎年、これを私はとても楽しみにしています。みなさんがどういう信仰に生きておられるのか良く分かる機会となっているからです。今年はどうも「証し」ではなくて、日ごろ聞いたり、読んだりしている聖書の中から問いを持たれたことを問題提起していただいて、そのテーマで話し合う時間を持つように、教育部の方々が準備して下さっています。これもまたとても楽しみです。「証し」と教会で言う場合には、たとえば洗礼入会式の時にも証しをしていただいていますけれども、自分がどう神と出会ったのか、どのように信仰に導かれたのかを他の人に話すことを証しと言います。ところが、この聖書の「証言」あるいは「証し」という言葉は法廷用語です。裁判の際に証言をするときに使う言葉です。

しかも、このところをよく読みますと分かりますけれども、主イエスの証言というのは、罪に責められて、弁護している者としての証言ではなくて、最後の41節以下などを見ますと、明らかに裁く側の言葉としての証言になっています。問題は何かと言いますと、先ほども言いましたが、なぜ、主イエスは安息日に働いてもよいのかということです。これは、もっと言うと、主イエスと父なる神とはどういう関係にあるのかということです。

それで、まず33節以下を見ていきますと、39節までに4つの証言があります。まずはじめに書かれているのは、バプテスマのヨハネです。ヨハネが私について証言してくれた。これは、33節にも書かれていますけれども、ユダヤ人たちはまず、バプテスマのヨハネのところに人をやりまして、調査しました。それはヨハネの福音書の1章19節以下にそのことがすでに書かれておりました。そして、第二の証言としては、この36節からです。ここでは、「わたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。」と言っています。この前のところに書かれていたベテスダの池での癒しの出来事などはそうですけれども、主の癒やしの出来事こそ、父の行うわざをおこなうわざであることが、わかるのだと言っているのです。そして、37から38節では、第三の証言として、「また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。」と言っています。そして、そのしるしとして、あなたがたは父を見たことがないでしょう。けれども、父から語られた言葉、つまり、聖書が分かっていればそんなことにはならないはずなのにと言って、最後の証人として、聖書そのものがわたしの証人となるのだと宣言しているのです。

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。(39節)

主イエスはそのように宣言しておられます。

私たち同盟福音基督教会の機関紙の「エクレシア」が発行されました。もうみなさん読まれたと思いますけれど、今回のエクレシアには芥見の二人の長老の記事が紹介されています。それこそ、山田長老の証しが載せられておりますけれども、全日本製造業コマ対戦の出来事を通して、自分はキリスト者として証ししていくことを喜びとしているという、実に頼もしい証しが載せられております。主イエスこそが、私の救い主なのだということを、自分の仕事を通して証しすることができるということは、キリスト者としての喜びです。それまで自分がキリスト者であることをどう証したらいいのだろうと思っていたけれども、こうして証しする機会を得ることができたと書いておられます。

それはまさにあなたはなぜ主イエスを信じているのですかと、問われた時に、エクレシアの中で山田長老は書いておられますけれども、ひょっとすると、牧師よりも人に触れ合う機会が多いのではないか、そこでみ言葉を語られることを自分への主から受けたチャレンジとして来て、こうして証しをする機会を得ることができたのだと書いておられます。本当に頼もしいことです。主イエスと出会った喜び、そして、自分は今こういう仕事をしながら生かされている、その生き方を喜んでいる。それを語ることこそが証しになるということです。

ユダヤ人たちは主イエスのこの証しを聞き入れたのか。今日の後半の部分を読んでみますと、どうもそうではなかったことが分かります。それで、ユダヤ人たちに向かって、あなたがたはモーセの律法にしたがって歩んでいると言っている。けれども、主イエスは言われます。46節。

もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです

こうして、主イエスはご自分を証言するすべてのものが、わたしは、父なる神の御子であって、父なる神の御業を行うのはわたしなのだと、それこそ、高らかに証しし、ユダヤ人たちがまるで裁きの前に立たされているかのごとくはっきりと、

あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。

と47節で、問いかけておられます。あなたがたは聖書を読んでいると言っているけれども、聖書に従っていると言っているけれども、その聖書そのものをしっかりと読み取れていないのだと、ユダヤ人たちに問いかけておられるのです。そもそも、聖書の語る神を理解しようとしてきたのだろうか。そういう主イエスからの問いかけでもあります。

エクレシアにもう一つ、古川長老の連載記事が載っております。これは、岐阜県美術館の館長として、さまざまなキリスト教美術の紹介を毎号載せてくださっているもので、私もいつも読むのを楽しみにしています。

今回紹介されているのは、ドイツの版画家で、カール・シュミット=ロットフルの版画です。私はこのロットフルという人をこの記事を見るまで知らなかったのですけれども、第一次世界大戦の時に、自ら兵役についていた経験から作品に戦争をテーマにしているものを描くようになったそうです。今回の作品のタイトルは「あなたたちの前にキリストは現れないのか」というタイトルの版画です。これはキリストの自画像と言ったらいいでしょうか、デフォルメされた顔立ちですけれども、キリストの顔は歪んでおりまして、鼻から額にかけて歪んだ十字架が顔に張り付いているかのような顔をしています。そして、額には「1918」という数字が書かれています。これは、第一次大戦の終わった年です。その中で古川さんは「ロットルフの特色は第一次世界大戦の勝者にも敗者にも悲惨であった現状に見出される人間の深い悲しみと祈りを主題にしているところにある」と書いておられました。

このロットフルのキリストは、おそらく、あなたがたにはキリストの顔など見えていないのだろうという皮肉があるのだろうと、私はこの絵を見ながら思いました。「なぜ、お前にはキリストが現れないのか、戦争をする人々よ」、「キリストはこれほどまでにゆがめられているのではないのか」、そんな迫るようなメッセージがこの絵にはあると思います。

私たちは、ウクライナと深ロシア派の人々の戦いを毎日ニュースで聞いています。ついに、民間の飛行機を誤って撃墜してしまいまして、三百人近い人々のいのちが失われました。また、イスラエルがパレスチナに侵攻してすでに三百人の死者を数えたそうです。第一次大戦の時も、また今日も、世界の人々は変わることなく、争いあうことをやめることができません。聖書が証言する主イエスの姿が、見えなくなってしまっているのです。父なる神の心が、神が何を願っておられるのかが、分からなくなっているのです。

父は、それぞれの主張する正義の傍らにおられるのではありません。たとえそれがイスラエルであろうとです。この時こそ、ロットルフの描く、「あなたの前にはキリストは現れないのか」というこの絵が示されなければならないのだと思うのです。

このような中で、主イエスと出会っている者、父なる神の思いを知っている人はなんと幸いなことでしょうか。父が、どれほど、傷ついた人の傍らに立とうとしておられるか、父はどれほど人を慈しんでおられるのか、そして、その父の御思いを示すために、主はおいでになり、愛を、慈しみを示されたのです。ですから、主イエスと出会ったものは、それぞれの生活の中で、このお方を証しすることを喜びとすることができるのです。なぜなら、人々が傷つけあうばかりの世界になって、人々の福音となるのは、この主イエスをお伝えすることだからです。そして、この主イエスと出会う時に、聖書が語る神と出会うことができる。神の愛を、神の慈しみと恵みとを知ることになるのです。

お祈りをいたします。

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