2015 年 6 月 14 日

・説教 ヨハネの福音書12章36節後半-50節「主イエスを信じる者」

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2015.6.14

鴨下 直樹

 
 今、ヨハネの黙示録を改めて読み返しています。といいますのは、いのちのことば社がマナというディボーションの雑誌を出しているのですが、ゴールデンウィークに行われたCS教師研修会の分科会の講師に、いのちのことば社の編集長を招いていたので、そこでこの雑誌のための原稿を依頼されたのです。こちらとしては奉仕を依頼した手前、断ることもできず、ディボーションのテキストの原稿の依頼を受けました。ところが、これがおもったよりも大変でした。というのは、その冊子は一日2章ずつ読むことになっていまして、その中から10節ほど選びまして、700文字で解説を書くことになっています。ヨハネの黙示録というのは他の箇所と違いまして、ある個所だけを解説しても、全体の流れがつかめないとさっぱり意味が分かりません。それで、今どうやってこれを700字でまとめたらいいのかと四苦八苦しているのですが、そのためにも、ずいぶん丁寧にヨハネの黙示録を読み返しています。じっくりと読んでみまして、改めて考えさせられるのは、主が何度も何度も地の人々に悔い改めを迫っておられるのに、人々は頑なで悔い改めることをしないという人の心の頑なさです。ヨハネの黙示録は人間をそのように理解をしているといえます。

 先週説教した箇所で、主イエスは「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」と語られました。36節の前半です。ヨハネの黙示録を読んでいますと、本当にこの言葉に尽きると言っていいほど、黙示録の内容がこの言葉の中に込められている気がしてなりません。もう遅いという時が来る前に、悔い改めて神の光の中を歩むように主は招き続けておられるのです。

 今日は、この36節の後半部分からですが、そこではいきなりこう書かれています。

イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。

 光のある間に、光の中を歩むように主は招かれて、その直後から、もう主イエスは人々の前に姿をお現しにはなりません。次に姿を現されるのは、18章のピラトによる裁判の場面です。人々はこのあいだ、神の光を失ってしまうのです。ここを読んでいてもそうですし、ヨハネの黙示録を読んでいてもそうですけれども、私たちはどこかで、まだ、大丈夫と考えてしまっているところがあります。神を侮ってしまって、今という大切な時を見逃してしまうのです。

イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。

と37節にあります。今日、私たちに与えられているこの箇所は、主イエスのこれまでの伝道の生涯のまとめの言葉だと言うことが出来ます。そして、この部分の言葉には、とても残念な響きがあります。主イエスがその生涯をかけてご自分のしるしを行われたのに、人々は信じなかったのです。

 主イエスの働きを見たにも拘わらず、人々は自分の心にとめることは出来ませんでした。これまで、ヨハネの福音書には何度も、何度も、「それで大勢の人々がイエスを信じた」と書かれていました。しかし、それは、本当の信仰にいたることはなかったのです。それは、まるで、まだ、明るいから大丈夫、今日くらいはまだ、神様に対して誠実に応えなくても大丈夫と考えてしまう、主イエスの言葉を真剣に聞くことのできない人の姿がここに現されていると言えます。私たちにしてもそういう部分があります。礼拝にいくのは今度でも大丈夫、お祈りをするのは、今日はもう疲れたので明日でも大丈夫、神様のことを友達に伝えるのは次の機会でも大丈夫。私たちはそのように考えてしまって、イエスが主であることを生活の中で証することができなくなってしまうことが度々起こるのではないでしょうか。

 ここにイザヤ書53章の一節が引用されています。

主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。

このイザヤ書53章は苦難の僕と呼ばれるところです。主の僕は様々な患難の中で、それはまるでほふられる小羊のように、苦難を耐え忍ばれると記されているところです。ただ、興味深いのは続いてこう書かれています。

彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」

とあります。

 彼らを主がいやすということはないのだとここに書かれているのです。とても厳しい言葉です。ここで「彼ら」と言われているのは主イエスの働きを見て来た群集のことを指しています。このあとの42節にこうあります。

指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。

 「隠れキリシタン」と言ったらいいでしょうか。私たちの周りにもたくさんの人たちがこう言います。「キリスト教は良い宗教だと思います。でも、うちは違う宗派なので」と。あるいは、「私も聖書は読んでいるのですが」と言う方もたくさんいます。私たちはキリスト教に好意を寄せてくれる方の言葉を聞くと嬉しくなります。けれども、自分はその信仰を人前で告白することはできない。自分はキリスト者だと人に言うことができない。なぜなら、村八分にされるからです。社会で白い目でみられたくないので、そこまで深入りはしたくないのですと考える人は少ないとは言えません。ひょっとすると私たちの中にも同じような思いが浮かぶこともないとは言えないでしょう。

 けれども、ヨハネはここで、そのような人たちが主と出会ったとしても、目で見て、回心して、癒されるということはない。そのようにイザヤ書に書かれているのだと書いています。けれども、イザヤ書を見てみますとこの部分の言葉は書かれていません。けれども、ヨハネはこのイザヤ書53章にはそのように書かれているのだと、理解したのです。そして、そのヨハネの理解は間違ってはいないと思います。

 何故かというと43節にこうあります。「彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。」と。神を畏れるよりも、人の顔色を恐れたのです。神があがめられることよりも、自分が人から嫌われないことの方を優先させたのだと。

 これは、私たちキリスト者にとってもよく心して聞く必要のあるみ言葉です。私たちがそこで見ているのは何かということです。「人の栄誉を愛した」とある言葉を私は今「人から嫌われないことを優先させた」と言いましたが、ここで人が見ているのは何かというと、自分がこの世界で人から認められて生活することが何よりも大事だとみているということです。少し言い方を変えた方がいいかもしれません。私たちの生きている世界というのは、人の顔色を見て生活していないとすぐにでも谷底に突き落とされるような危険があるので、私たちはどうしてもそれに怯えていなければならなくなっているのです。みんなが、みんな、人の顔色をみながら、どうやったら嫌われないか、どうしたら目立たないか、どうしたら人から変な目で見られないですむか、そういう人の目に怯えてしまうのです。なぜか。それは、どう生きることが正しいことなのか、皆、自信がないからです。だから、お互いに目を配りあって、違うことをしないように、道を踏み外さないように監視しながら生きるしかないのだと考えてしまうのです。けれども、それは、まさに、闇に支配された生き方です。

 主イエスは言われます。「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」と46節にあります。
 主イエスは、私たちが人の顔色に怯えながら生活する姿をみながら、それは、闇の中を生きているのと同じだと言われるのです。しかし、主イエスはそうではなくて、人を恐れて生きるのではなく、まさに、太陽の光に照らされてさっそうと生きることが出来るように、主イエスは私たちが光の中で生きることが出来るようにと、私たちを招いてくださるのです。

 この44節を読みますと、「イエスは大声で言われた」とあります。少し考えるとおかしなことが書かれています。主イエスは人々の前から姿を消したと、その前に書かれているのです。人から姿を消しておいて、誰に向かって大声を上げておられるのでしょう。聞く者もいないのにと、つい考えてしまいます。おそらく、ヨハネはここで主イエスは誰かに向って叫んだというよりも、この言葉を、言ってみれば主イエスの人に対する結びの言葉、宣言として語られたのだと、これまで主イエスが語られたことをここで、主イエスの宣言の言葉として、それも、まさに、叫びだしたいほどの思いで語られた言葉として主に叫ばせていると考えられます。

 ここで、主イエスは、

だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです

と言われました。47節です。「おまえはこんなに神の前に間違った生き方をしているではないか!」と私たちを叱りつけるためにこられたのではないと言うのです。もし、主イエスが叱りつけられるお方だというのであれば、それは、やはり人は、今度は人の顔色を恐れる代わりに、主イエスの顔色を恐れて生きなければならなくなります。それでは、裁く相手が変わっただけのことです。けれども、主イエスはわたしたちを赦すためにこられたのです。人を断罪するのではなく、人を赦し、人が光の中でいきることができるようになるために、主イエスは来られたのです。

 そして、主イエスの言葉はつづきます。

わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。

48節です。つまり、主イエスはここで主の光の言葉をうけいれないならば、神を畏れないで、畏れるというのは恐怖の「恐れ」ではなくて、畏敬の念を持つという意味の「畏れ」です。このお方を神として敬わないで、人の顔色を恐れてしまって、結局は自分の思いに生きることを選ぶならば、主がここで語られたとおりに、闇の中を生きることを選んだのだから、それはそのまま自ら滅びを招くことになるのだと主は言われるのです。

 主イエスを遣わされたお方は、赦しの神です。光を与えるお方です。そして、この最後の50節にあるように、「永遠のいのち」を与えるお方です。このお方を受け入れなさいと、主イエスは大声で叫んでおられるのです。ここにこそ、あなたを生かす道があるのだと、主はその生涯をかけて宣言なさったのです。私たちは、この神が遣わされた主イエスを受け入れ、主イエスを信じる時に、この神の光の中を、神の赦しの中を、神が与えてくださる永遠のいのちに生きる者とされるのです。

お祈りをいたします。

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