2016 年 1 月 17 日

・説教 エペソ人への手紙1章1-6節「キリストのうちに選ばれて」

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2016.1.17

鴨下 直樹

 
 芥見教会は今日で宣教を開始して35周年目を迎えます。35年前、ストルツ先生によってこの芥見の地で宣教が開始されました。ストルツ先生は、この芥見の前は古知野教会で伝道しておられました。当時古知野でストルツ先生からドイツ語を学んでいたA兄に、ストルツ先生と一緒にこの芥見の地を見にきて、ここで伝道をはじめることになったという話を聞きました。私の父はこのストルツ先生と一緒に同盟福音の開拓期を一緒に伝道してきたので、私は子供の頃からよくストルツ先生の名前を聞いていましたし、以前いた教会もストルツ先生の開拓された古知野教会でした。この芥見教会に来た時も、ストルツ先生の開拓をされた教会で、不思議な神様の導きを感じています。

 ドイツにおりました時も、日本に戻ったら芥見で牧師になるという話をストルツ先生にお話ししましたら、ストルツ先生ご夫妻がとても喜んでくださったことを私は忘れることが出来ません。そのような不思議な縁があることを何か運命じみたものとして理解することもできるのかもしれませんが、私としては不思議な神様の導きだと感じています。

 これまでヨハネの福音書から連続して講解説教をしてまいりました。アドヴェントからは、すこしヨハネを離れましてクリスマスに関する箇所から説教しまして、新年は年間聖句、また教団の五か年計画の箇所と説教してきました。ですから、今日からまたヨハネに戻ると思っておられた方々がおられると思いますけれども、今日からエペソ人への手紙からみ言葉を聞きたいと思っています。というのは、ヨハネの福音書は最後の受難の箇所を残すのみになりまして、イースターの時にちょうどヨハネの福音書20章から説教したいと考えていますので、逆算して2月からまたヨハネに戻ります。イースターの後はエペソ人への手紙の説教を考えておりますので、今月は少し先だってこのエペソ人への手紙の冒頭からみ言葉を聞きたいと思っています。

 エペソ人への手紙はパウロが教会についての教えを書いた手紙として知られている箇所ですが、実はいくつかよく分からないところがあります。たとえば、この「エペソ」あての手紙ということになっているのですが、一番古い年代の写本にはどれもエペソという名前が書かれていません。あとで、エペソと書き足されたことが分かっていますので、直接エペソの教会宛に書かれたのかどうかは、今となってははっきり分からないのです。ただ、どうもこの手紙はエペソのありました小アジアと呼ばれていた地域に宛て書かれた手紙であることは間違いないようですから、エペソの教会にも当然読まれることを想定して書かれました。

 また、最近の聖書学というのはすごいと感心するんですが、このエペソ人への手紙で使われている用語が、他のパウロが書いた手紙の用語の使い方と著しく異なっているため、パウロが書いたのではないのではないかと考えられるようになったわけです。ただ、どの聖書学者もそうはいってもパウロの信仰がここで書かれているには違いないので、パウロの弟子がパウロに代わって書いたのではないかなどと考えられています。いずれにしても、私は手紙の著者をパウロとして語っても何も問題ないわけですから、著者をパウロとして説教したいと思っていますのでご理解いただきたいと思います。

 また、この手紙は牢獄に捕えられている時に書かれた獄中書簡であると言われてきました。3章1節や4章1節で、パウロは自分のことを「囚人」と言っています。獄につながれているというのは、どういう状況なのか、今日と同じような状況であったのかどうか、それもなかなか想像することは難しいのですが、捕えられて思うように行きたい所にいくことができず、常に監視されるような中で、パウロに出来ることといえば主を賛美すること、そして、これまで以上に深い思索をする時間が持てたということでもあります。そういったパウロの状況がこの手紙を書かせたと言えます。

 特に、この手紙ではっきりしているのは、神によって救われた者たち、つまり神の民、教会に生きる者の祝福を語っていると言えます。それは、この手紙の冒頭の3節にも顕著にあらわれています。3節にはこう記されています。

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

実に、この短いことことばの中に3度も祝福という言葉がしるされています。「霊的祝福」「私たちを祝福してくださる」という言葉はすぐに見つかります。そうすると2つしか書かれていないようですけれども、実は「ほめたたえられますように」という言葉ももとのギリシャ語では同じ「祝福」という言葉、ギリシャ語で「ユーロゲオー」という言葉が使われています。これは「よい」という言葉と「言う」という二つの言葉からなっています。「good」と「言う」という言葉です。

 長い間、私は犬を飼って来たのですが、犬を躾ける時に、「good」と言って撫でながらほめてやると嬉しそうな顔をします。そういう説明をすると変な感じがするかもしれません。神が私たちに「よし」、「good」と言ってくださる、それが祝福だということは理解しやすいと思いますが、私たちが神様に向かって「good」などと言うのははばかられるのではないかと感じます。この「ユーロゲオー」という言葉は「祝福する」以外の訳に「感謝する」、「告白する」、「ほめたたえる」と訳すことができます。それは、神からだけの一方的な御業だけではなくて、私たちの応答としても、それは「goodです!」と言うことができる言葉なのです。

 水曜日の祈祷会で、今レビ記を学んでいますが、先週はレビ記の9章、大祭司として任職されたアロンがはじめて民のために犠牲をささげた最初の礼拝の箇所を学びました。犠牲をささげ終わった後で、アロンが民に向かって祝福の祈りをします。いつも礼拝の祝祷の時に祈られる祈りです。

主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。

民数記6章23節に記されています。そういって、犠牲を捧げる祭壇から、今度はモーセとアロンが会見の幕屋に入って行って、そこから出てくるともう一度祝福を宣言します。すると、神の臨在をあらわす雲が会見の天幕にあらわれて、そこから火が出て全焼のいけにえを焼き尽くします。すると、それを見た民は叫んでひれ伏したと書かれているのです。非常にドラマチックな、と言ったらいいでしょうか。神が確かにここにおられるという神のリアリティを感じた礼拝だったと思います。そこでも、何度も祝福ということばが記されていました。

 私たちは普段、祝福と言う言葉をよく使いますけれども、どうなったら「祝福された」と言えるのか良く分かっていません。そこでも、マレーネ先生から問いかけられました。「祝福される」というのはどういうことなのか、あまり考えていないのではないか、と問いかけられました。その一つの答えがここにあると言っていいとおもいます。「祝福」、「ユーロゲオー」というのは、神が「よい」、「good」と言える御業を行ってくださり、それに対して、私たちも、それは「素晴らしい」、「good」です! と応えることができる。レビ記で神が礼拝で幕屋の上にあがった雲を通してご自身を現してくださり、それに応えてイスラエルの人々が「ハレルヤ!」と叫び、神にひれ伏す。そういう神との生きた交わりの中に入れられていることが、神の祝福なのです。そして、それは今も私たちはこの礼拝を通して、また毎日の生活の中でも味わっているはずなのです。パウロがこの手紙の冒頭で何よりもまず思い出させようとしているのは、あなたがたはあらゆる霊的な祝福で祝福されているのだから、あなたがたも神をほめたたえようではありませんか!と何をおいてもまず第一にそう語りかけているのです。

 芥見教会がこの地で伝道を開始して、今日で35年を迎えます。ストルツ先生からはじめられた伝道が、飯沼先生、宮園先生、また無僕の時には岐阜の川村先生に助けられてきました。そして、脊戸先生、浅野先生、後藤先生と続けられて、今私とマレーネ先生がこの地での宣教のために召されています。神がこれまでもあらゆる霊的な祝福でこの教会を祝福してくださったのですから、私たちもこの神をほめたたえようではありませんか。と、この手紙はアジアの教会である私たちにも宛て記された手紙として読むことのできるものだと言っていいと思うのです。
そして、パウロはいきなり、この手紙の大切なテーマに飛び込んでいきます。それは、

神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

 私たちはここで少しびっくりする言葉に出会うのです。「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選んでくださっている」。
予定の教理などと言われることがあります。神はこの世界がはじまる前から救われる人と救われない人とを選んでおられた。私たちはこういう聖書の言葉を読みますと、頭の中で自動的にそのように置き換えて読んでしまうことがあります。運命論と言ったり、二重予定などという場合もありますが、救われる人と救われない人が決まっていると、つい考えてしまいます。しかし、この聖書の言葉はそういう意味での選びを語っているわけではありません。
つづく5節にはこう記されています。

神はみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

 ここで言われているのは、この世界を想像された造り主である神・主が、ご自分の作られた者を神の子にしようと世界の始まる前から定めておられたということです。ここに「私たちを」と4節にも5節にも書かれています。ここに自分の個人の名前をいれて考えてしまいますと、自分は救われるけれども、他の人は救われないというような意味で理解してしまいます。けれども、この「私たち」はもっと広い意味で理解する必要があります。それこそ、神はこの世界を作られた時にご自分がおつくりなったすべてのものをご自分の子となるように定めておられたのです。ここに、「キリストのうちに選び」と4節にあります。この世界を造られたお方、主キリストは、この世界を「よい」と言われるほどに愛してお造りになられました。それは、まさに「愛をもって」と5節にあるように、主の愛によってすべてのものは創造されたのです。そして、この「キリスト」こそが、神の愛の御業をおこなうお方そのものなのです。

 カトリックのフランシスコ会訳聖書と言われる聖書ではここのところをこのように訳しました。

まさに神は、わたしたちが神のみ前で聖なるもの、非のうちどころのないものとなるように、世界創造以前から、キリストに結ばせることによって私たちを選び出してくださいました。

ここでは、キリストに結びつくことによって救われると言い換えることができるでしょうか。

 この手紙が書かれた時代、ユダヤ人たちは世界中に離散してしまっていました。そして、新しい神の民として教会に集う人々が次々に増えていました。神の民とは誰なのかということをもう一度異邦人たちが次々に救われていく中でしっかりと理解してもらう必要がありました。神の民というのは、キリストによって救われた者たちのこと。それは、世界が始まる前から、神はキリストと結びつくこと、キリストによって神の子とされるのだというのははじめから変わることのない真理なのだとここで宣言しているのです。そして、そこに神の愛が示されているのだというのです。

 この人とこの人は特に優れた人なので神に選ばれたけれども、あの人は違うというような選びの教理はここに記されていません、むしろ、はっきりとした救いのご計画を神ははじめから揺らぐことなく示しておられるのだと、パウロはここで宣言しているのです。この芥見の教会でこの35年間の間にどれほどの人たちが救われてきたことでしょう。またこの長い歴史の中でこの教会に訪れた人の数を数えたらそれこそとてもたくさんの数になるに違いありません。神は、どのひとにも、主イエス・キリストを通して神の民となる、神の子どもとされるのだとこれまでも語り続けてきましたし、これからも私たちは語り続けていくのです。

 なぜなら、神は私たちを愛して、私たちを祝福してくださっている。私たちに、あなたは「goodだ」と声をかけていてくださるのです。ですから、私たちもこの礼拝をとおして、あなたこそ、本当に素晴らしいお方ですと、証するのです。

 さきほど、O兄が35年を振り返って証してくださいました。すでに知っておられる方も多いと思いますが、O兄はこの同盟福音教会で最初に洗礼を受けられた方です。そういう意味では誰よりも、この神の「よい」御業を見続けることのゆるされた方です。そして、今も忠実に礼拝に喜んで来続けておられるのは、この神こそがよいお方だとほめたたえたいと願っておられる方に他なりません。ここに神の祝福があるのです。

 おいのりをいたします。

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