2016 年 2 月 14 日

・説教 ヨハネの福音書18章12-27節「アンナスの尋問と主の弟子ペテロ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 14:18

 

2016.2.14

鴨下 直樹

 
 今週からレントに入ります。また私たちはこの礼拝にまさにレントにふさわしい聖書の箇所を聞きました。主イエスの裁判が行われるところです。主イエスが弟子のユダの裏切りによって捕えられ、裁判にかけられます。今日のところはローマの裁判というよりも、ユダヤ人たちによる裁判と言ったらいいでしょうか、尋問というべきかもしれませんけれども、アンナスによる取り調べをうけるところです。

 先週の木曜日、前任の浅野牧師のお子さん、Y君の記念会が行われました。亡くなって10年を今年で迎えました。私はその時ドイツにおりましたので葬儀にでることはできませんでした。浅野先生たち家族がY君を支えられた生活は本当に厳しいものだったのだろうと想像します。また、教会のみなさんも、そのために祈り支えてこられたのだろうと思います。この記念会で浅野先生がコリント人への手紙第二、第四章16―17節のみ言葉を紹介してくださいました。

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

 この聖書の箇所は、Y君が病を再発して動揺していた時に、聖書を読んでほしいと頼んだそうですけれども、読む箇所、読む箇所、そこじゃない、そこじゃないと言っていたんだそうです。ところが、このみことばを読んだとたん、「もう大丈夫」と言って落ち着きをとりもどしたのだそうです。

 まだ10歳という若さで、自分の病と闘いながら、死と向き合うというのはどういうことだったのだろうかと、改めて考えさせられました。そんなことを考えながら、今日の説教のために、この箇所を読んでいたのです。
 そうしたら、金曜日の昼に、Nさんから電話がありまして、妻のHさんが心筋梗塞で、今から救急で県病院で治療を受けるので祈って欲しいという電話をいただきました。電話をいただいてすぐ病院に向かいました。Hさんは、四か月前、祈祷会の最中に急に胸が苦しいと言って倒れられ、救急車を呼んで、治療を受けたばかりです。「大動脈解離」という、心臓から出ている大動脈という血管が縦に裂けてしまう大変な病だったのですが、治療している間に血管の傷が塞がっていきまして、その時は手術をしないでも良いということで回復したわけです。今回、また心臓ということで、とても心配しながら病院に行ったのですが、幸いにも、大事には至りませんでした。心臓の痛みを覚えたそうですが、血液をサラサラにする薬を飲んだところ、痛みは消えたのだそうで、今は原因を探りながら、薬で症状を改善できるように調べているということでした。
 思わぬ事態というのは、どこか遠いところにあるのではなくて、本当に私たちの日常というのは、常に死と隣り合わせのところにいるのだということを、改めて認識させられています。

 今日の聖書の箇所は、主イエスが捕えられて、ユダヤ人の指導者アンナスに尋問を受けている箇所です。興味深いことですけれども、他の福音書ではアンナスの裁きについては書いておりませんで、ユダヤの大祭司カヤパの裁きについてどれも記しています。けれども、ヨハネはアンナスの裁きについては記していますけれども、大祭司カヤパの裁きについては省略してしまっています。実は、これには理由があるのですが、19節を読みますと、大祭司はイエスに・・・尋問した」とあります。これは、カヤパのことではなくてアンナスのことです。どうしてアンナスのことを大祭司と呼んでいるのかということですが、実は歴史の記述によれば、アンナスは紀元6年から15年までユダヤの大祭司でした。その後で、このアンナスの娘婿のカヤパが紀元18年から36年まで大祭司を務めます。この時代のユダヤ人のヨセフォスという歴史家がこの当時のことを大変詳しく記していますので、かなり正確なことが分かるのです。そして、どうも、このアンナスというのは当時も大祭司カヤパよりも権力をもっていたようで、ユダヤ人たちからすれば、大祭司カヤパよりもアンナスの権力が幅を利かせていたので、ヨハネの福音書ではこのアンナスの尋問について記せば、もうそれでいいのであって、カヤパの取り調べについては書いても仕方がないというような理解があったようです。

 いずれにしても、この時に、14節で、「カヤパは、ひとりの人が民に代わって死ぬことが得策である、とユダヤ人に助言した人である」と記されています。これは、少し説明がいるのですが、すでに、11章でユダヤ人議会は主イエスを殺そうということを決めております。この11章の50節でカヤパがすでにこのユダヤ人議会で発言したことがここで繰り返されているわけです。
 アンナスもカヤパも、イエスを殺すことが得策であると判断をすでにしているのです。これは、いろいろと考えることができます。当時、ユダヤ人たちはローマに支配されていました。そういうなかで、主イエスが先導して不穏な活動をするとローマから目をつけられてしまいかねないという政治的な状況の中で、ユダヤ人たちが導き出した一つの政治的な結論がここに記されているわけです。
 長い目でみて、ローマに反感を持たれないで今後も自分たちが永らえていくためには、主イエスを殺すことが得である。そう考えた。いってみれば、それが、当時のユダヤ人たちの信仰の姿勢がそこにあったということができるわけです。もちろん、政治的にはそうなのでしょう。けれども、大切なのは、何が自分たちにとって得策なのかということが、この人たちの判断基準になってしまっているということです。
 ここで政治問題を話そうとは思いませんけれども、少なくとも神を畏れ、神に従う道を示さなければならない大祭司や、その宗教的な指導者が、損得勘定で判断をしたということは、小さくない問題です。そして、これは、私たちの毎日の信仰生活の中でもそれはそのまま私たちへの問いとなって戻ってくるわけです。

 私たちは毎日、自分の死という問題と遠くないところで生きているはずなのです。神の前にどう生きることが私たちにとって大切なことなのか、私たちが自分の死を迎える時に、この10歳の少年のように「もう僕は大丈夫だから」と言うことができるためには、少なくてもこれは、今の自分にとって損か得かという判断をすることとは異なるところに生きていなければならないはずなのです。
 このヨハネの福音書というのは、そういう意味でも私たちに、何が本当に大事なのかということを思い起こさせてくれています。ここで、アンナスやカヤパのような判断をくだした宗教指導者たちを一方で描き出しながら、その時に、主イエスはどうであったのかということに目を向けさせています。

 その大祭司の尋問に対して、主イエスはこう答えておられます。20節です。

わたしは世に向かって公然と話しました。わたしはユダヤ人がみな集まって来る会堂や宮で、いつも教えたのです。隠れて話したことは何もありません。なぜ、あなたはわたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、わたしから聞いた人たちに尋ねなさい。彼らならわたしが話した事がらを知っています。

 実に大胆な態度です。それで、「そばに立っていた役人のひとりが『大祭司にそのような答え方をするのか』と言って、平手でイエスを打った」と続く22節に記されています。それでも、主イエスは屈することなく、「もしわたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか」と答えておられます。

 もう、どちらが裁かれているのか分からないくらいですが、主イエスは、思わず手を上げる以外に何もできないくらいに、自分を裁く者に対峙しておられるのです。思わず手を上げてしまうなどというのは、もう何も言い返せなくなった者がとる手段でしょう。そうしなければならないほどに、主は恐れることなく、大胆に語っておられるのです。
 私たちの主イエスは、恐れないお方です。この世の権力を、この世の暴力を、この世界の不義に対して臆することなく、立ち向かわれるお方です。恐れる必要がないのです。なぜなら、真実は主イエスにあるからです。それは、何かと秤にかけて比べるようなものでは全くないのです。

 ヨハネは一方でそのように力強い主イエスを描きながら、その合間、合間にもう一人の人物を描き出しています。それが、主の弟子のペテロです。前回のところでは主イエスを捕えに来たものを思わず剣をもって切りかかってしまう姿を描きました。今日のところは、15節以下の大祭司の中庭での出来事です。しかも、ヨハネはこの時のペテロをこう描写しました。16節から18節です。

ペテロは門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いである、もうひとりの弟子が出て来て、門番の女に話して、ペテロを連れてはいった。すると、門番のはしためがペテロに、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」と言った。ペテロは「そんな者ではない。」と言った。寒かったので、しもべたちや役人たちは、炭火をおこし、そこに立って暖まっていた。ペテロも彼らといっしょに、立って暖まっていた。

 ここに興味深い記述がいくつもあります。まず、もうひとりの弟子が大祭司の知り合いで、ペテロを中庭に招き入れる許可を貰ったと記されています。この「もうひとりの弟子」というのは、名前は書かれていませんけれども、いつもペテロとセットで出て来る弟子です。これがヨハネであったと考える人も大勢いますが、はっきりとそう書かれているわけではありません。問題は、そこで、ペテロは主イエスの弟子であるということを、自ら否定してしまいます。「そんな者ではない」。という言葉は、ギリシャ語で「ウク・エイミー」という言葉ですが、主イエスが「わたしがそれだ」と言われた言葉の否定の形の言葉をわざわざ使っています。自分が何者であるか、見失ってしまっているのです。しかも、その後、炭火に暖まっているペテロ、主イエスを捕えたしもべや役人たちと一緒にいるペテロの姿をここで描いているのです。つまり、主イエスを裏切ったユダも、ここで主イエスの弟子であることを否定したペテロも、何の違いもないのだということを描き出しているのです。
 ルカの福音書などを読みますとその時にペテロは「外に出て激しく泣いた」と記されています。とても、印象的な場面です。ペテロの弱さを見て、そこで、共感する人も多いのだと思います。

 今日、この礼拝の後で、教会総会を行います。この総会資料の冒頭に新年礼拝の説教をそのまま載せました。今年の年間聖句はイザヤ書66章13節です。

母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める。

 新年礼拝で語りましたが、この「慰め」と言う言葉は一般的に口にするときには、自分とおなじような仲間を見つけてほっとするという意味で使われる時が多いわけです。それこそ、今日の箇所でいえば、ここで信仰者として決して立派であったとはいえないペテロの姿を見て、慰められるという訳です。ペテロのような弟子の代表のような人であっても、主イエスの弟子ではないと口にしてしまう。それこそ、ここで自分も弟子であるといえば、損をしてしまう。自分も捕えられて、ひょっとすると自分の身が危なくなると考えたわけです。そういうペテロの弟子としてふさわしくない姿を見ながら、ペテロでもそうなのだから安心するというような意味で、慰められるという言葉を使ってしまいます。

 けれども、この慰めるという言葉、ヘブル語で「ナーハム」という言葉ですけれども、これは、「憐れむ」とか「悔い改める」という意味でも訳される言葉で、自分の考えを変えるという意味のある言葉です。自分が変わるところに主の慰めがある。それこそ、子どもが母を見上げながら、不完全な自分の姿ではなくて、母が自分を見てくれているようすを知って、もう一度奮起しながら自分を取り戻すというような慰めを聖書は語っているわけです。

 ヨハネはこの福音書で、ペテロの姿を描きながら、信仰者はこれでいいのだと伝えたいのではないのです。そういうペテロの姿と私たち自身の姿を重ね合わせながら、けれども、その時に、主イエスはどうであったのか。まるで、母を見上げるように、主イエスを見上げる時に、主がペテロをどのようなまなざしで見ておられたのかが、やがて分かるようになる。そこで、本当の慰めを見出すことができるようになるのです。
 私たちは、主イエスを見上げることなしに、まことの慰めを得ることはできません。主の前に、弱い自分を悔い改めることなしに、主の救いに出会うことはできません。けれども、私たちが主イエスの姿をしっかりと心にとめることができるなら、病の中にあっても、死が隣り合わせにあったとしても、私たちはこの主イエスに支えられているのだという確かさを見出すことができるようになるのです。

 お祈りをいたします。

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