2015 年 11 月 8 日

・説教 ヨハネの福音書17章6-19節「悪い者から守られ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:32

 

2015.11.08

鴨下 直樹

 
 先日、子どもを幼稚園に乗せていく途中、娘が急に質問をしてきました。「ねぇ、神様は誰かがつくったの?」と言うのです。いつも、この世界にあるすべてのものを神様がお造りになられたという話をしているので、何かのきっかけがあって急に疑問がわいたのでしょう。私が、「神様は誰からもつくられていないの。はじめからおられたんだよ」と答えました。「ふーん。」と少し納得したのか良く分からなかったのですが、しばらくしてまた別の質問をしてきました。指を上にあげて「これの上には何があるの?」というのです。私は、「車の屋根? 屋根のこと? 屋根の上には何にも載ってないよ」と答えますと、「違う、あれ!」と空を指差すのです。「ああ、空? 空の上のこと? 空の上には宇宙が広がっているの」と教えます。そうすると「宇宙って何?」と聞いてきます。そこで、私は何と答えたのかというと、「ほら、この間、お父さんが見ていた映画、スターウォーズの世界だよ」と答えてしまったのです。我ながら、後々になっても後悔しているんですが、空のうえには「天があって神様がおられるところ」と答えればよかったのに、私ときたらよりによってスターウォーズはないだろうと・・・。反省しました。

 ここからはいつもの親ばかですけれども、しかし、三歳ですでに時間概念、空間概念の質問ができるとは我が子ながら、天才ではなかろうかと、娘を幼稚園に送ったあとで一人でほくそ笑んでおりました。
 この金曜日も東海聖書神学塾で今、説教学を教えているのですが、塾生に説教の導入は大切だと教えているのですけれども、こういう話で説教を始めることが、いったい今日の説教のなにかに役立っているのか私にも少し分からなくなります。

 もちろん、小さいながら意図はあるのです。今日のヨハネの福音書は主イエスの祈りです。とても重要なところですので、今週と来週と二回に分けて話をする必要があると思っています。この主イエスの祈りは、ちょっとこの時間概念と空間概念が超越しています。もちろん、ここでそんな何とか概念という難しい話をするつもりもありません。娘の質問にあった神様が世界を創られた以前のことや、あるいは、父がおられるところと、主イエスが今おられるところという意味だけわかっていだければそれで充分です。

 これは主イエスの祈りです。まさに父なる神と、御子イエスの親しい交わりの姿がここに描き出されています。そこには「わたし」と「あなた」という主イエスの深い父なる神に対する親しい語りかけの言葉だけが記されています。色々なことが語られていますけれども、少し注意深く読んでみますとそれほど難しいことが祈られているわけではありません。主イエスのことを弟子たちはこの祈りの前の部分でついに主イエスを理解して、信じました。けれども、主イエスは今から天に戻られるので、どうか、この弟子たちを守ってやって欲しいということが祈られているのです。

 主イエスの願い、それは、彼らはあなたのものですから、彼らを悪から守ってやってくださいということに尽きるのです。そのための祈りです。どれほど、主イエスが弟子たちに寄り添っておられるかがこの祈りをとおして分かります。そのことが色々な言葉で何度も何度も繰り返して祈られています。
9節にはこうあります。

わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。

 主イエスを信じ受け入れた者はもうすでにあなたのもの、神のものだといいます。そのあと、よくいろいろな方の会話にでてくる、ある意味では有名な言葉がでてきます。「わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです」これは聖書の言葉だったのかと驚く方があるかもしれません。それまではちょっと欲張りな人の言葉くらいに思っていたかもしれません。人のものも、自分のものと言って、自分のものにしてしまおうとするときに、冗談のようにしてこの言葉を使うことがあります。けれども、この言葉はもともと主イエスと、父なる神とがまさにひとつであるということを言い表した言葉です。そして、主イエスを受け入れる、主イエスを信じるということは、主イエスのものとされることであり、神のものとされるということなのです。

 ここに、「世」という言葉が出てきます。ギリシャ語で「コスモス」という言葉です。私たちはコスモスというと、この季節に咲く綺麗な花を思い浮かべます。けれども、ここで主イエスが語られている「世」「コスモス」というのは、まったく美しい花畑のようなものではなくて、神に敵対する世界という意味があります。この「世」のものとなるのか、「神のものとなるのか」ということです。主イエスのものとなるということは、神のもの、神の所有となっているので、この世に生き続けながらも、この世に支配されることがないようにと主イエスはその最後の祈りで、私たちのために祈っていてくださるのです。

 今週の土曜日に、私たちの教会では中京大学の学長をしておられる安村仁志先生をお招きして特別講演会を行うことにしています。安村先生は、私たちの同盟福音キリスト教会の天白教会の方です。この講演会のテーマはすこし長いテーマなのですが、「人とは何者なのでしょう。人はどこに向かっているのでしょう。ほんとうに大切なものは何でしょう」というテーマです。私は、実はまだ神学生だった夏休みの時に、当時天白教会で伝道をしておられましたホッテンバッハ先生が夏季休暇を取られるので、その間、先生のお宅に住まわせていいただいて三週間の間天白教会の留守番をしたことがあります。その時に、私ははじめて安村さんとお会いしました。ですから、今からとても土曜日を楽しみにしているのですが、土曜日に安村先生がお話してくださろうとしているのは、まさに、この聖書にその答えがあるということなのだと思います。もっといえば、そのひとつの答えは、この主イエスの祈りの中に秘められているということもできるのではないかと思います。まだ、お話を聞いていませんので、あまり先走ったことはしないで、今から楽しみにしたいと思いますが、まさに、主イエスはその最後の祈りにおいて、私たちがこの世に呑み込まれてしまうことがないように、この世から守られるようにと祈ってくださったのです。

 11節でも同じような祈りを主イエスは繰り返しておられます。真ん中のところですが

「聖なる父。あなたがわたしに下さっている御名の中に、彼らを保ってください」

とあります。ここで主イエスは「聖なる父」と呼びかけられています。珍しい言葉です。この「聖」というのは、いつも話していますけれども、「違う」という意味です。この世の父とはまったく違っておられる父よ、と語りかけています。

 そして、「わたしに下さっている御名の中に、彼らを保ってください」と祈り求められました。いつもクリスマスの時に、よく語られることですけれども、主イエスが生まれる時のことがマタイの福音書に記されています。そこでは主の使いが、父ヨセフに、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」とあります。このイエスという名は、神によって名づけられたものです。イエスというのは、ヘブル語ではヨシュアという名前ですが、その意味は「主(ヤハウェ)は救い」という意味です。救いの主と言ったらよいでしょうか。そして、「キリスト」というのは、名前ではなくて称号ですけれども、「油を注がれた人」という意味で、これも「救い主」という意味が込められています。主イエスには、まさに、救いの主という名前が神によって与えられていて、その名前の中に、主を信じる人々を保ってくださいとここで祈っておられるのです。主の救いの中に保たれるようにと祈っていてくださるのです。
 この主イエスの御名に保たれているということが、15節にもあります「悪い者から守ってくださるようにお願いします」という祈りと結びついているのです。
 主の御名によって守られる。主の御名によって私たちの存在は保たれる、何からかというと、15節の言葉でいえば「悪い者から」ということになりますし、9節の言葉で言えば「世から」ということもできます。

 というのは、14節にこうあります。

「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました」

と。主イエスによって語りかけられた神の言葉を聞いていると、世は、世界は、彼らを憎むようになるというのです。なぜかというと、この「世」の声に従わないで、「神のみことば、神の声」に聞き従うからです。17節では「真理によって彼らを聖め別ってください」という祈りが記されていますけれども、どれも同じことを言い換えているわけです。神の言葉は真理、それは、この世界の理屈とは異なります。この世界の理屈というのは、たとえばそれは「自分の益となるため」ということにもなりますが、神の言葉は、「神のため」にということです。そうすると、綺麗ごとを言ってと腹を立てる人が出て来る。あるいは、この人と一緒にいると、自分が自分のことばっかり言っているように感じてみじめになるからいやだとか、さまざまな拒否反応が出て来るようになる。

 まさに、この17節で「聖める」と言われている生き方をするようになるということです。この「聖める」というのは、「違う者とする」ということです。この世界の人の生き方とは違った生き方、つまり、自分のために生きるのではなくて、真理によって、神の声、神の言葉を聞くことによって、神のために生きられるようにしてくださいと主は私たちのために祈ってくださっているのです。

 いつも、教会はこの主イエスの祈りによって守られ続けてきました。それは、どのようにして守られて来たのかというと、ここで主イエスが祈っておられるように、主イエスがこの世で滅ぼされることによってです。最初にこの祈りは時間概念が独特だという話をいたしましたけれども、12節を見て見ますと、「彼らのうち誰も滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました」と過去形で書かれています。まだ主イエスが十字架にかかる前のことですけれども、こう書くことによって主イエスは自ら滅ぼされることによって、彼らを、教会を、そして、私たちを守られたのだということが分かるのです。

 いつも、私たちの礼拝では説教と同時に手話通訳というのをKさんがしてくださっています。通訳というのはとても集中力を問われることです。一瞬の間に、ことばを聞いて適切な手話で翻訳をする必要があります。妻もすこし手話をすることがありますが、時々、礼拝の賛美のために、讃美歌の歌詞をどの手話で表現するのが適切なのかとTさんが尋ねてきますので、妻も色々考えながら、適切な手話をあらかじめ教えて連絡するようにしています。以前、それで、ある讃美の「守る」という言葉をこれは、どの守るという意味だと思うかと尋ねられました。私たちは漢字で「守る」という字を見ますと、「守るは守るだろう」と思うわけですけれども、手話では「守る」という言葉一つでも、さまざまな表現があるのです。たとえば、約束を守るという場合は小指と小指を結び合わせる手話をするのだそうです。または子どもたちを守るという場合はあたまをなでるような手話をします。私を守るという場合には右手を握りしめて親指を出します。これが自分という意味なのだそうですけれども、そのまわりに左手で覆いかぶさるようにして自分を保護するという意味の手話もある。他にもたくさんあるそうですが、手話の通訳というのはそういう適切な言葉を瞬間に決めて次々に表現していくわけです。ここでの守るという言葉はいったいどれが適切だろうか、そのどれも入っているかな、などと、この言葉一つだけとっても考えてしまいます。

 神の守りというのは、この神がしてくださった約束が途切れることのないように守ってくださる。保持してくださる。しかも、私たち一人ひとりがこの世の中にあってその子どもをいとおしむように守ってくださり、同時に、私たちの盾となって私たちを保護してくださる。そのようにして、神は私たちがこの世にあって聖いものとして生きることができるように、私たちを支えてくださるのです。なぜなら、それが主イエスと父なる神ご自身の願いそのものだからです。

 そのようにして、神は私たちを今も守っていてくださる。自分を犠牲にして、自分が約束の守り手であり、慰め手であり、護り手となってくださる。そのために、主イエスは滅ぼされたのです。つまり、その人の下にたって支えて下さった。その人の下に喜んで立つ者となってくださったのです。この世の人々が上へ上へと目指して、高嶺を目指す生き方に心惹かれる中で、主イエスは下へ、下へと下られて、人を生かし、人を支える守り手となることを選び取ってくださったのです。そして、主イエスはその自らの祈りのとおりに、人からさげすまれてもなお、人から理解もされず、受け入れられなくても、下に留まることを良しとされたのです。

 もちろん、私たちは、自分は「世」に惑わされて、いつも戦って生きていると簡単にいう事はできません。私たちの生活そのものが、「世」と一つになっているからです。世そのものという部分が私たちにはあることを、否定することはできません。それは、「クリスチャンになったから罪はなくなった」と言うようなものです。私たちは主イエスを信じても、罪をかかえているし、また、世の中で、世そのものとして生きています。私たちはどこまでいっても不完全なものです。しかし、それだからこそ、主イエスは私たちが「世」と違う者、聖なる者とされて生きることができるように、聖なる父に祈っておられるのです。私たちは、この主イエスの祈り支えなしには生きることはできません。誰も、自分はもう聖い生活をなしとげているということができません。

 そのために、主は私たちに神の言葉を与えて、外から支え、私たちのために祈り、上より神に見守られ、下から主イエスに支えられ、内に働かれる聖霊によって励ましを受けつつ、この神に支えられて生きることができるのです。それが、ここで主イエスが祈っておられる私たちが神のものとされるということなのです。

お祈りをいたします。

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