2015 年 6 月 7 日

・説教 ヨハネの福音書12章27-36節「光のうちを歩みなさい」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:12

 

2015.6.7

鴨下 直樹

 
 先週の礼拝の後の報告の時間に、一つの映画の紹介をしました。「レフト・ビハインド」という、キリストの再臨をテーマにした映画です。小説にもなりまして、ずいぶん多くの人々に読まれたようです。キリストが再臨された時に、クリスチャンだけが天に挙げられる、携え挙げられると書いてこれを、携挙(けいきょ)といいますが、この携挙をテーマにした映画です。この携挙という言葉は教会でも最近あまり語られなくなっていますのであまり聞いたことのない方もあるかもしれません。

 テサロニケ人への手紙4章16節と17節にこういう言葉があります。

「主は号令と、み使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から来られます。それらからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている者たちが一挙に引き上げられ、空中で主と出会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」

 このみ言葉に語られている点に一挙に引き上げられて主と再会する。そして、その人々は天に上げられる。そうすると、もし、キリスト者だけがその時に天に携え挙げられるのだとすると、残された人々はどうなってしまうのだろうか。そのことを問題にしたのが、今月末に行われるこの「レフト・ビハインド」という映画です。ただし、みなさんに知っておいていただきたいのは、これは一つの聖書の解釈であって、必ずそうなるという意味ではありません。少なくとも私はそのようには信じていませんし、そのようになると聖書が言っていると単純に言うことはできません。

 私たちの教会でも、少し前にヨハネの黙示録を学びました。そこには、地上の人々が天に引き上げられるということは書かれておりません。むしろ、天から新しいエルサレムが天から下ってくだって来ると書かれています。まして、この初代の教会の時代というのは、まさにキリストがすぐにでもおいでになると信じていましたら、そのためにいつキリストが来られてもいいように信仰に生きようということが強調されて語られていました。しかし、キリストの再臨はすぐには起こりませんでした。けれども、だからと言って教会はキリストのもう一度おいでになるという、この再臨を語ることをやめたわけではありません。私たちは今も、キリストが再びおいでになるとの信仰に生きています。ただ、それは、クリスチャンだけが天に行ってしまって、残りの人がどうなるのかということは、想像としては心に抱くことですけれども、そこは聖書が強調していることは、残った人々がその後どうなるのかということではありませんから、そこだけに視点を当てて将来のあり方がまるでそう決まっているように聖書が書いていると理解することは気をつける必要があります。

 なぜ、この話を説教の冒頭からしているのかといいますと、もちろん、映画を見られる方が、変な危機意識をもった終末の理解をしてほしくないということもありますが、同時に、今日のヨハネの福音書はこのキリストが挙げられることについて記していますので、このキリストが挙げられるという言葉は確かにさまざまなイメージが生まれて来たなということを考えさせられるからです。

 ただ、ここでも、誤解しないようにしなければならないのですが、先ほどは携挙について、私たちキリスト者が再臨の時にキリストに携え挙げられるということについてお話しましたけれども、このヨハネの福音書に書かれている「キリストは挙げられる」と書かれているのは一般に「高挙」と言われます。高く挙げられると書きます。挙げるという字は、例はあまりよくありませんけれども、警察に検挙される、という時に使う「挙げられる」という言葉です。

 今日のヨハネの福音書の箇所は、話しの流れはそれほど分かりやすく書かれてはいません。27節では

わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。「父よ。この時からわたしをお救いください」と言おうか。いや。そのためにこそこの時に至ったのです。

 とまず記されています。この祈りはまるで他の福音書のゲツセマネの祈り、あの「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と十字架の直前に苦悩された主イエスの祈りのような響きがここにあります。ここに記されている主イエスの祈りには、主イエスの心のうちの葛藤が描き出されています。

 ところが、続く27節で主イエスは「父よ御名の栄光を現してください」と祈られると、すぐにこうあります。

「そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう」

 他の福音書とこのヨハネの福音書の決定的な違いは、主イエスの苦悩はここではそれほど描き出されていないということです。すでに栄光を現したというのは、簡単にいうと、これまでの主イエスの生涯、特にラザロの復活までの生涯において、神はすでに示そうとしておられる神の栄光をお示しになられたということです。そして、もう一度、というのは、この後、主イエスの十字架と復活によって現されるということです。

 そうすると、29節ですぐに

そばに立っていてそれを聞いていた群集は、雷がなったのだと言った。他の人々は、「御使いがあの方に話したのだ」と言った

とあります。このような箇所を読みましてすぐに思い起こしますのは、主イエスの変貌と言われる出来事です。山の上に三人の弟子たちだけ連れて行きまして、そこでモーセとエリヤとが現れて、神が語り掛けておられます。あるいは、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時にも「天から声がした」とあります。こういった箇所はヨハネの福音書には記されていませんけれども、今日のところを読みますと、それが形を変えて出て来ているような印象を受けます。

 ただ、大切なのは、この後の部分です。

イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き上げます。」

と30節から32節までに記されています。

 これが、説教の冒頭でお話ししました「キリストの高挙」と言われるものです。キリストが地上から上げられることがここで語られています。けれども、私たちが「キリストが地上から上げられる」という言葉を聞くときに、すぐにイメージするのはキリストが復活して天に挙げられるということよりも前に、キリストが十字架にかかげられるということです。

 すでにヨハネの福音書の3章の13節と14節にこう記されています。

「誰も天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」

 ここに記されていましたように、主イエスが挙げられるというのは、かつてイスラエルの民が蛇に噛まれて多くの人々が死んでしまったときに、聖堂の蛇を掲げてそれを見上げた者は癒されるという出来事を経験しました。その時のように、主イエスの十字架を見上げるものは救いを得るということがまず記されています。

 ヨーロッパの町を観光されて、教会に足を運んだことのある方はどの教会にもキリストの磔刑がありますので、それをご覧になることはあると思います。本当に、さまざまな磔刑像が掲げられています。ドイツのヴュルツブルクという大変美しい街があります。私はその町に私の好きなリーメンシュナイダーという彫刻家の作品が数多く残されていますので、ドイツにいました時に、何度もこの町に足を運びました。

キリスト磔刑像 この町にノイミュンスターという教会があります。この教会にはリーメンシュナイダーの聖母子像があることで有名ですが、この聖母子像の反対側にキリストの磔刑が置かれています。普通、手は十字架につけられているのですが、このノイミュンター教会の磔刑は、両手にくぎがうたれたままで、人を抱きしめるような姿をしています。この作品は作者が誰であるかも分かっていません。ただ、14世紀中ごろの作品だということだけが分かっています。

 実はこの箇所の加藤常昭先生の説教の中に、このキリストの十字架像のことが話されていましたので、確か行ってみたはずだと思いまして、ドイツの資料をいろいろ探し回りました。というのは、私は、ドイツの色々な観光地に行きますと、パンフレットだとか、ハガキを買い求めます。それで、色々な街ごとにその町でいただいたパンフレットだとか絵葉書をストックしていつでも見られるようにしているのです。幸いに、そこを捜しておりましたら、この教会を訪れたときに絵葉書を買っていました。その絵葉書の裏側を見ますと、そこにはヨハネの福音書12章32節のみ言葉が書かれています。

「わたしが地上からあげられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」

 みなさんにもこの写真をみていただきたいと思うのですが、十字架の主イエスの手が十字架にかけられていないで、抱き寄せるような姿をしています。このようなキリストの磔刑図と言うのはほとんど例がありません。しかも、14世紀中ごろということは、まだルネッサンスの前の時期です。ということは、作者が自分の名前を残すようになる前のことですから、誰の作品か分からないのも当然のことなのですが、明らかにこの作者はこのヨハネの福音書12章32節のみ言葉を思い描きながらこの作品を作ったに違いありません。

 まさに、イスラエルの人々が青銅でつくられた蛇を見上げて救われたように、十字架に挙げられたキリストを見上げることを通して、救いを得る。ヨハネの福音書はそう語っているのだと物語っているのです。

 「自分のところに引き寄せる」と語り掛けてくださる主のお姿を、この作者は心にとめていたのでしょう。主イエスは、わたしたちをご自身のところに引き寄せるために十字架につけられ、そして、また、復活して後に、天に挙げられそこにも私たちを引き寄せてくださる。そのよに、主はここで語られたのです。ここに、深い慰めの言葉があります。

 しかし、この言葉を聞いた、当時の人々はこの主イエスの言葉を慰めの言葉として聞き取ることはできませんでした。というのは、まさに、人々はエルサレムに入城されたキリストのこれからを期待していました。けれども、私は死ぬのだと言われているということがどうしても理解できなかったのです。それで、彼らは主イエスにこう尋ねました。

私たちは律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とは誰ですか

と尋ねました。34節です。

 興味深いのは、ここで人々は主イエスが語っておられることは、人の子が終わりの時にどのような役割をもっているのだということは理解していたということです。けれども、わからないのは、今、主イエスはエルサレムに来られたばかりなのに、どうして、自分が死ぬということを言っておられるのか分からないということでした。
その答えとして35節と36節の言葉があります。

イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。あなたがたが光のある間に、光の子どもとなるために光を信じなさい。」

「しばらくの間、光はあなたがたの間にあります。」と主は語られました。ご自身が光なのだと言われたのです。けれども、その光がある間、というのは、31節では「今がこの世のさばきです」と言われています。この31節では二度にわたって「今」と語り掛けています。十字架に挙げられ、主イエスがそこで人々に手をさしのべている今、主イエスが人々をご自分のところに引き寄せようと言われている「今、この時」に、この光をつかみ取るのだと主イエスは言われるのです。

 説教の冒頭で、レフト・ビハインドというキリストの携挙を取り扱った映画の話をいたしました。キリストが今来られたら、あなたは大丈夫かという問いは、小説でなくても常に私たちは問われていることです。今、この時に、光の主イエスを信じるように招かれているのです。なぜなら、今が、この世のさばきの時だからです。この主イエスがおられた時から、今に至るまで、世界は神のさばきの中に置かれています。そして、その時に、神が与えてくださる光に生きるのか、この神のさばきの世界のとどまることを選ぶのか、それは常に、今、私たちはどうするのかという信仰の決断の前に立たされているのです。そして、そのさばきの世界というのは、他のだれでもない、神の御子、主イエスが私たちに救いをもたらすために、十字架に挙げられると言う、キリストが裁かれている時なのです。キリストは、ご自身、裁きをお受けになることによって、私たちをご自身の光のもとに引き寄せてくださるのです。その光に招かれる主イエスの御腕に、今、私たちは招かれているのです。

お祈りをいたします。

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