2016 年 3 月 6 日

・説教 ヨハネの福音書 19章1-16節「そして、王は十字架へ」

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2016.03.06

鴨下 直樹

 
 「エッケ・ホモ」というラテン語があります。ずいぶん、有名になった言葉です。オランダの画家、レンブラントも、19世紀から20世紀のフランスの画家ルオーも、この「エッケ・ホモ」という題のついた作品を描いています。今日の聖書の言葉で言うと、5節にある「さあ、この人です」という言葉です。

 今日の箇所を少し振り返ってみたいのですが、ピラトは、主イエスを裁きにかけています。ピラトはユダヤ人ではありません。この裁きが始まったときには、ピラトは主イエスにほとんど関心を示していませんでした。けれども、主イエスと語りあっているうちに、主イエスの言葉に引き込まれていってしまいました。そして、前章の18章の最後では、ユダヤ人の過越しの祭りの時にひとりの囚人を釈放する習慣があったことから、イエスを釈放するよう提案をします。ところが、この場にいたユダヤ人たちは強盗のバラバの釈放を要求します。

 ピラトはそれで何をしたのかというのが、今日の19章ですが、「イエスを捕えてむち打ちにした。」とまず1節に記されています。もう今から何年前でしょうか、俳優のメル・ギブソンが監督をした「パッション」という映画が上映されました。この主イエスの受難の出来事を描いた作品です。見られた方も多いと思いますが、私にはこの映画の中で、十字架よりも、ほとんどこのむち打ちの場面の生々しさだけが印象に残りました。あまり、見ることを他の人に薦めたいとも思えないほどの過激な描写です。しかし、このところの解説を読んでいますと、あの場面は過激な演出ではなかったのかもしれないと思う記事がいくつも出て来ます。どうも、このむち打ちというのは、むち打ちで痛めつけることによって十字架に磔(はりつけ)にされた時に早く死ぬことができるための慈悲行為だったというのです。

 しかも、この後で、続く2節と3節を見てみますと、

また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。彼らはイエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言い、またイエスの顔を平手で打った。

と書かれています。この兵士たちの嘲笑は言ってみれば非公式に行われたものですけれども、ヨハネはこうして、主イエスが王としてさげすまれたことを描いています。

 そこで、ピラトが言った言葉が4節です。

ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」

 ピラトがここで何をしたいかはもう明らかです。ここにいるユダヤ人宗教指導者たちは、イエスが、ユダヤ人の王であると言っていることを問題にして、ローマ皇帝への反逆者であると訴えているけれども、この鞭打たれ、ぼろぼろにされたこの哀れな男が、ローマに反逆しようとしている者にみえるのか? と問いかけているのです。そこで、言った言葉、「エッケ・ホモ」、「この人を見なさい」という言葉だったのです。

 これは、明らかにピラトからしてみれば、ユダヤ人宗教指導者たちに対する皮肉の言葉でした。しかも、他の福音書の場合は、王の恰好であざけられても、もとの服に着替えさせて十字架に向かったと書かれているのですが、ヨハネの福音書はわざわざ、その王の格好のままで主イエスを立たせているように描いているのです。言ってみればピラトの大掛かりな演出です。そうやって、主イエスを鞭打ち、王として辱めて、ユダヤ人たちを辱めているのです。いや、しかし、ほんとうはこうやって、神を辱めていることに、ピラト自身気づいていないのです。お前たちがローマに歯向かうことなどできるものか、お前たちがさんざん恐れているこの男の中に、いったい何があるというのだ。そんな侮蔑の意味をこめて「さあ、この人です」と、主イエスを指し示したのです。

 ところが、このピラトの問いかけは、ピラトの思いを超えてずいぶんと異なった響きとなって捉えられて行きました。この言葉は、もともとの言葉では「さあ」というのは「みなさい」という意味の言葉です。この人というのは「人間」をさす、「アンスローポス」という言葉です。それで、「見なさい、ここにこそ、まことの人間がおられる」という響きが生まれて来たのです。たとえば、先週歌いました讃美歌の「この人を見よ」という讃美歌もそうです。この主イエスのお姿にこそ、本当の人が見るべき、本当の人間の姿があると、この言葉を聞くことができるのです。パウロは、「第二のアダム」という言葉を使いました。創世記に記されているアダムは神に対する不服従のゆえに、この世に死をもたらしてしまいました。しかし、第二のアダム、まことのアダムである主イエスは、ここでまさに、神に従順に従われることをとおして、私たちに本当のいのちを与えるお方として、ご自分を示しておられるのです。

 このピラトの問いかけに対して、ユダヤ人たち宗教指導者、「祭司長や役人たち」は、何を見出したのでしょうか。ここではピラトとこのユダヤ人宗教指導者たちとの対話が記されています。これによると、彼らは「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫び、7節では「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死にあたります。」と自分たちの判断を訴えます。この言葉もずいぶん皮肉な言葉なのですけれども、前回の18章31節では、「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」と答えているのです。自分たちで、石打ちにして殺すことをしていながら、自分たちにはその権限がないと言ったのに、私たちの律法では死刑だと平然と答えているのです。
 すると、ピラトは「このことばを聞くと、ますます恐れた。」とあります。普通に読みますと、この狂気の中にいるユダヤ人たちを見て、恐れたということになるのですが、ヨハネはここでピラトがユダヤ人たちを恐れたのではなくて、主イエスを恐れたということに目を向けさせようとしています。それで、ピラトはつづく9節で「あなたはどこの人ですか」と尋ねているのです。

 「人の子」という言葉があります。この言葉はダニエル書に出てくる言葉なのですが、7章14節で「この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。」と記されています。ユダヤ人たちは主イエスが「神だと自称した」ことが死にあたると言っているのですが、この「人の子」として描かれているお方は、「神のご性質」と「人間としての性質」を持っておられることを同時に意味するこの「人の子」であられるということを明確に示しているのです。「この人を見よ」とピラトは自分で言いながら、この人は「人の子」として来られたお方なのだということを、ここで目の当たりにして、恐れているのです。

 それで、主イエスとピラトの対話に場面が移るのですが、ここで、ピラトは「あなたはどこの人ですか?」という主イエスの起源を問う質問をするのです。主イエスはその問いかけに対してはお答えになられませんでした。すると、ピラトは「私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威があるのだ」と語りかけます。けれども、主イエスはそう脅そうとするピラトに、権威というのは、上からあたえられるものだと答えます。ここからも分かるのですが、ピラトは主イエスを裁く立場にありながら、裁きが進めば進むほど、ピラトが実にたよりない存在であるかが明らかになっていきます。また、主イエスがいかに堂々として裁かれておられるのかが明らかになっているのです。

 そして、主イエスが言われたことが事実であることを示すかのように、今度はユダヤ人たちがピラトに対して叫んで言います。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません」と。あなたの権威はカイザルによって与えられているのだから、カイザルの意に背くことは出来ないはずだと言われてしまうのです。

 こうして、ピラトは

敷石、(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で裁判の席に着いた

と13節にあります。実はこの言葉は新共同訳ではこのように訳されています。

ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち、「敷石」という場所で裁判の席に着かせた。

何が違っているのかといいますと、新改訳では「裁判の席に着いた」となっているのが、新共同訳では、「裁判の席に着かせた」となっているのです。

 この「着いた」というのは、自分で裁判の席に着いたということですけれども、「着かせた」という場合は、「主イエスを裁判の席に着かせた」ということになります。これは、どちらでも翻訳可能なのですが、こうすると、裁判の時に席に着くのは、裁判をする裁く側の人間だけですから、主イエスが裁判の席についたというのは、表面上は主イエスがさばかれているように書きながら、実は、主イエスが着席することによって、裁かれているのは、この裁判の席で声を張り上げているユダヤ人たちということになるわけです。

 そして、そこで、ユダヤ人たちは何と答えているかというと、ピラトに「さあ、あなたがたの王です」と言われると、15節でこうあります。

彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかに、私たちに王はありません。」

 ここで、ユダヤ人宗教指導者たちは、まさに、自分たちの口で神を軽んじる言葉を口にして、自らが裁かれる者として、叫んでしまっているのです。

 まことの王であられる主イエスを、彼らは、自分の口で、十字架へと追いやってしまい、私たちの王は、カイザルだと叫んでしまっているのです。もう、ここで彼らは何を大切にしているのか、分からなくなってしまっているのです。いや、とても分かりやすいことなのかもしれません。それは、ただ、自分がその時かぎり守られるということだけです。律法によるとと、言いながら、神の心に寄り添おうとしないで、自分を守るために、自分たちを実際に支配しているカイザルに、あなただけが王ですと言ってしまっているのです。

 ここに、私たちが見るべき、人間の罪の性質が描き出されています。目先の安全を求めたために、より大切な神の心を軽んじたのです。そして、この罪の姿は、いつも、こんなにも仰々しい姿で私たちの身の回りに現れるのではありません。もっと、簡単に、安易に、私たちは神の心を軽んじてしまって、自分の安全を手にいれてしまっているのです。

 娘を連れて買い物に行くときに、子どもが遊ぶことができるコーナーが設けてあるところが、最近では至る所にあります。そうすると、小さい子どもというのは、すぐに仲良しになって遊び始めます。少し目を離すと、娘の話している言葉が耳に入って来ます。「また、今度遊ぼうね。」と誘っているのですが、注意深く聞いているとこう言っているのです。「芥見キリスト教会に、朝、十時に来てね」と言っているのです。私は、慌てて飛んでいきまして、「そんなに大きな声で話すもんじゃない」と注意するのですが、内心ドキドキしてしまうわけです。ところかまわず、伝道する娘の言葉に、周りの大人たちは不信感を抱くのではないか。それは、恥ずかしいことなのでやめてほしいと思ってしまう自分がいるのです。

 素直に、お友達になった子どもにも教会に来てほしいと思う娘の気持ちの方が、神様の前では尊いはずですが、私は恥ずかしいという思いが先立ってしまって、それを必死になって妨害している自分の姿に気づくのです。神様が喜ぶことは分かるのです。けれども、それは、いま、自分の気持ちが着いて来るかどうかは別問題で、そんなに四六時中、神様の喜ぶことを選び取れるわけがないと、そうやって、私たちは神様の思いに蓋をしてしまっている。私たちはそのように、小さな決断の一つ一つで神様の心から、離れることを選び取ってしまう。ここで、描かれているような、力強い王イエス、人の子イエス、あるいは、まことの人間としての主イエスのお姿を、見ようとしないで、毎日、毎日、主イエスを十字架につけてしまっているのです。それこそが、私たちの罪です。

 わたしが、主イエスを十字架に追いやった。いつも、十字架にはりつけにしたままにしてしまっている。そういう私たちの罪に目を止める必要があるのです。最近、色々なところで話しているのですが、私はクリスチャンになっても長い間、主イエスの十字架の意味がよく分かりませんでした。洗礼を受けて、10年たっていましたが、それまで、主イエスはみんなのための十字架におかかりになったと思っていたのです。けれども、そのみんなの中に、自分は含まれていませんでした。

 私は、神学校に入る前の半年間、根尾のキャンプ場に住んでいたことがあります。今はありませんけれども、キャンプ場の裏庭に、大きな実物大と思われる十字架がありました。大きな鉄でできた、さび付いた白い十字架です。私はその十字架をぼんやり眺めていました。ふと、イエスさまがかかった十字架って実際このくらいの大きさだったのかなぁと想像してみました。もし、ここに本当にイエスさまがおられて、十字架に磔(はりつけ)にされているとしたら、私は何を考えるんだろうか。そんなことを想像してみたのです。はじめに、思いついたのは、それは痛かっただろうという思いでした。けれども、すぐに、その考えが実に愚かな考えであることに気づきました。もし、ほんとうに目の前に十字架で磔で死のうとされているイエスさまを目の当たりにしていたとしたら、痛そうだなぁというのは、あまりにも暢気すぎると思ったのです。

 目の前に十字架で死のうとされている主イエスのお姿を目の当たりにしたら、きっと心痛めずにはいられないはずです。本当は、私がここで磔にされなければならないはずなのではないのか。そうだとしたら、ただ、できるのは自分を鞭で打ちたたきながら、私の罪をおゆるしくださいと祈る以外にないのではないか。そう考えた時に、私ははじめて、主イエスの十字架が私の罪のためであったことが分かったのです。

 主イエスは、わたしたちにほんとうの愛をお示しになられるために、十字架にかけられました。私たちは、主を見上げながら、「この人を見よ」と言われる主のお姿をしっかりと心に刻む必要があります。そこからしか、私たちの信仰の歩みは生まれないのです。

 お祈りをいたします。

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