2014 年 11 月 16 日

・説教 ヨハネの福音書7章25-36節 「神を知るために」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:14

2014.11.16

鴨下 直樹

昨日は、教会でコンサートが行われました。本当に大勢の方が来られました。教会外から来られた方だけで約70名の出席がありました。演奏してくださったグレイス・オーさんは韓国で生まれた、目の見えない方です。昨日も演奏の合間に一緒に来て下さった田村先生が色々とお話しくださいました。そこで話されたことですけれども、9歳の時に自分のいのちを絶とうとしたことがあったとのことでした。その話だけでも、まだ9歳で自分の人生を諦めようとされたほどに厳しい生活があったということが分かります。ところが10歳でおばあさんに連れられて教会を訪ねて神さまと出会います。そして、その時にピアノの道を歩むことを決断したのだそうです。10歳からピアノを始めるというのは、プロになろうとするなら遅すぎると一般的には言われます。けれども、自分に与えられた神さまからの使命として受け止めてこの道に進んで、ついに、アメリカでピアノの博士号までもらうに至ったということでした。10歳で神さまと出会ったことで人生が大きく変わったと言っていいと思います。そして、昨日も実に素晴らしい演奏を聞かせてくださいまして、集われた方みなさん大変喜んで帰られました。神さまと出会うということが、これほどまでに大きな意味を持つのかと改めて考えさせられました。

今日の聖書の箇所も、いろいろと難しいことが書かれていますけれども、一つの大切なテーマは神と出会う、神を知るということに尽きると言っていいと思います。今日の聖書の中に、何度も「知る」という言葉が出てきます。

ほとんど一ヶ月ぶりにヨハネの福音書に戻りましたので、少し、これまでの話の流れを忘れてしまっておられるかもしれません。このヨハネの福音書というのは、実に丁寧に話を進めています。そして、いつも前に書かれたことが展開されていきますからどうしても、前に何が書かれていたかを少し思い起こしていただく必要があります。この7章のテーマは、一言でいうと「イエスとは何者なのか」ということです。エルサレムで毎年行われている仮庵の祭り、秋に行われる祭りですが、そこで人々はエルサレムに集まってきます。主イエスは行かないと言っておられたのですが、内密にエルサレムにやってまいりました。内密にというのですから、こそこそしておられたのかといいますと、どうもそうではありませんで、神殿で大声をあげて教え始められました。その話の内容からすると、とても理にかなった話しぶりをなさったので、聞いていた人は驚いたようです。しかし、主イエスが前にエルサレムに来られた時に、この話は5章に出てまいりますが、安息日にベテスダの池のほとりで、一人の長年病を患っていた人をお癒しになられました。この出来事が安息日に何をおいても働いてはいけないのだと考える人々の反感を買ってしまって、どう評価していいのか分からなくなっているのです。

今日の箇所はそのところからです。エルサレムの中にはイエスは安息日を軽んじ、自ら神のもとから来たのだと言っているのは冒瀆罪にあたるとして、殺すべきだと考えている人々が少なからずいたようです。けれども、そうは言っているけれども、一向に取り締まるそぶりは見えません。それで、今日の26節です。

見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。議員たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのであろうか。

この26節に気になる言葉がいくつか書かれています。一つは「公然と語っているのに」という言葉です。自分のことを殺そうと考えている人々がいることを知りながら、「公然と語る」ことができたということです。つまり、それは「何にもしばられないで」とか「自由に」というようにも言い表すことができると思います。

先週のニュースで驚かれた方があると思いますけれども、また解散総選挙をするということがどうもはっきりしたようです。けれども、今、首相は首脳会議に行っておりまして、そこで語られたことは「自分は解散総選挙をやるなどとは口にしていない」ということでした。けれども、どうも、もうやることははっきりしているようです。もう総選挙をすると決まっているのに、公然とは語れない。そこにどんな理由があるのか私には分かりませんけれども、今それを自分の口から公にしてはいけない理由があるのでしょう。つまり、不自由さを感じながら発言する。だから、みんながほんとのところはどうなのかと、他の党の人々は互いに顔色をみあわなければならなくなります。そうすると、公に語った言葉であるのにもかかわらず、その言葉が真実な言葉なのかどうか、分からなくなってしまいます。それが、政治の約束事なのかもしれませんけれども、そんなことをしていったい、ではどの言葉を信じればいいのかということになるのだと私は思います。公に語られた言葉が、文字通りの意味を持っていないのです。

最近、子どもを乗せて車の運転をしていますと、前に車が急にでてくるのを子供が発見して、「あっ、バカ」と言いました。私が、後ろを振り向きながら、「そんな悪いことばを使ってはいけない」と叱りますと、「お父さんはいいのか」と反対に尋ねられてしまいました。前に、一旦停止しなければならないところを、前の車がそれを無視して進んできたのを見て、私が思わず「バカ」と口にしたのを子供は聞いていたのです。妻にも、ついでに叱られてしまいました。「あなたが普段、車の中で悪いことばを使っているから、子どもも使いたくなるのは当然のことだ。いつも気を付けてと言っているのに」と、とどばっちりを食ってしまいました。

まさか、まだ三歳にもならない子供の口から対向車を見つけてそんな言葉がでてくるなどとこちらは想定していませんけれども、本当は、だからこそ、毎日の言葉に気を付けるべきだと改めて考えさせられます。人のことは気付くのに自分の言葉には気づいていないのです。自分は悪いことばを使いながら、人に悪いことばを言うなというのでは説得力に欠けます。いつも何不自由なく、大胆に真実の言葉を語ることができないと、うその言葉と真実の言葉があるということを、聞く人は見分けなければならなくなってしまうのです。人を傷付つける言葉と、人を生かす言葉とがあることを聞き分けなければならなくなる。人の言葉の表面通りの意味と、裏の意味というのがあるというのは、本当はとても残念なことです。しかし、主の言葉はそうではないのです。いつも、その言葉どおりにお語りになられているということを、私たちはここから覚えさせられるのです。

26節にはもう一つの大切な言葉が書かれています。それは「キリスト」という言葉です。「この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか。」この時代の人々は誰もがキリストを待ち望んでいました。「キリスト」というのは「油注がれた人」のことです。神の働きのために特別に油をそそいで聖別された働きをする人のことを、旧約聖書の言葉では「メシア」と言いました。新約聖書のギリシャ語で「キリスト」と言います。主に、王様、祭司、預言者などが、油を注がれて神の働きをになったのです。そして、この「キリスト」という称号は次第に、大きな期待を持って受け取られていきました。「キリスト」が来られるときに、世界は救われるのだという期待と共に、人々は「キリスト」イコール、「救い主」と考えるようになっていたのです。

そして、自分を殺そうとする人がいるにも関わらず、大胆に、自由にお語りになる主イエスのお姿を見て、人々はこの方こそが、あの待ちに待った「救い主」ではないのかと期待をする人々がいたのです。

イエスとははたして何者なのか。それが、人々の関心でした。殺されなければならない、神を冒涜する者なのか、それともキリストなのか。どうしたらそのことが分かるのだろう、何によって、それを知ることができるのだろう。人々はそう考えました。

なぜかというと、世の中には、まやかしの言葉、偽りの言葉、嘘の言葉が満ち溢れていたからです。あるいは、自分を吹聴する言葉、自分の利益を求める言葉、自己中心な言葉に満ち溢れていました。それで、人々は、真実を知るために、このイエスという人物が何者なのかを知ろうとしました。その一つが出身を知るということです。

今でもそうですけれども、ある特定の職業につく人々は身上調査というのが行われます。家族や親せきに何か悪いことをした人がいないかを調べて、その仕事につくのにふさわしいかを判断するのです。そういうやり方で主イエスを見ると、出身はガリラヤの田舎で大工のせがれということらしい。そこまできますと、どうも、普通の田舎の若者ということらしい。でも、キリストというのは、そんなどこから来たのか分かる者なのだろうかという疑問がでてくるのです。

何か神秘的なベールに包まれているならば、それらしい人物の気がするけれども、ガリラヤの田舎から何のよきものが出るだろうかと言われるほどの地方です。そこには人々が心惹かれるような神秘的なものはありませんでした。

しかし、ここで主イエスがご自分でお語りになられました。28節と29節です。

イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」

みなは、知りたいと思っています。そして、ある意味で、主イエスの地上の姿を知っていました。しかし、主イエスはお語りになられました。わたしは知っている。わたしは父から遣わされたのだ、と。

人々はこの主の言葉のまえに立たされます。信じるか、信じないかの前にです。このお方の言葉は、自分自身が目立つために、自分が何か利益を得るために語っているのか。それとも、人を生かすために、人を愛するために語っているのか。主イエスは人を傷つける言葉を語っているのか。それとも、人に寄り添い、人を愛し、人を生かす言葉を語っているのか。主イエスの言葉は悪いことばなのか、真実の言葉なのか。

人々はここまでの主イエスの言葉を聞いて、特にパリサイ人、神殿の当局の人々は主イエスを捕えるという決断をいたします。主イエスの言葉が偽りの言葉であると判断をしたのです。もちろん、それもひとつの判断です。人はその自分でした判断によって生きています。正しいと信じるのも、間違っていると信じることも、すべて私たちに託されています。

聖書はそこでまだ主イエスの言葉を続けます。「わたしはしばらくすると、来たところにもどります。その時、私を探しても見つけられないでしょう」と。そして、興味深いことに、35節では、ひょっとすると、このお方は異邦人の人々の方に行ってしまうのではないかと。この時、すでにユダヤ人たちは世界に散らばっていまして、そのイスラエル人たちのことを離散のユダヤ人、ディアスポラのユダヤ人と言いました。詳しい説明は必要ないと思うのですが、皮肉なことに、結果として主イエスを信じた人々はユダヤ人の中ではなくて、異邦人、つまり、イスラエル以外の彼らからすれば外国の人々が主イエスと出会うことになったのでした。

正しく知るということは簡単なことではありません。私たちの周りにはあまりにも多くの、偽りの言葉、自分の利益を求める言葉が満ち溢れています。そして、そういう言葉によって、私たちは毎日苦しめられていることを、体験的に味わっています。だから、慎重になるのです。そうです。慎重になるべきなのです。残念ながら、私たちは軽々しく人の言う言葉を信じるものではない時代に生かされているのです。だからこそ、自分を本当に生かす言葉と出会うことが大切なのです。

グレイス・オーさんは自分を活かしてくれるお方と出会いました。そして、人生が変わりました。それは、自分の人生で味わっていくしかないのです。ただ、そこで、私たちは、このお方の語られる言葉を聞くことができます。その言葉は何に根差しているのか。主イエスは言われます。「わたしは、わたしを遣わした方を知っている」主イエスは、主イエスが知って欲しいとおもっておられるお方を証しする言葉を語られます。そのお方と出会って、そして、自分で知ったらいいのだと。

この7章の最後に出てくるニコデモという人は、こうして主イエスの語られるお方を発見したのです。ベテスダの池で長い間病に臥せっていた人もまた、主イエスを知りました。彼らは、自分を活かしてくれるお方と出会ったのです。そして、このお方は、私たちの前にも立っていてくださって、ご自身をお示しくださるのです。

主イエスを知ることは、私たちを活かそうとしておられる神と出会うことになるのです。

お祈りをいたします。

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