2015 年 11 月 29 日

・説教「隣人となったのは誰か?」ルカの福音書10章25-37節

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 17:11

 

2015.11.29

村上 進

 
 ここから皆さんのお顔を拝見しますと、私のような者がここで「説教」などしてよいのか、と脚がすくむ思いです。「礼拝子ども」でメッセージをお話ししたり、大学のチャペル礼拝で短い奨励をさせて頂くことはありますが、主日礼拝の説教壇に立つのは、実は生まれて初めてです。
 私は神学大学や聖書神学塾で学んだこともありませんし、自分の生活態度を振り返ってみれば、祈りにおいても、聖書を読むことにおいても怠惰です。ところが仮にも牧師の息子ですので、生まれた時から、いや母の胎内にいる時から四六時中み言葉を聞いて育ってきたわけです。聞き貯めた言葉は豊富ですから、聖書の言葉を「それらしく」解き明かしたようなスピーチをして、安易に皆さんを感心させることが、おそらくできてしまいます。

 けれども私がそういう誘惑に陥らないよう、神さまは時々、私のまわりに「事件」をおこされます。私を当事者として巻き込むのです。私が、語ることを許されているのは、そのことだけなのだ、と肝に銘じて、自分の身の上に起こったこと、受け売りではない、神さまから直接私の心に受けとった言を、皆さんにお話ししたいと思っています。

 その前に、これは何年か前に女性会でお話しした「ネタ」ですので、覚えておられる方もいらっしゃるとは思いますが、クイズを一つ。礼拝堂の正面に十字架を掲げている教会と、そうでない教会がありますね。カトリックの礼拝堂などでは、十字の形の木だけでなく、磔にされたキリストの像が架けられていたりします。東京で私が通っていた代々木上原教会の礼拝堂には、十字架がありませんでした。建物の設計者は、正面の壁に十字架を取り付ける金具を用意していたのですが、そこには今も、何もかけられていません。それは「形のあるものを拝まない」という信仰の表現なのかもしれません。

 ではこの芥見キリスト教会の礼拝堂には十字架が掲げられているでしょうか。

image00121 十字架はありません。あるじゃないか、と言われるでしょうが、そこにあるのは、十字の形に切り取られた「穴」です。哲学風に表現すれば、「ない」という十字架が「ある」のです。地上のもの、物質的なもの、やがて朽ちてゆくもの。それが「取り去られた」穴。時が来ると、そこへ「光」が満ちてくるのです。なんと示唆に富んだ造形でしょうか。私はここで礼拝に出席するごとに、そのことに思いをはせています。
 

 さて前置きはそれぐらいにして、今日の聖書の箇所に目を向けてみましょう。この話は、まじめで信仰深い、聖書の専門家がイエスに質問するところから始まります。
-先生、何をしたら永遠のいのちを受けることができるでしょう?
-答えは聖書に書いてあるでしょう? はい、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とあります。

 その人にとっては拍子抜けするほどあたりまえのことでした。きっと私たちが「外から帰ったら手を洗いなさい」とか「寝る前に歯を磨きなさい」と言われたのと同じような印象をもったことでしょう。そんなことなら、もうずっと実行しています。いつも、「隣人」と思われる人には、誰にだって親切にしていますよ。あなた、そもそも誰のことを「隣人」って言っているのですか、とその人はイエスに聞き返しました。

 それに応えてイエスが語ったのが、このたとえ話です。イエスという人は人々の心に残って離れない、印象的な話術が得意だったようで、そんなこと言っちゃって大丈夫? と心配になるような人物設定を、わざと盛り込んでいます。その立場にある人の耳に入ったら、そうとうムッとされるであろう「毒」があります。けれども日本人の私たちには、「レビ人」とか「サマリア人」と言われても、そこに込められた意味がピンとこないのです。

 これを当時の人々が聞いたのと同じ印象で受け取るためには、ちょっと脚色して身近な設定に置き換えてみるといいのかもしれません。実は以前、東京の教会でこれを劇にしたことがあるのです。その時はサマリア人のところを在日コリアンということにしました。つい先日は大学のチャペル礼拝でこのお話をする機会がありましたので、聴衆である大学生を意識した人物設定に置き換えてみました。わざとらしく、「このお話はフィクションであり、実在の団体、人物とは一切無関係です」と前置きをした上で、こんな話をしました。

ウチの大学に通う留学生が先日、岐阜駅近くの繁華街でチンピラといざこざになり、殴る蹴るの暴行をされたあげく、財布まで奪われてしまいました。

動けなくなったその子が道ばたでうずくまっていると、たまたまそこへ、大学の学部長が通りがかりました。学部長はちらっとその学生を見たのですが「いかんいかん、今夜は理事長と会食の約束がある。こんなのと関わっていては遅れてしまう」と思い、気づかないふりをして通り過ぎて行きました。

しばらくすると、大学の宗教主事が通りがかりました。宗教主事は「いかんいかん、これからお葬式に行かなくてはならないんだ。こんなのと関わったら礼服が汚れてしまう」そうつぶやいて行ってしまいました。

そこへ、一人の男が通りかかりました。実はこの男、去年まではウチの学生でした。ところがある事件をおこして警察に逮捕され、それで退学させられたのです。その後はアルバイトをしながら生活していたようです。その彼が、ケガをして動けなくなっている学生を見ると、近寄って声をかけました。すぐに救急車を呼び、一緒に病院までついて行きました。

ケガはひどく、入院が必要でしたが、その子は財布を取られてしまったので、保険証はもちろん、身分を証明するものも、お金もありません。そこで彼は、自分の連絡先を書いたメモと、もらったばかりのアルバイト代全額を病院にあずけて、治療を続けてもらうように頼みました。

さて、この3人の中でケガをした留学生の隣人になったのは、誰でしょう?

 もちろんこれは作り話です。実はその学部長も宗教主事も、その礼拝に出席されていまして、ニヤニヤ笑いながら聞いておられました。しかし、イエスのたとえ話がそうであったように、このお話にも「毒」があり、私たちの現実を風刺しています。「ある事件をおこして逮捕された学生」が、学校の名誉を著しく損なったとして退学を勧告されたのは、実際にあったことなのです。その学生は4年生の夏休みに事件をおこし、今も拘留中です。あと半年で卒業、という時だったのです。彼を知る私たちは心を傷め、もし執行猶予がついたら、あるいは刑期を終えたら、またこの大学に迎えたいと願いましたが、許されませんでした。大学に来られたご家族に、退学手続に必要な書類一式を手渡したのは、私です。私たちは大学という組織の名において、彼の隣人であり続けることから逃げたのかもしれません。

 
 聖書に戻りましょう。よく読んでみると、この人の質問と、イエスの回答はどうもかみ合っていません。「隣人とは誰なのか」という質問に対し、イエスの答えは、「誰が隣人になったと思いますか-あなたも行って同じようにしなさい」です。「隣人である」「隣人ではない」という区別を、イエスは無意味なものにしました。イエスが問うているのは、「隣人になる」「隣人にならない」という行動の差です。「見えないフリをしているでしょう?あなたが “親切にしてあげるべき範囲” の外へ置いて、もう気づかなくてもいいことにしている人を。これからは、あなたが、その人の隣へ行きなさい」そうイエスは示されたのです。

 
 ここで、後藤健二さんのことを話さなくてはなりません。今年の1月、シリアで過激派武装勢力ISに殺されたジャーナリスト、後藤健二さんは私の友人です。後藤さんはクリスチャンで、東京・田園調布教会の会員でしたが、ある時期ご自宅が近所だったこともあり、私の通っていた代々木上原教会の礼拝によく出席されていました。私も私の家族も皆、彼を尊敬し、特に子どもたちは彼から大きな影響を受けて育ちました。

 後藤さんがISにつかまる半年ほど前のことです。「日本人ジャーナリスト、シリアで拘束か?」というニュースが報道され、私たちの間に衝撃が走りました。「まさか、後藤さんじゃないよね」とメールや電話が飛び交いましたが、私はそれを笑い飛ばしました。ニュースによると、その日本人はジャーナリストという肩書きでシリアに入国したのですが、自動小銃で武装していたのをとがめられ、ISに連れ去られたとのことでした。ですから私には、それは絶対に後藤さんではない、という確信がありました。

 心配する友人たちに私は「後藤さんは護身用でも銃を持たない。丸腰の本当の強さをわかっている人だ。自動小銃なんか持っていたというなら、それは絶対に後藤さんではないよ。」そう話したのです。果たして、その時拉致されたのは「湯川遥菜」さんでした。湯川遥菜さんは武装兵士の派遣会社をつくり、実戦経験を積むために現地入りした人だそうです。正直に告白しますと、私はそのニュースを聞いて、「バカなやつだ、自業自得だ」と思ったのです。

 ところが・・・あろうことか、後藤さんが危険を承知でシリアに入ったのは、その湯川さんを救出するためだったのです。湯川さんはいわば「殺しを請け負う」人です。紛争で虐げられている子どもたちにカメラを向け、その真実を世界に訴え続けてきたあの後藤さんが、湯川さんを助けに行くその動機が、まったく理解できません。

 後藤さんが殺されて、日本各地で追悼の集会がありました。私も写真とキャンドルを持って参加しました。そこへ集まった人の中には、「I am Kenji」というプラカードを持っている人たちもいました。そのころネットでそういう行動の呼びかけがあったようです。ところが、中に「I am Haruna」と書かれたプラカードを掲げる一団がいたのです。私は、嫌悪感とまでは言いませんが、違和感を禁じ得ませんでした。なぜ今日、なぜここに? 湯川さんの追悼ならどこか別の場所でやってくれ、そう思いました。

 私はそのとき、後藤さんが殺されたのは湯川さんのバカな行動のせいだ、湯川さんさえいなければ、後藤さんは死なずにすんだ、と思っていたのです。私は心の中で叫んでいました。何で?なんで湯川さんなんかを助けに行ったの?! 湯川さんなんか、殺されたってそんなの自業自得でしょう?見捨てておけばよかったのに。湯川さんの命より後藤さんの命の方がずっと・・・?

 そこまでつぶやいて、自分の言葉に背筋が凍りました。今、何て言った? 今俺は、何を叫んだ?

 湯川さんは知らない人。後藤さんは大切な友だち。湯川さんは人殺し会社をつくった人、後藤さんは人道的ジャーナリスト。湯川さんの命は失われても自業自得。後藤さんの命はかけがえのないもの。それが私の率直な感情でした。命をかけて守りたい大切ないのち。それを守るために奪われるいのち。私たちはそうやって、いのちといのちとの間に境界線を引いています。
けれど、神さまの思いは違う。すべてのいのちを神さまは愛しておられる。いのちをつくられた神さまの前に、傷つけられてもかまわないたましい、失われてもかまわない命など、ただの一つもない。

 そのことを、自らの十字架上の死でもって証ししたのが、イエス・キリストではなかったか。
それなのに私は、ずっと聖書を読んでいるのに、何百回も話を聞いたのに、何もわかっちゃいなかった。敬愛する師が十字架上で処刑されるのを目の前で見た弟子たちの絶望と悲しみを、アタマでは理解していたかもしれないが、私のハラワタはわかっていなかった。「主はわたしたちの罪を贖(あがな)うためにその命をさしだした」。そう告白しながら私は、キリストの十字架を「鏡に映して見るように、おぼろげに」-現代風に言い換えるならば、テレビの画面を見るように、はるか昔の出来事、どこか遠くの出来事として、他人事(ひとごと)として見ていたのです。

 心から尊敬する、大好きな友が、私があんな奴と言った、その命を救うために危険な一線を踏み越え、そして囚われて、ナイフで首を切断されて死んだ。その悲しみが自分に直接ふりかかって初めて、やっと私は、神さまの思いに気づいたのです。私は大馬鹿者です。イエスが一度死んでくださっているのに。その時に私がちゃんと理解していれば、後藤さんは、私のために死ななくてもよかったかもしれない、とさえ思います。

 身近な日々の生活においてもそうです。私は、「境界線」の外側にいる人たちが、悔い改めてこちら側に来てくれることを願っています。これまで私に対して行った罪に気づいて、悔い改めたら、それまでのことは許そう、などと言うのです。

 でも思い出してみてください。イエスがザアカイのもとへ来たのは、ザアカイが悔い改めたからでしょうか?ザアカイはイエスに好奇心を示しただけです。木に登って高みの見物を決め込んでいたのです。ところがイエスはその真下にやって来て立ち止まり「ザアカイ、降りてきやぁ、今夜あんたとこに泊まるから」と言ったのでした。町中の人々にとって、ザアカイがまだ「ヘドを吐きたくなるようなヤツ」だったときに、イエスは彼と一緒に食事を取られ、その家に泊まられたのです。イエスに倣うならば、私たちは、私たちに罪を犯す者が、まだ罪を犯し続けているうちに、赦し続けなければならないのです。

 後藤さんが死んで、私はこころに黒くて深い「穴」が開いてしまったようでした。彼のいのちはこの地上から断たれてしまった。もはや彼の遺体・お骨が戻ることも、ないでしょう。けれども、彼は取り去られて、そこに「穴」を残したのです。いのちにはいつか終わりがあり、地上のものはゆっくりと朽ちてゆく。だが「穴」は、それが突然、理不尽に切り取られたがゆえに、永遠に、鮮烈に、そこに在りつづけるのです。

 私たちには自分で引いた境界線があります。あの人は価値観が違うとか理解できないとか、犯罪者だとか名誉を傷つけたとか、その人が窮地に追い込まれたのは自業自得だとか。そこは私の得意分野ではないとか、私の権限では無理だとか。さまざまな理由をつけて境界線を引き、その線のこっち側、安全な場所に留まっていたいと思ってしまう。でもこれからは、この「穴」が、私を繰り返し励まし続けるのです。-「その境界線を越えてゆけ、向こう側にいる人の隣に立て」と。

お祈りをいたします。

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