2016 年 2 月 21 日

・説教 ヨハネの福音書18章28-40節「真理とは何ですか?」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 16:49

 

2016.02.21

鴨下 直樹

 
 受難節を迎えています。この季節、私たちは主イエスの苦難の姿を心にとめながら、主イエスの苦しみの意味を考える時間があたえられています。そして、今日私たちに与えられている聖書の言葉は、私たちが主イエスの姿を心に刻むためにもとても重要な箇所だということができると思います。

 この主イエスのピラトによる裁判の箇所は18章28節から19章16節までです。本当はもう少し丁寧にみ言葉を心にとめたいのですが、二回に分けてここから主の言葉を聞きたいと思います。さっそく今日の28節にとても興味深いことが記されています。

さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは過越しの食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸に入らなかった。

と書かれています。

 ここは、ヨハネの福音書特有の皮肉のこもった書き方がされているのですが、そもそも、過越しの食事を食べるために異邦人の家に入ってはいけないというような戒めは聖書にはありません。けれども、どうも、当時のユダヤ人たち、特に律法学者たちは、律法を完全に守るために、さらに細かい細則を作っていました。そういう自分たちで決めた決まり事を守るために、ユダヤ人宗教指導者たちは、主イエスの裁判を求めてローマの総督ピラトの官邸まで連れて行ったのですが、自分たちは汚れるので入らないというようなことをしたようです。殺してはならないという戒めについては目をつぶっておいて、本来戒めでもなんでもない細かい決まりは守ろうとするという、このユダヤ人指導者たちの姿をヨハネはここで皮肉をもって描いているわけです。

 それで、実に面倒くさいことだったと思いますけれども、ローマ総督のピラトの方からこのユダヤ人たちと対話をするために外に出向いて、ユダヤ人たちと会話をするという場面がはじめに記されています。
 ここでピラトはユダヤ人たちに尋ねます。「悪い人だから連れて来たんでしょう。なぜ、自分たちで裁かないのか」と問いかけています。ユダヤ人指導者たちは、「自分たちでは死刑にする権限がありません」と答えます。もちろん、そんなことはないわけです。主イエスの時代、「石打ち」という言ってみればリンチのようなやり方で、ユダヤ人たちは罪を犯した者を殺してきた事実があります。これは、ローマの手で主イエスを殺させる方が、自分たちはローマに逆らう気持ちはないのだというアピールにも使えるわけですし、自分たちの手も汚さなくて済むという考えが彼らにはありました。32節はそれこそが、イエスのことばの成就だという書き方をしています。

 さて、そこで、次の33節からの場面ではピラトと主イエスとの対話の場面に移ります。この対話にいたって、この裁判にさほど関心も示していなかったピラトが主イエスの言葉に引き込まれていく姿が描き出されています。ピラトは尋ねます。「あなたはユダヤ人の王ですか。」すると、主イエスは「それはあなたがそう思うのですか、誰かからそう聞いたからですか」とピラトに反対に問いかけます。ピラトにしてみれば、何をいっているんだという感じであったに違いありません。「わたしはユダヤ人ではないのだから、私には関係ないことだ、いったい何をしてここに連れられてきたのだ」とピラトは問い返します。

 こうして、この対話は完全に主イエスのペースで進められて行きます。わたしが王だというのは、この世のことではありません。王なら家臣がいるでしょう。わたしが王なら家臣がわたしのために戦うはずです。そして、実際に私はこの世の王ではないのだと主イエスは応えられました。

 この冬に映画で「星の王子さま」が上映されたようです。私は映画を見に行くことは出来ませんでしたけれども、小説の方はなんどか読みました。砂漠に墜落した「ぼく」という主人公が「星の王子さま」と出会いまして、この星の王子さまとの対話が物語の中心です。この物語の中に、星の王子さまが旅をつづけるなかで、ある星で家来のいない王様と出会う話しが出て来ます。この家来のいない王様は、王子様をみつけると、やっと家来になる人が現れたので、次々に命令するという場面があります。王の権威というのは、何によるのかということを考えさせるはなしですが、この物語を書いたサン・デグジュペリはこの世の当たり前に思われているならわし一つ一つを取り上げながら、本当に大切なものは何によっているのかを考えさせようとしています。

 主イエスとこの総督の会話もまさに、そのようなものです。主イエスが王であるということができるためには、主イエスに聞き従う人がいなければなりません。「真理に属する人はみな、わたしの声に聞き従います」とここで主イエスは答えるのです。
 すると、ピラトは「真理とは何ですか?」と主イエスに問いかけるのです。ヨハネの福音書は、他の福音書のように、ピラトが主イエスの罪を認めていなかったというような書き方はしていません。むしろ、ほとんど主イエスの裁きに無関心だったのです。ところが、主イエスと対話しているうちに、つい「真理とは何ですか?」と問い返してしまいます。

 というのは、人を裁判して裁く人というのは、そもそも何をもって人を裁くのか、それこそ、死刑の判決を下すのだとしたら、間違った判断を下すわけにはいきません。本当に正しい裁判をするべきです。ですから、裁判をする側の人間が、自分が裁こうとしている人間に、真理とはなんですかなどということは、本当は聞いてはいけないことです。

 この真理という言葉は、ギリシャ語で「アレテイア」という言葉です。これは「隠されてはいないこと」というのがもともとの意味ですけれども、聖書では「神が明らかにされたこと」という意味があります。神が明らかにされた真理とは何か、それは、イエス・キリストそのものです。

「真理はあなたがたを自由にします。」とヨハネの福音書8章32節で主イエスはすでにそのようにお語りになられました。主イエスの言葉に聞き従うなら、自由になると主は語られました。主イエスによって、主イエスを王とするとき、人は自由になることができるようになる、人は何をすべきなのか、何をしてはいけないのか、その本当に大切なものを知ることができるようになります。

 主イエスはこのピラトとの対話において、自分を裁こうとする者に、もっとも大切なもの、人は何によって生きているのか、を考えさせるように促されたのです。「あなたは何によって、人を裁くのか」それは、「あなたは何によって生きているのか」という問いかけでもあります。

 こうして、ピラトはまたユダヤ人たちのところに出かけて行って、自分の結論を伝えます。それは、つまり39節に記されています。

過越しの祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。

それが、ピラトの出した結論でした。ピラトが主イエスとの対話で何をどの程度理解したのかは分かりません。しかし、少なくともこの男を殺さなければならないような理由を見つけることができないので、釈放しようと考えたことは間違いないようです。けれども、この時、この場にいた人たちは、「バラバだ」と叫びます。強盗の男を釈放するように願い求めます。真理を、正しいことを考えようとしたのではなくて、自分たちの目先の損得を勘定した結論がこの言葉でした。

 今日、おそらくみなさんのメールボックスに古川さんの個展の案内が入れられていたと思います。昨年の四月に岐阜県美術館の館長を退職されてからご自分だけの個展をおこなわれるのはこれがはじめてなのだと思います。来週の火曜日から二か月にわたって、岐阜のある美術館で個展が開催されます。古川さんの絵をすでにご覧になられたことのある方も少なくないと思いますけれども、古川さんは「からすうり」の絵をよくモチーフにして書かれます。今回の個展ではそれと「白い花」をモチーフにした絵がいくつも出されています。

 私は実は、あまりからすうりというものを気にしてみたことがなかったのですけれども、古川さんの絵を通して、そういう植物があることを知りました。それくらい、あまり気にとまるような植物ではありません。というのは、このからすうりというのは、食べることもできませんし、みばえもそれほどぱっとしません。美しいのは、夜ひとしれずひっそりと大変美しい、雪の結晶のような花を咲かせるのですが、それもほとんど知られていません。しかも、古川さんはその美しい雪の結晶のような花を描くことにはほとんど興味はないようで、もっぱらからすうりの実ばかり描いておられます。あるいは、今回のもう一つのテーマの「白い花」もそうなのですが、この花にいたっては実際にある花ではなくて、以前アメリカで見たことがあるということですけれども、描いているうちに、いつのまにか創作の花になってしまっているのだそうです。

 この花もからすうりも、絵の題を見ると「祝された静物」という題がつけられています。「静物」というのは「静物画」の「せいぶつ」ですが、題を見て気づくことがあります。古川さんの作品はからすうりも白い花も、「祝された静物」なのです。絵自体は、「祝された」ですから、「受け身形」で表現されていますけれども、祝福したお方がいるということです。本当の花か、空想の花であるかは大事なことでなくて、その絵を見られるお方、神から見るとそれはすべて祝されたものとして見られている。神のまなざしこそが、無価値だといわれるからすうりであろうと、実在しない白い花であろうと、神のまなざしのまえにはすべてのものが、そこではじめて「本当」のものとなるということです。それで、古川さんの絵はどれも、絵のなかに金とか銀とかいう色を使いながら、なんでもないはずのものが、神のまなざしを通してみれば、崇高なものになるのだということを描いているのだと思うのです。ぜひ、この機会に大勢の方に見ていただいて、古川さんが伝えようとしておられるものに是非ふれていただきたいと思います。

 私たちの価値は誰が見出すのでしょうか。それは私たちの計算によって、得になる生き方を自分で選び取ることによってではなくて、神がどのようなまなざしでみられるかです。本当に大切なものは、ただそこにあるのです。真理とは何か、ほんとうに大事なものは何なのか。それは、ただ、神によって、主イエスによって意味が与えられるところに、本当に大事なものはあるのです。

 いま、受難節の季節を過ごしています。私たちはそこで主イエスのみ姿を心に刻もうとしています。主は、自分を殺そうとする企ての真っただ中で、それを恐れるのではなくて、神がわたしを知っていてくださるというところから来る、自分の存在の確かさを示してくださっています。自分たちの好き嫌いで、損得で、強盗であったバラバの釈放を求めているような取り乱した民の姿と、主は全く異なっておられます。

 おそらくもっとも困惑したのは裁いていたピラトだったことでしょう。小さな面目を守ることに心を注いでいるユダヤ人指導者たちを見ても、ここでバラバを釈放しろと叫んでいるユダヤ人たちを見ても、そこには今日の冒頭の箇所にあるような皮肉めいた姿しか見出すことはできません。無関心であった総督ピラトが主イエスと対話するうちに、大事なことは何かを思わず考えさせられている姿にも、結局は民の声に、自らの意志を貫くことのできない弱さしか見ることは出来ません。

 さきほど、「この人をみよ」という讃美歌を歌いました。これは、19章に入ってこのピラトが言った言葉です。裁かれて、鞭うたれ、あざけられている主イエスの姿をみながら、この方が、裁かれる人に見えるのかと、ピラトは図らずも民に向かって語りかけたのです。

 私たちが見るべきお方は、この苦しみをしっかりとした姿で受け止めておられる主イエスの姿です。このお方の姿にこそ、真理が、ほんとうに大切なものが映し出されているのです。
お祈りをいたします。

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