2014 年 11 月 2 日

・説教 コリント人への手紙 第二 3章18節 「主と同じ姿に」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:41

2014.11.2

鴨下 直樹

今日は召天者記念礼拝です。今日こうして久しぶりに顔を会わせる方々あることを嬉しく思います。毎年のことですけれども、教会ではこのようして、すでに天に召された方々のことを思い起こしながら礼拝の時を持っているのです。それはつまり、私たちの教会では一年に一度、みなさんと共に「死」について考える時をもっているということです。

私たちは普段、日常の生活の中から死をできるかぎり追い出して生活しています。死について考えますと、気がめいってしまうからです。けれども、誰も避けて通ることは出来ません。死を考えるということは、本当は何にもまして考えておかなければならないことです。自分のいのちをどのように終えるのか。その人生のしめくくりを、漠然としたもやもやしたものの中に放り込んだままでいることは、自分の人生そのものがどこに向かっているのか分からないまま毎日を過ごしているということになってしまうのです。けれども、問題はどう考えていいのか分からない。だから、遠ざけてしまっているというのが、現状なのではないかと思うのです。それで、今日は、聖書はこの死の問題をどう考えているのかということを、少し一緒に考えてみたいと思うのです。

先ほども言いましたけれども、私たちは普段、この死というものを日常の生活から締め出してしまっています。加賀乙彦というカトリックの作家がおります。この加賀乙彦さんは、もともと小説家であったわけではありませんで、もともとは精神科医でした。ご自分の作品の中にもかいておられますけれども、特に、死刑囚と関わりながら、死を向き合うという問題に取り組んでこられた方です。この加賀乙彦さんの書かれた『生と死の文学』という本があります。この本の中でこんなことを書いておられます。少し長いのですが紹介したいと思います。

「私たちの時間は4つある。近い将来と近い過去、これは感情的なものに彩られていて、いきいきとした時間。遠い未来と遠い過去というのは、私たちの感情とは無関係に、つまり理性でもって、平生(へいぜい)に静かに考えられる時間であって、私たちは普通、死というものをその遠い時間の中にいれてしまっているのです。だから、私たちは死という問題をわりと平気で考えられるのです。しかし、明日死ぬと言われたら、これは大変ですね。死が目前に迫った。つまり、感情的な近い未来に迫った場合には、死に対して必死の反応をせざるを得ないでしょう。死というものが、その時間のどこにあるかによって、人間の生き方が変わってくるのです。」

この加賀乙彦さんの洞察は死刑囚と無期囚の死に対する受け止め方の違いから見出されたようですけれども、非常に説得力のある見方だと思います。私たちは普段、死というのは、遠い将来に入れて考えていますので、まだ考えなくても大丈夫と、どこかで考えているわけです。けれども、今日のように、こうして天に送った家族のことを思い起こす時には、どうしても、一度ここで自分のこととしても考えておく必要があるということを心に留められる方が少なくないのではないかと思うのです。というのは、このことは、本当は先延ばしにしていい問題ではないからです。

キリスト教会の葬儀を経験された方の多くの方が言われるのは、教会の葬儀には未来があるということです。未来と言ってもいいし、将来と言ってもいいのですが、人は死で終わらないのだと言うことを明確に語ります。天にある希望です。よく葬儀で語られる言葉の一つに「天での再会」ということがあります。以前も小さな集まりで話したことがありますが、私は葬儀の時に「天での再会」という言葉はほとんど口にしません。もちろん、天に送った家族と再会するという希望がないというのではありません。天での再開はあるのです。幸いに私が言わなくても教会の誰かが言ってくれます。私がなぜ、その言葉を言わないかというと、「天での再会」は、聖書が語る福音ではないからです。

マルコの福音書の12章に主イエスが復活について語られた言葉の中で、こう言われました。

人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。

25節の言葉です。この言葉は色々な人々が、実に想像力を働かせて考えられてきました。天で、別れた夫と再会しても、そこでは夫婦でないのはとても寂しいことだと思われる方が多いようです。もちろん、中には実は少しほっとするという方もあるのかもしれませんけれども、聖書は天においても再び地上のような夫婦関係にあるということを否定しようとしているわけではありません。この世にあっては夫婦の絆、家族の絆というのは何にも代えられないほど大切なものです。しかし、そのような夫婦の絆、家族の絆を超えた絆、つまり神との絆というものは、この世界にある絆をもはるかに超えたものなのだということを主イエスは語られたのです。それは、この世界の関係が、天でも同じようにつづくということなのではなくて、まさに、天においてはこの世のものとはまったく異なる神との絆があって、天ではそのような神との豊かな関係を築くことになるのだということを聖書は語っているのです。それは、新しい価値観と言ってもいいかもしれません。そして、それこそが福音なのです。

キリストはよみがえられたお方です。復活されました。それは、私たちを新しいよみがえりのいのちに生かすためです。この世界で生きることが、私たちのいのちの目的ではなくて、神が私たちに備えておられる新しいいのちに生きること、新しい神との絆による価値観に生きることこそが、私たちに備えられている本当の目的なのです。

天において、私たちはどのようにされるのか。それが、今日の聖書の箇所です。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

コリント人への手紙第二、3章18節です。

この箇所は本当ですと少し前の部分から読まなければなりません。ここでは、古い契約のことが語られています。旧約聖書の「旧約」という言葉は、この「古い契約」のことを意味します。それは、特には十戒のことを意味します。この神との約束というのは、イスラエルは神から救い出されたのだから、神の戒めを守ることによって、神の民として生きることを約束したものでした。けれども、神の戒めの書かれた律法の書を読んでも、そこで本来意図されていることを読み取ることができませんでした。そのことを、このコリント人への手紙では「おおいがあったからだ」と言っています。「しなければいけないこと」としては聖書を理解できても、その背後にある神の心は分からなかったというのです。

なぜ、神を愛するのか、なぜ、隣人を愛するのか、神を愛して、隣人を愛するという生き方がどういうことなのかを、本当のところは理解できなかったというのです。何故かというと、神と私たちの間にカバーがかけられていたからだというわけです。

けれども、主イエス・キリストがおいでになられ、神を愛することはどういうことか、隣人を愛することはどういうことなのかを実際に生きてくださいました。この主イエスを完全にみることによって、私たちは、神と私たちの間にあるカバーと言いましょうか、ベールと言ったほうがいいかもしれませんけれども、それが取り除かれるのです。それは、主イエスと出会って、主イエスを信じたときに、私たちの前におおいかぶさっているベールが取りのけられたことになるのですけれども、実は、まだ、完全に、直接目の当たりにしたわけではないので、私たちは、まだどう生きていいのかはっきり分からないところがあるのです。

けれども、私たちが、この御子イエス・キリストと顔と顔とを合わせて、完全にお会いする時には、いよいよはっきりと私たちがどう生きるべきなのかをしることができるようになるのです。

それが、つまり私たちに死が訪れて、天において直接主イエスとお会いする時なのです。その時、私たちは、私たちが本当にはどう生きることが求められていたのかをしることになるのです。

しかし、死んでしまってからどう生きるのか分かっても仕方がないではないかと考える方があるかもしれませんけれども、そうではないのです。聖書は、私たちは「地上では旅人であり、寄留者である」とヘブル人への手紙に書いています。私たちは天において、神の身元こそが、私たちの本来生きるべきところなのだと、聖書は語っているのです。そして、そのために、今、私たちはこの世にあってどう生きるべきなのかを教えられているのです。

神は、永遠のいのちへと私たちを招かれるお方です。そこで、私たちはその将来をどう生きるのかを、今から備えておかなければならないのです。聖書は、私たちは人生についてはっきりと書いています。漠然と、どうなるのか分からないというような不確かな、あいまいな生を書いてはいません。はっきりと、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」と伝道者の書の3章11節に書いています。

ある牧師が人生最高の幸福とは何であるかという説教をいたしました。その牧師はこういうのです。「それは他者による」と。「他人と関連しただけ、幸福という言葉が用いられる事態が発生するのです」とも言われました。

私たちは誰もが幸せに生きたいと思いながら、その多くが人との関係の中で苦しむことを経験します。そうやっているうちに、だんだんと他の人に対して期待することをやめてしまって、どんどん自分に、自分にと心が向かって行ってしまいます。そして、どんどん孤独を感じ、幸福感が失われていってしまうのです。

教会では毎年、この季節に召天者記念礼拝をいたします。そして、ご家族の方々に案内をお送りして、毎年大勢の召天されたご家族の方々がこの礼拝に集ってこられます。そこには、豊かな関係があったのだということが良く分かります。一人の人がその生涯にわたって関わりを持ってきた人の数は、考えられないほど多くの人がいるはずです。ですから、本当に一人の死ということが、どれほど大きな意味を持っているのかということを改めて考えさせられます。そのように、多くの人と関わりを持ちながら生活をするのにも関わらず、どう人を愛するのかを、良く分からないままに生きるとするならば、それは、それだけ多くの人に悲しみを負わせることになります。

しかし、神は、人との愛の関係を築いて生きるためには、まず、何よりもその人をお造りになられ、そのいのちを愛してくださっている神の愛を知ることから始める以外に道はないのです。そして、神は、この愛を知っていただくためにイエス・キリストをこの世に送り、私たちがどう生きるべきかを教えてくださったのです。それは、誰もが、神が描いておられる幸いな生をえるためにです。

人生最高の幸福は、神に愛されていることを知り、人を愛することを知ることよって、もたらされます。それは、イエス・キリストのように生きること。それこそが、私たちの生なのです。

お祈りをいたします。

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