2014 年 12 月 21 日

・説教 ヨハネの福音書8章12-20節 「いのちの光」

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2014.12.21

クリスマス礼拝説教

鴨下 直樹

先ほど洗礼入会式が行われ、今朝洗礼を受けられたIさんの証を聞きました。Iさんは今中学三年生です。学校でのこと、そこで思い悩んできたこと、苦しんできたこと、そして信仰がその生活の支えとなったことを証ししてくれました。ある方が本の中で書いておりましたけれども、中学生というのは人生の中で最も厳しい時期です。誰もがこの時期の厳しさを経験されてきたと思います。それまでの人生経験も、考え方もまだ大人になるための途中の段階で、身に降りかかってくることはそれゆえに難しい時期を過ごさなければなりません。同級生もまた大人としてふるまうことが出来ないのです。みんなが同じ弱さを持ちながら、けれども、ひとりひとり成長の度合いも違います。一人一人の環境も違うために起こる問題というのもあります。大人になる間に忘れていってしまうのですが、それはとても厳しい時期です。Iさんは高校を山形にある基督教独立学園に入学することが決まっていますが、高校の入学試験の面接の時に、校長先生から「そういう厳しい経験をしながら、君は神様を恨まなかったのか」と尋ねられたのだそうです。すると、「そういう風に考えたことはありません。私はそこから教えられたこともたくさんあるのです」と答えたのだそうで、その答えに先生も驚かれたのだそうです。私はその話を聞きながら、見事な信仰の言葉だと思いました。自分の抱えている困難を、ただ、辛かったのだ、苦しかったのだと嘆くのではなくて、そこから気付いたこと、教えられたこともある、それは私にとって悪いことばかりとは言えないと明確に答えることができる。まさに、そこに神様の支えがあったのだと思わざるを得ないのです。

今日の聖書の箇所は、主イエスが「わたしは世の光です」と宣言なさったところです。人生にはさまざまな闇が存在します。学生の時、仕事をしている時、家族の中にいる時でさえ、人は闇を抱えています。誰にも話すことのできない悲しみがあります。孤独の闇があります。理解してもらえない闇もあれば、人を傷つけてしまったという闇もあるのです。

今日はクリスマスです。クリスマスの喜びを共に覚えながら礼拝の時を持ち、また、先ほど洗礼入会式をいたしました。クリスマスは、闇の世界に光が灯されたことを祝う時です。そして、まさに、ヨハネの福音書のみ言葉を順番に聞き続けてきながら、この朝、主イエスの言葉、「わたしは世の光です」という言葉を私たちは聞いているのです。闇の世界に、主イエスによって光がもたらされた。これがクリスマスの喜び、すべての闇を感じている人にもたらされた喜びの光なのです。

ヨハネの福音書の7章は仮庵の祭りの時の出来事が書かれていました。この8章も途中主イエスが姦淫の罪の女を赦された物語を間に挟んでいますけれども、この仮庵の祭りのすぐ後の出来事です。仮庵の祭りで、前に話しましたけれども、この期間は毎日、神殿の奥にシロアムの池から運ばれた水が注がれました。そして、その時に、主イエスは「わたしは生ける水だ」と語られたのでした。けれども、この水が注がれる神殿の奥にまで入ることができるのは男たちだけでした。そこから少し降りたところに、婦人の庭というのがあります。そこまでは女も入ることができました。そしてこの婦人の庭にこの20節に記されている、ここでは「献金箱のある所で」となっていますが、最近の翻訳では「宝物殿」と訳されるようになりました。同じ言葉が使われています。この記述によって、それが婦人の庭での出来事だったことが分かるのです。そして、その庭には四本の燭台があります。日が暮れると同時にその燭台の灯火に火が灯されます。この燭台は高いところにあったので、どこからでも見ることができたようです。そして、それぞれに松明を灯して、人々は夜通し歌と踊りをしながらこの祭りの間中祝ったのだそうです。この仮庵の祭りというのは、水の祭りであるのと同時に火の祭りでもあったようです。

私たちも、今日は第四アドベント主日ですから、前に準備されているアドベントクランツの四つの蝋燭すべてに火が点けられています。そして、あの時、主イエスがこのような四つの蝋燭に火が点けられたのを見ながら、わたしが世の光ですと言われたように、私たちもこの主イエスの言葉を聞いているのです。

今日、洗礼を受けたIさんにも、またこの礼拝をお集いのみなさんにも覚えていただきたいのですけれども、主イエスが「わたしは世の光です」と言われたことを深く心に刻み込んでいただきたいのです。今日の箇所について、今日は丁寧に解説をする時間がありません。けれども、ここで語られているのは、神を知りたいと願うのであれば、わたしを知りなさいと主イエスが言っておられると言うことです。主イエスを知ることは、神を知ることなのです。そして、その主イエスが、わたしは世の光、世界の光なのだと言われたのです。

世界がどれだけ暗くとも、どれほど濃い闇に包み込まれていようとも、主イエスはこの世界に光をもたらすことがおできになるのです。

今年、わたしが主の日の礼拝で説教をするのは最後です。先日も祈祷会で今年の年間聖句を思い起こしながら、分かち合う時間を持ちました。今年、私たちに与えられている年間聖句は、ローズンゲンによるものですけれども、詩篇73篇28節です。

しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。

毎年、ローズンゲンの年間聖句から元旦に説教をし、一年このみ言葉を心に留めて歩むようにしています。今年を振り返っても色々な出来事がありました。ロシアのウクライナ侵攻、韓国と中国との領土問題、パレスチナで今なお起こるテロ、先日も百五十名を超える子どもたちがテロの犠牲となったばかりです。また、今年の言葉は「税」だったそうですけれども、消費税が増税され、円安のために輸入品の値段が大幅に上がりました。選挙が先週行われましたけれども、投票率も低く、国民が期待を抱けるものがなくなっている中に私たちは置かれています。「しあわせ」という言葉がむなしく響く世の中にあって、けれども、「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」というみ言葉をもう一度思い起こしているのです。元旦にもお話ししました。この詩篇の作者は人との比較の中に幸いを見つけようとしていたけれども、主の前で礼拝をささげている時に、発見をします。神に覚えられていることが、幸いなのではないかと。神が、わたしに目をとめてくださっている。世の中がどうであったとしても、深い闇にのみこまれてしまっているように見えようとも、主がここに光をもたらしてくださる。この主が与えてくださる確かさの中に、私たちの幸いはあるのです。

「わたしは世界の光です」と主イエスは語り掛けてくださるのです。闇に世界が支配されることがないように、悲しみに、歎きに、憤りに飲み込まれてしまうことのないように、わたしはあなたの光となる。わたしこそが、光なのだと、主は語り掛けてくださるのです。このように語り掛けてくださる主イエスと共にあるときに、私たちは闇の中に自分は生きているのではないという確かさに気付かされるのです。私に目をとめてくださる主がいてくださる幸いを発見することができるのです。そして、わたしを照らしてくださる光によって、多くの人々がそこから慰めと、喜びを見つけ出すこともまたできるのです。

この光をもたらしてくださったクリスマスの喜びを、私たちは共に味わいつつ祝いたいのです。心からの喜びをもって、クリスマスをお祝いしようではありませんか。

お祈りをいたします。

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