2015 年 2 月 15 日

・説教 ヨハネの福音書10章1-6節 「羊飼いであられる主に導かれ」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:36

2015.2.15

鴨下 直樹

私事で始めて恐縮なのですが、ドイツにおりました時に最初の一年の間、ヘッセン州のズィーゲンという町のはずれにあります小さな村で生活していました。ドイツ人の友達が私たちのための家を用意してくれたので、その友人のところから始めの一年語学学校に通いました。学校は午前中しかありませんので、午後からは学校で出された宿題をします。最初はそれこそすべての単語を調べなければ分からないという具合でしたから、宿題が終わるのに6時間かかるというような進み具合です。当然、すぐに飽きてしまいます。幸い、家の前には牧場が広がっていて、牧場の周りの森を散歩することができます。私たちは犬を連れていっておりましたので、犬と一緒に単語帳を持って毎日その牧場の間の道を小一時間散歩するというのが日課でした。

色々なところで何度も話していることですけれども、その牧場の手前側は羊が放牧されています。奥の牧場は牛です。牧場と牧場の間に小さな小道があって、散歩をする人たちはその小道を歩きます。動物はその道の方に出てこないように電線が張り巡らされておりまして、そこには常に電気が流れています。牛や羊が外に出てしまわないようになっているのです。ですから、今は羊飼いや牛飼いが一日中面倒をみているということはありません。ただ、数日ごとに、入れられている囲いの草を食べつくしてしまいます。すると、羊飼いが現れまして、羊を隣の囲いに誘導します。といっても、羊飼いは何も大変なことはなくて、羊飼いが歩いて行きますと、羊たちはぞろぞろとその羊飼いの後ろをついていきます。いつも見ていた牧場では牧羊犬もいましたけれど、ほとんど何の役にもたっていないように見えました。面白いことに、牛を移動させるときは反対で、牛飼いは手に棒を持って牛たちの一番最後から声を出して、牛のお尻を軽くその棒でたたきながら移動させます。

はじめて、この羊飼いが羊を導く姿を見たときの感動は忘れることができませんでした。聖書に書いてある通りだと思ったのです。私などが散歩の途中に羊に近寄っていっても、ある距離まで近づきますと逃げていってしまいます。後で知ったのですけれども、いつも見ている家の前の丘の牧場の羊は、友人の父親の羊だとわかったので、時々その友達に羊のことについて色々聞かせてもらうことができました。

今日の聖書の箇所は主イエスのなさったたとえ話です。先週、パリサ人たちにあなたがたは見えていなければならないものが見えていないのだと主イエスは語り掛けられました。今日の箇所はその続きです。ですから、このたとえ話は、パリサイ人に向かって語りかけられた話だということをまず理解しておく必要があります。

自分たちは聖書のことは分かっている。神様のお考えは見えていると考えていました。その人たちに主イエスは、羊を盗みに来る者と、羊の牧者との違いをお話になったのです。ところが、この主イエスの話を聞いたパリサイ人たちはどういう反応をしめしたのかというと、最後の6節にこのように記されています。

イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。

何が分からなかったのでしょうか。それほど難しいことが書かれているようには思えないのです。 そこで、少しづつ内容を考えてみたいと思います。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。

と、そのように書かれています。先ほどドイツの現代の牧場の話をいたしましたが、もちろん、この聖書の書かれたころはそれよりも2000年も前のことですし、また地域も違いますから、全く同じということはありません。今のような電気を流す囲いのようなものはなかったでしょうから、何かで柵を作ったのか、あるいは岩間づたいに柵をしたというところもあったかもしれません。いずれにしても、それぞれの羊を分けるために柵がありました。白い羊のため、まだらの羊のためそんな分け方をしたのかもしれません。旧約聖書の中には色々な羊をめぐる出来事が書かれています。大変たくさんの羊を飼っていましたから、当然、柵が必要になったことでしょう。柵をして羊を分けるということは、必ず羊を出し入れする入り口を作らなければなりません。そこに、門番をおいたのでしょう。そして、門番に開けてもらって、羊飼いたちは自分の羊を連れだします。そこで、羊に声をかける。ひょっとすると名前をつけていたのかもしれません。

私が羊飼いのお父さんを持つ友達に羊の話をいろいろ聞きます。まず聞きたかったのは、どれも同じに見えるけれども見分けはつくのかという質問です。彼は、君たちが買っている犬だってアメリと言う名前を付けて同じ種類の犬と簡単に見分けがつくだろう、それと同じだと言われました。片方の耳がないのや、目の上にこぶがあるやつ、一匹一匹違いがあります。彼は、僕だって何匹かは見分けることが出来る。全部は無理だけどと話していました。

また、私たちが最後の半年を過ごした町で、教会のインターン実習に行きましたが、その教会にも色々な人がいます。特に仲良くなった家族はやはり家畜を飼っている家で、彼の家は牛を飼っていたのですが、よく、絞ったばかりの牛乳をいただきました。そのまま藁の匂いがする牛乳です。その家にも週に一度くらい遊びに行っておりましたので、色々な場面を見たのですが、家の主人に向って牛たちが鳴きます。すると、彼は大きな声で、「ヤーコプ、まだだ」と言うのです。牛たち一匹ずつに名前を付けていることにも驚いたのですけれども、鳴き声を聞いただけでそれがどの牛の声なのかも分かるのには驚きました。しかも、彼の子どもたちにはそんな優しい声をかけたことがないような声で牛には話かけるんです。この牛たちは幸せだなぁと思いました。

まさに、そのように、羊飼いは自分の羊に声をかける。一匹ずつ愛する者をいとおしむように声をかける。だから、羊も、羊飼いを信頼します。この羊飼いについて行けば大丈夫なのだということが、毎日毎日、一緒にいればいるほどその信頼は増していくに違いないのです。

教会でみ言葉を語る説教者のことを牧師と言います。このところに記されているような羊飼いを連想して生まれてきた言葉です。たとえば、牧会という言葉があります。教会を牧する、羊の群れを教会にたとえてのことです。今話しましたような、自分の羊の名前を呼び、羊飼いへの信頼を深める羊と羊飼いの関係を、教会の牧師と教会に集う人々とを思い浮かべています。

ただ、注意しなければならないのは、この聖書に記されているのは、主の働きが、この羊飼いのようなのだということがここでまず語られているということを覚える必要があります。自分でこう言ってしまっていいかわかりませんけれども、間違いなく、主はよき羊飼いです。けれども、うちの牧師は・・・と比較されると、私自身もうどうしていいかわからなくなってしまいます。まして、今日はこの後、教会総会ですから、みなさんに嫌われないようになどとやっていますと、ますます聖書が語る牧者のイメージからははずれていってしまうことになります。

はじめにお話ししましたけれども、この話はパリサイ人に向けて語られたたとえ話です。牧師とはこうあるべきだということを教えるために書かれたのではありません。パリサイ人たちは、自分たちは真剣に聖書と向かい合って、まじめに信仰に生きようとしていました。ですから、そういう自分たちに向って、主イエスがここで羊飼いの話をしているのが、何のことなのかさっぱり分からかったのです。

羊飼いは、自分の羊をよく知り、大切にして声をかけ養います。しかし、5節にはこのように書かれています。

しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」

つまり、主イエスはここであなたがたはまじめに、真剣に聖書と向かい合っているつもりなのかもしれないけれども、そうやって大きな声で騒ぎ立てるばかりで、羊そのものに目をむけないで、かえって羊を恐れさせ、逃げさせてしまっているのだと、主はここでお語りになられているのです。

パリサイ人というのは、当時のユダヤ人社会の中では宗教的に立派な人々でした。高潔という言葉がぴったりくる人々だったのかもしれません。人々がどんどん怠惰になっていくなかで、自分たちこそが信仰をしっかりとしなければ、イスラエルの国は腐敗してしまうと考えて、周りの人々を叱咤激励しながら、正しい方向に導きたいと考えていた人々だったと考えることもできるような人たちだったはずなのです。聖書を読みますと、いつもパリサイ人は目の敵にされて、悪玉の親分のようなイメージを持ってしまいやすいのですけれども、そうではなかったはずです。だからこそ、ここで主イエスが何を話しておられるのが、身に当たる覚えがなかったので、何を言っているのか分からなかったということなのです。

しかし、その心の中にどのような情熱があったとしても、それこそ、素晴らしい動機をもっていたのだとしても、神様のために良いことをしたいと真剣に願っていたのだとしても、欠けているものがありました。それが、羊に目を留めるということだったのです。

自分たちのやりたいこと、自分たちの言いたいこと、自分たちの中にある思いにはいつも目を留めながら真剣に考えるのですが、自分たちが本当に見なければならないイスラエルの人々、羊の姿は何も見えていない。恐れてしまって、震え上がって、今にも逃げ出そうとしいているのに、そのことには気が付いていない。そんな姿が、ここで明るみになってしまっているのです。

私たちがそこで知らなければならないのは、私たちの主は、私たちをまさに、愛情にあふれた羊飼いのようなまなざしで、私たちをみつめていてくださるのだということなのです。パリサイ人が真剣になっている以上に、私たちの主は真剣に、私たちをみつめつづけていてくださるお方なのです。だから、羊飼いの後を追っていけば、美味しい草が食べられるということも体験的に分かってきます。羊飼いが名前を呼んでくれるということが、自分にとって最善のことをするために、何か必要があって名前を呼んでくれているのだということが分かるのです。私たちの主は、まさに、そのような羊飼いとして私たちを見つめ、声をかけ、導いてくださるのです。

今日、この後、教会総会を行いますが、何よりも、この群れを主が見つめていてくださるのだという深い信頼を持って、この私たちの群れを、主が声をかけ、導いてくださるのだと信頼しつつ、総会の時を迎えたいと思います。

お祈りを致します。

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