2014 年 11 月 23 日

・説教 マタイの福音書25章1-13節 「主にある望みに生きて」

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〈終末主日〉

2014.11.23

鴨下 直樹

今日は教会の暦で一年の最後、終末主日を覚えています。終末という言葉は、そのまま死を覚える、自らの終わりの時を考える時を教会はその暦の最後に覚えるようにしているのです。教会によっては、この日を収穫感謝の日として覚えるところもあります。そこでも、ただ、作物の収穫を感謝する、私たちの日ごとの生活に与えられているものを感謝するということにとどまらず、やはり、人生の最後、私たちは何を収穫することになるのかを覚えるという意味がそこにはあります。そうして、来週から教会暦のはじめに、キリストがお生まれになるために備えるアドヴェントに入っていくのです。

いつもですと、ヨハネの福音書のみ言葉を順に聞き続けておりますけれども、今朝は聖歌隊が賛美をいたしました。「起きよ、と呼ぶ声がする」という賛美です。もともとはドイツ語の賛美ですが、日本語にされたものをうたいました。この讃美歌のテキストになっているのが、先ほど司式者が読みましたマタイの福音書の25章の1節から13節のみことばです。十人の花嫁のたとえばなしと言われる箇所です。

先ほども賛美の中で「起きよ」、「起きよ」というフレーズが何度も続きました。讃美歌では「夜はあけぬ」と歌いました。「夜があけるから、起きなさい」と起こしているのです。この讃美歌はもともとドイツ語のもので、どなたが訳したのかわからないのですが、もとの歌詞には「夜は明けぬ」という言葉はありません。花婿が来るから花嫁であるエルサレムよ、起きなさいという歌詞がつづいているのです。とても、興味深いのは、花嫁をエルサレムに例えている点です。

今日の聖書の箇所を読みますと、花嫁は十人いました。たとえ話ですから、実際にこの時代の結婚は合同結婚式であったのかなどということは考える必要はないと思います。少し内容を考えてみたいと思います。結婚に備えている花嫁が、花婿が来るまで待っています。この時代結婚式は一般的に夜、花婿が到着してから宴がはじまったようですから、そういう部分が背景にあります。讃美歌ではこの花嫁をエルサレムにたとえていますが、これは、神の民であるエルサレムが救い主がこられるのを心待ちにしているたとえ話だと理解したのだと考えられます。そして、この神の民であるエルサレムに与えられた希望こそが、私たち、教会の希望でもあるのだということを歌にしたのです。

明日も、私たちの教会では婚約式をいたします。婚約式をして、結婚の約束をしますと、結婚の日が訪れるまでさまざまな準備をしながら、その日を心待ちにします。それは、いつの時も変わりません。神がこの結婚を導いていてくださると信じて、二人は誓約をし、そして、その日まで備えます。それは、本当に麗しい喜びの時間なのです。そして、やがて結婚をする新しい生活は、よく、悪意を込めて「人生の墓場」などという人たちがありますけれども、正しく備えた者にとっては、本当に喜びの生活がそこからはじめられていくことになるのです。

そして、そのような結婚生活と、主がおいでになる主と共にある生活を、聖書は昔からそれになぞらえて語って来たのです。そして、終末主日や、その後に訪れるアドヴェントの期間に、私たちはもう一度、主が来られるその生活が、麗しい喜びの生活なのだという望みを新しくし、そして、そのために正しく備えることを新たに思い起こす必要があるのです。主が再びおいでになるときに、主と再会する。あるいは、私たちのいのちが尽きて、天に召される時に主とお会いします。それは、わたしたちにとって希望以外のなにものでもないことを、それは、まるで結婚を待ち望む者のような喜びなのだということを私たちはここから聞き取るのです。

さて、そこで主がお語りになられてこのたとえ話には十人の花嫁が出てまいります。みな、結婚を心待ちにし、備えていた花嫁たちです。ところが、ここで問題が起こります。花婿の到着が遅れたのです。そして聖書は、その花婿の遅れの理由については何も記していません。関心はそこにはないのです。花婿がおいでになることが遅れたとしても、花婿との新しい生活を心待ちにしているはずの花嫁は、そのために備えている必要があるのだということを物語っているのです。

ここで、「五人は愚かで、五人は賢かった」と書かれています。この賢さと愚かさについては続く3節にこう記されています。

ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。

と書かれています。そして、

花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。

と5節に続いていきます。大切な結婚式に遅れて来る花婿の方が問題だと反対に言いたくなるところですけれども、聖書はそのことは当然のこととして記しています。花婿が遅れてくることそのものを問題にしていないのです。むしろ、そこで待ち続けている側、花嫁の態度を問うています。花嫁として、キリストがおいでになることを待ち望むということがどういうことなのかを、このたとえ話は問いかけているのです。

昨日、マレーネ先生と東海聖書神学塾に一緒に行きました。来年、女性奉仕者コースを再開するための打ち合わせを運営委員の先生方とするためでした。今まで、東海聖書神学塾の女性奉仕者コースでは、例年「女性論」という学びをしていました。その学びをマレーネ先生にしてほしいというのが、運営委員からの一つの願いでした。すると、そこでマレーネ先生が質問をしました。「なぜ、女性が奉仕するために女性論を学ばせるのに、教会で奉仕をする男性たちのための男性論は教えないのか」というのがその質問の内容でした。ある運営委員の先生方も、「聖書に多くの女性として主にお仕えしてきた人の姿から学ぶことがあるからだ」と言われました。すると、マレーネ先生の質問は続きます。「聖書にはたくさんの男性が主に仕えています。それと区別する理由はなんですか」。質問がつづくうちに、運営委員の先生方も、マレーネ先生が何を問題にしているのか気が付いていきます。確かにそういった男性の仕え方、女性の仕え方と分けて考えるのはふさわしくないのではないか。それで、結論がでたわけではないのですが、もう一度運営委員の先生方も、改めて考える機会になったと思います。

その後で、マレーネ先生と食事をしながら、今年教えられた講義についての話をしました。マレーネ先生はご自分の講義の中で、たくさんの質問を生徒たちにするようです。そして、自分の言葉で、問われたことを答えることができるように訓練している様子が良く分かりました。「救いについて、初めて教会に来られた方にどうやって説明しますか」「聖書はどういった書物なのですか」こういう質問に答えられなくて、学んだことになるのかと言われるのです。そこで、マレーネ先生が言われたのは「大切なのは問題意識を持つこと」でした。

それを聞きながら、なるほど、だから「なぜ、あえて女性論を教えたいのか、その理由を知りたかったのか」ということが分かってきました。

私がなぜ、今こんな話をしているのかと言いますと、主イエスはこのたとえ話を通して、まさに、この問題意識を持ってほしいと思って話しておられるからです。言われる賢さ、愚かさとは何をさして言っているのか。もちろん、花嫁は女なので、女性だけが考えればいい問題ということではないのです。男性も同じように考える必要のあることです。

ここで、十人の花嫁は眠ってしまいました。みな眠り込んでしまったのです。

ここで使われている「賢さ」という言葉ですが、この言葉は「目が開かれている」という意味の言葉です。そして、最後の十三節に「だから、目をさましていなさい」とむすばれています。ですから、ここでいう「賢さ」というのは「眠らないこと」という意味に理解してしまいがちです。しかし、今みたように、ここでは十人みなが眠りに落ち込んでしまいました。人間的な弱さというものは、誰にでもあるものです。十人みな、その点では同じ弱さをもっていたのです。けれども、ここでは「目をさましていられなかったこと」を問題とはしていないのです。

先ほど歌いました聖歌隊の賛美の最後の歌詞はこうありました。「ともしびかかげてむかえまつれ」と。大切なことはともしびに火は灯されているか。火は消えていないかということです。問題は、その備えをして、花婿を、自らの喜びに備えているかということです。

しかしそうしますと、ここで、ではどれだけ油を備えておけばよかったのか。神様は3時間分の油を備えておいたけれども、4時間分必要だったのだ、そのわずかのために、結婚の祝宴から締め出しておしまいになられるほど厳しいことをここで言っておられるのか、ということを考えてみなければなりません。

主がここで話しておられるのは結婚のはなしです。婚約をすませた、花嫁がいよいよ結婚の時を迎えようとしている、その望みについてお話になられました。その望みは何にねざしているのでしょうか。

明日も婚約式があります。婚約式というのは教会行事ではありませんから、主催者はI兄とM姉です。Mさんは、そのためにもう何週間も前から準備をしております。どういうふうにもてなしたいのか、プログラムはどうするのか、そういうことは二人で話し合って備えています。もちろん、教会の方々も頼まれて色々と準備くださっていますが、その用意はたとえばケーキはできるだけ無駄にならないようにぎりぎりにして、みなさんできるだけ食べないでくださいなどとは言いません。ちゃんと備えてあります。それは、来ていただく方々と一緒に喜びたいと思うので、自然にそうするものです。

主イエスは花婿との待ちに待った婚宴の時に、途中で油が足りなくなってしまうなどというようなことは、よほどのことだと言いたいのです。自分の中にある喜びが、望みがあるならば、それは自然にするものです。三時間分用意しましたけども、四時間は持たないかもしれませんというのは、まるで我慢大会をさせられているかのようなものでしかないのです。

私たちは、この主イエスがおいでになるという希望に生きているのです。それは、私たちにとってまさに結婚のような喜びの生活ですから、私たちはそのために喜びをもって待ち望むのです。

もちろん、わたしたちには人間的な弱さがあるのです。つい眠り込んでしまうような失敗をしながら、こんな自分だからダメなのだという思いになることはあると思います。けれども、私たちは主と共にある生活という望みがあります。この望みがあまりにも大きいがゆえに、私たちは、いつも望みに生きることができるのです。

この後も、賛美をいたします。讃美歌21の230番は、先ほど聖歌隊が歌ったものと同じ曲です。この曲を私たちの喜びの望みの曲として共に賛美いたしましょう。

お祈りをいたします。

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