2009 年 8 月 9 日

・説教 「ノアの箱舟5 平和に潜む罠」 創世記9章20-29 

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:24

鴨下直樹

 いよいよ、今回でノアの物語は最後になります。 これまでノアの生涯をみてまいりましたけれども、本当にノアは神と共に歩んだということが分かる素晴らしい生涯でした。けれども、今日の個所は少し違います。この最後のところでノアの失態が物語られているのです。

 私は聖書を読みながら時々思うのですけれども、聖書の中に現れる信仰者の姿というのは、いつも完璧ではないなと思うのです。信仰の父と呼ばれたアブラハムにしても、旧約聖書の代表とされるモーセも、あるいはあのダビデ王ですらそうです。誰もがどこかで過ちを犯しています。聖書はそのような事柄を隠そうとはしていません。ここでも同じです。ノアは、神の目にかなうただ一人の正しい人物であったはずです。ところが、聖書はそのような正しい人ノアの失態を描くのに何の躊躇もないのです。

 このことは、本当に厳しい問いを私たちに突きつけていると言わなければなりません。

どんなに立派な人物であったとしても、自分は大丈夫だとは言えないということだからです。

 ノアのような信仰の模範とすべき人物であったとしても、気を許してしまうならば、人はたちどころに罪を犯してしまうのです。どれほど長生きしたとしても、どれほど長い間主と共に歩み続けたとしてもです。つまり、罪ということには定年制というものがないということです。罪は年齢に関わらず、あるいは経験に関わらず、いつでも気を引き締め続けていなければならない事柄なのです。もうここまできたから大丈夫、信仰の歩みを長く続けてきたから大丈夫とは言えないということを、私たちは心に刻みつけておかなければなりません。そういう意味で言えば、神はこのノアに有終の美というものをお与えにはならなかったのです。

 

 しかしながら今日の聖書を読むと、私たちはノアに同情することはできます。長い生涯の歩みがありました。ノアは家族とともに箱舟を作るという大仕事をやってのけ、自分の家族だけが大洪水の中から救い出されたのです。ノアの一生は九百五十年であったと最後に書かれています。そして、洪水の後も三百五十年生きたのです。その時のことです。長い間生きてきて、その晩年にノアは今や一人の農夫として土に向かい、これを耕し、収穫の喜びを得ることができるようになりました。晩年の本当にささやかな喜びだったと言ってもいいと思います。ところが、そうして得たぶどう酒がノアを失態へとうながしてしまったのです。

 

 先ほど私たちは、この創世記と並んでマタイの福音書24章32-44節の御言葉を聞きました。ここにはこう記されていました。

 

人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水の前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。(マタイ24章37-39節)

 

ここには、ノアの時代の人々は、洪水がくるまで神の裁きがあるとはわからなかったことが記されています。ノアの時代の人々は確かにそうでした。しかし、私たちにも同じことが言えます。そのような日は再び必ず来るというのです。だからこの言葉の続きにはこうあります。

 

 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。(マタイ24章42節)

 

この福音書で語られているように、このノアに起こった全ての出来事は人ごとではありません。私たちもまた同じように問われているのです。ただ私たちが忘れてはいけないことがあります。それは、ノアは神に正しいと認められた人でした。ですから、晩年に失敗をしてしまったとしても、神はその失敗をお赦しにならないような厳しいお方ではないのです。

 私たちは覚えていなければならないのです。いつも罪は、戸口で待ち伏せしているということを。

 

 けれども今日の聖書は、この罪が問われているのが実はノアではなく、その息子であったということが読んでみるとわかります。確かに、ノアはぶどう酒に酔い天幕の中で裸になってしまうという醜態をさらしてしまいます。それは問題ですけれども、神はここでノアを戒めてはおられません。そうではなくて、その時にノアの息子たちがどのような振る舞いをしたかということに、視点が置かれているのです。そしてよく見てみますと、このことのほうが実はもっと大変な問題であるということが分かるのです。

 

 ここで起こった出来事はそれほど複雑ではありません。天幕でぶどう酒を飲み、酔っ払ってノアは寝てしまっていたのでしょうか。それを息子のハムが見たのです。そして、この息子はその父親の姿を面白がって兄弟に告げます。

 ここで、息子ハムが何をしたかについては色々な考えがあるようですけれども、父親の酔った姿を面白がり、他の兄弟に告げたという事だけで十分でしょう。この息子は小さな少年だったわけではないのです。もう立派な成人です。成人というよりも、ノアの年齢から考えればかなりの年齢であったはずです。その息子が、神が正しいと認めている父親の、醜態を笑い者にしたのです。

 そしてこの物語は、これが非常に大きな罪であると描いているのです。つまり、ここで何が起こっているかと言いますと、それは父と子との関係の断絶なのです。創世記は初めにアダムとエバ、男と女の断絶を描きました。そして続いて、カインとアベルを通して兄弟の断絶を描き、ここでは、ノアとその息子ハムを通して親子関係の断絶を描いているのです。そのように、神によって新しくされた世界であったとしても、罪はますます広がっていったことをこの物語は語っているのです。

 

 聖書はこの父と子、あるいは両親と子どもとの関係についてあらゆるところで語っています。その代表的なところは、十戒の第五の戒めにあらわれています。

 

 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。

 

と、そのように出エジプト記20章12節に記しています。

 この父母を敬えという戒めがどれほど大切かは、この戒めが十戒の真ん中にあげられているところからもわかります。初めの四つの戒めは、神に関する戒めです。あとの六つの戒めは、私たちの生活に関する戒めですけれども、そのちょうど真ん中にこの戒めを置いて、神を大切にすることが自分の生活を築きあげる。そして、そのことは両親を敬うということにかかっているのだということが、ここで表されているのです。そのことからも、この戒めがどれほど大切にされているかがわかるでしょう。

 自分の上に立てられたものを敬うということは、もちろんそれは神を敬うことですけれども、そのことはまず、自分の両親を敬うということから始まるというのが、聖書の基本的な考えなのです。

 

 しかし、そう考えてみると、父母を敬うということがどれほど大切で、またどれほど難しいかということを、私たちはそれぞれが身をもって経験しているのではないかと思います。ある神学者は、自分が若い時代に、この戒めは最も簡単な戒めであると説教したことがありました。けれども、そう本当に言うことができるかと、後になって随分考えるようになったことが記されています。もっとも身近に接しているのが両親ですからそれは一面簡単なことです。けれども、同時にだからこそ非常に難しい事でもあるのです。

 

 私は以前、この同盟福音の学生たちの担当牧師をしていた事がありました。毎日のように学生たちと向かい合います。そしてその度に突きつけられていた問題は、両親との関係のことです。

 ある時、私が十戒のメッセージをしていました。「あなたの父と母を敬え」という聖書を読んだ時に、すかさず、聞いていた学生から「そんなことできん」という言葉が返ってきたのです。もちろん、学生という時期はちょうど反抗期を迎える時です。ですから、そのくらいのことは言えたほうがいいのかもしれませんけれども、これは一筋縄ではいかない問題です。

 子どもと向かい合うために両親は本当に格闘していると思います。けれども、学生たちも苦しんでいるのです。

 詩人の島崎光正という方が何かの書物で、「人生で一番厳しいのは中学生の時だ。」と書いておられたのを読んだことがあります。私はそれを読んだ時に初めは抵抗しながら、「そんなことはない、大人になったらもっと厳しいことがあるではないか。」と思いながら読んだのですけれども、すぐにその思いを改めました。その通りだと思うようになったのです。その時期と言うのは、何もかも自分で考えて自分で判断していかなくてはならなくなるのです。親に言われるままにではなく、自分でやり始めるのです。そして、自信もないのです。また、同時に反抗期ですから、親を当てにするということも申したくない。そういう時期に自分の将来について考え始めるわけですから、とても厳しい、まさに人生で一番苦しい時期なのだろうと思うのです。

 

 私はこのノアの物語を読む時に、息子のハムがとった行動の気持ちが少しわかる気がするのです。おそらくノアは立派な父親であったに違いないのです。子どもも尊敬してきたと思います。あの大洪水を経験し、神が自分の父親だけを正しいと認めたのですから、その父親の事を誇りに思ったに違いないのです。だからこそ、この親に逆らう事などできなかったのではないかと思うのです。

 実際に他の二人の息子たちは非常に優等生です。裸の父の姿を見ないようにして着物を掛けてやれたのです。この親から育てば、立派な息子として育っていったのだろうと思います。けれども、ハムはそうではなかった。その父を見て、この父がこんな失態を犯すのかと嬉しがったのです。自分と同じではないかと思ったのではないかと思うのです。はじめて父に親近感を感じたのかもしれないのです。

 

 考えていただきたいのですけれども、いつも完璧な両親、いつも正しいことばかり言う親の前で生きなければならない子どもは、どれほど苦しいかということを。

 ハムは思わず、ほらお父さんだってこういうことがあるじゃないかと、兄弟たちに言ってやりたかったのではなかったか。もちろん、それは間違ったことです。そんなことはしてはいけない事なのですけれども、そうせずにはいられなかったハムの悲しみがあったのではないかと私は思うのです。

 もちろんこれは私の勝手な想像です。そんなことを書いている聖書学者は一人もいません。間違っていることは間違っているのです。けれども私は思うのです。間違ってしまうものにも、それなりの理由があるのだと。

 

 興味深いのはこの後です。ノアはここで出来事を知った後で言います。

 

 「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」25節 

 読んでいると、あれ?ということになるのです。「のろわれよハムよ!」と言わないで、突然「カナン」という名前が出てきているのです。これはハムの息子の名前です。

この書き方は、創世記の書き方だと言ってもいいかもしれませんけれども、呪いの言葉はいつも直接に語られておりません。ハムを通り過ぎて、ハムの息子に向かいます。これはある意味で正しいのだろうと思います。ハムが父を軽んじたように、ハムの子もまた父を軽んじるようになる。そしてただそうなるのではなく、兄弟三人の中でハムの子孫は、弱い立場に立たされていくことになると物語られているのです。こうしてハムの子どもは、神から離れた一族としてこの後の物語で語られるようになっていきます。それがこの後に続く、バベルの塔を築きあげた権力者ニムロデへと続いていくことになるのです。 そしてこの時、父を辱めから守ったセムの子孫からアブラハムが生まれてくるのです。

 

 このようにしてその呪いが直接にハムに語られないのは、カインの時と同様に、ハムが神と共に生きることができるようにという配慮であったのかもしれません。

この物語は明確に罪の広がりについて語っています。ですから、ここで罪を犯してしまったハムに容赦はないのです。

 けれども私たちは知っています。神は、私たちの罪を赦されないようなお方ではないのです。テモテへの手紙 第一章 2章4節にあるように「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んで」いてくださるお方です。「救われて」というのは、この場合「悔い改めて」と言い換えてもいいと思います。

 神は、ハムのような者であったとしても、学生たちのような生きることに必死に戦っている者であっても、老年になってささやかな自分の人生の喜びを噛みしめているノアのような人であっても、神の真理によって生きることを願っていてくださるお方です。

 ですから失敗するのを恐れることはありません。ノアでさえ失敗することがあるのですから、私たちには当然のことです。問題は失敗した時にどうするかです。神は私たちが救われる事を願っていてくださるのですから、このお方の前に自らの誤りを認めて悔い改めることです。

 このことに私たちはおっくうになってはなりません。私たちが悔い改める時、私たちは神の真理に生きることができるようになるからです。主イエスは「真理はあなた方を自由にする」とヨハネ8章32節でお語りになりました。

 神は、私たちがそのように自信を無くして生きるのではなくて、自由に喜んで生きることを願っていてくださるのです。ですから、このお方と共に生きるために悔い改めつつ、信仰の歩みを歩んでいきましょう。

 

 お祈りをいたします。

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