2016 年 3 月 13 日

・説教 ヨハネの福音書19章17-27節「十字架の王、イエス」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:28

 

2016.03.13

鴨下 直樹

 
 先週の金曜日に私が教えております東海聖書神学塾で理事会と、評議員会と卒業式が行われました。一昨年より、後藤喜良先生が校長になれられまして、それまで校長をしておられた河野勇一先生は神学塾の理事長になられました。朝、理事会で河野先生が短くお話しくださったのですが、とても興味深い話をしてくださいました。ホワイトボードに富士山の絵をかきまして、山頂には雲がかかっている。私たちはその山のすそ野で生活しているとすると、山の上の雲の上をぐるっと赤色のペンで丸い円を描きまして、この山の上のこの部分が聖書の語る信仰の世界ですと言われました。そうすると、私たちはついつい、この山の上の世界のことを、この地上の生活の方にそれを持ち込んできて、聖書は私たちの生活にどう役に立つのかというように考えてしまいます。けれども、大切なことは、聖書の語る信仰の世界を、自分たちの生活に持ち込むのではなくて、この裾野に生きている私たちが、どうしたら、この山の上の世界に引き上げることができるか。そのことが大事なのだということを言われました。

 この河野先生という方は、名古屋の神学塾で教理を教えてくださる先生で、説教を教えてくださる先生でもあります。私も、神学生の時に、この河野先生から教理や説教を学ばせていただきました。とても短く、とても簡単な説明ですけれども、信仰の本筋をとても分かりやすく、絵で描きながらお話しくださったので、私自身、改めてこのような簡単な説明の仕方ができるのだと、とても教えられました。

 今日の箇所は、主イエスが十字架におかかりになられるところです。今日は17節から27節のところですが、ここにはいくつかのことが記されています。はじめの17節から22節は主イエスがご自分で十字架を担がれてゴルゴタへ行かれ、そこで、「ユダヤ人の王」と書かれた罪状書きが掲げられ、十字架につけられたところです。その後、23節と24節では、主イエスを十字架につけるときに、兵士たちが主イエスの着物を分け合い、下着もくじを引いて分けたという出来事が書かれています。これは、詩篇22篇18節の成就だとされています。そして、最後の部分は、25節から27節ですが、読み方によって人数が変わって来ますけれども、4人の女の弟子たちが主の十字架のそばにいて、主イエスの母マリヤのことを、主の愛された弟子にゆだねたということが記されています。

 最初にも言いましたけれども、私たちはこの主イエスの十字架の箇所を読む時に、この聖書の箇所は私の生活にどのような意味を持つだろうかとつい考えて読んでしまいます。そして、ここから、色々な意味を見つけ出そうと努力します。けれども、まずなによりも大事なことは、ここで語られているのは何かということに、素直に心を向けることです。

 はじめの場面にまず目を向けたいと思うのですが、17節にこう記されています。

イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。

とあります。主イエスは十字架に磔にされてしまいます。それこそ、雲の上の生活と、この富士山のすそ野の生活とがぶつかり合って、天上の生活、信仰の敗北という出来事がおこっているかのように見えているところです。ですから、そのように理解して聖書を読みますと、ああ、聖書に書かれている神の世界というのは結局人間たちの罪にやぶれて、主イエスは殺されてしまわれた。だとすると、神の言葉は、信仰の生活というのはこの世に敗北するような弱いものなのだということになります。

 神の言葉は弱い。ある意味ではそうなのかもしれません。神の言葉であられる主イエス・キリストもここで十字架に磔にされてしまっているのです。けれども、興味深いのは、このヨハネの福音書は他の福音書のように、主イエスは弱々しく、十字架を担いでゴルゴタに行けそうにないほどに弱られていたので、クレネ人のシモンに助けてもらったというようことは書いてはいないのです。十字架のところで、主イエスをさげすむ群集たちの言葉もありません。劇的といえるような描写はほとんどはぶかれてしまっていまして、静かな十字架のお姿が記されているといってもいいかもしれません。ただ、ここでは主イエスは自ら十字架を背負ってゴルゴタに行かれた。そのことだけで十分です。

 確かに、主は弟子のユダに裏切られ、ユダヤ人宗教指導者たちによってポンテオ・ピラトに引き渡され、釈放のチャンスを得るも、彼らは「十字架につけろ」と叫びました。けれども、ヨハネは主イエスが敗北者のように十字架につけられたのではなく、自ら、十字架を背負ってゴルゴタにまで行かれたのだと語っているのです。

 確かに、十字架の主イエスは、神の言葉の弱さが確かに示されていますが、同時に、主イエスの力強さが描き出されています。主イエスは死を恐れて十字架にかけられたのではありませんでした。また、主イエスは人々に殺されてしまったのでもないのです。主イエスは自らの意思で、十字架へと向かって行かれたのです。そして、そこに私たちの救いがあるのです。主は私たちを救うために、自ら十字架を担いで、ゴルゴタへと歩まれたのです。まさに、そこにこそ、神の愛が示されているのです。

 そして、主イエスが十字架にかけられた時、ピラトは「ユダヤ人の王」という罪状書きを掲げました。ヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書いたのです。ピラトは意図していなかったのかもしれませんが、それは、そのまま主イエスは世界を救う王であるということを、告げ知らせることになったのです。

 「王」というのは、人に仕えられる人と考えられてしまいがちですけれども、聖書が語る王はそうではありません。「王」の職務は本来、民を生かすためにその権威が与えられているのです。主イエスは、まさに、人々の、この世界の人をいかすために、十字架で殺されるのです。自ら、ゴルゴタへと歩んで行かれるのです。

 私には忘れられない洗礼式があります。それは、一人の男性のお年寄りの方でした。その方の息子さん夫婦は、長い間教会に通って、教会で役員をしていました。何度も何度も、その息子さん夫婦から教会へ行くことを誘われたのですが、ずっと拒んでいました。ところが、ある時、その息子さんの奥さんが、大きな病気にかかられて、手術することになったのです。もう、最後、手術室に入っていくときに、その奥さんがにこやかな笑みを絶やすことなく手術室に入って行かれたのだそうです。それから、十年以上もたって、今度は自分が病気になって手術を受けることになりました。もう、その時かなりの年齢だったと思うのですが、私はその方を訪ねました。すると、そこで、その方が言われたのは、その息子さんの奥さんの姿が目から離れないのだと言われました。自分もやがて手術室に入る。けれども、あんなに笑いながら手術室に入れるとは思えない。息子たち夫婦の信仰を自分はいままで拒んできたけれども、自分にはないものを持っていたことが今は良く分かる。私も信仰を持ちたいのだと言われ、病床で洗礼式をいたしました。

 多くの人は死を恐れます。それは、耐えられないほどの不安を与えます。けれども、主イエスのお姿が、人々に確かな平安を与えておられることをしめされるものでした。まさに、人にいのちを与えるお方として、まさに、世界の王として主イエスは十字架にかけられたのです。

 もう一つのことが記されています。主イエスの四人の女の弟子たちが記されています。ここでも、驚くべきことが記されているのですが、主イエスは十字架にかけられているところで、ご自分の母マリヤに、こう語りかけます。26-27節です。

「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこにあなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

 ご自分の死を目の当たりにしながら、主イエスは、主の愛された弟子に新しい家族として、マリヤを迎えるように言うのです。ここで、主イエスの死を通して新しい家族が生まれます。この愛する弟子は、これまでも記されていましたけれども、突然ここに出て来ているような印象を受けます。これは、色々な憶測がありますけれども、一般的にヨハネのことだと考えられています。この愛された弟子は、主イエスの母マリヤを「自分の家に引き取った。」とあります。家族でない者どうしが、主イエスの死を通して家族となったのです。まさに、主イエスと、愛された弟子とは実際に兄弟となる。教会で、お互いのことを、兄弟、姉妹という習慣があります。まさに、主イエスによって結ばれた新しい家族であることを、教会はそのようにお互いを呼び合うことによって現してきました。

 最初にお話ししましたけれども、ここの箇所だけではありません。聖書は、聖書が語る信仰は、自分の世界に神の世界を入れ込むことではありません。ここでもそうですけれども、神の世界、神の国に、新しい信仰の国に、母マリヤも弟子ヨハネも招き入れるのです。いや、そればかりではありません。私たちみなを、主は新しい神の国に招き入れるのです。

 信仰の世界といいましょうか、神の国と言った方がいいのですが、神の国は、私たちに与えられるものです。けれども、私たちの生活に役立つものを、そこで神が与えてくださるというのではありません。私たちが、神の国に、新しい生活へと招かれるのです。それは、たとえば、手術の前に、にこやかに手術室にはいることがきるようになるというような、具体的な姿となってあらわれるのです。

 主イエスが、私たちを愛してくださっているのです。主イエスご自身が、私たちのために、十字架をかついで、ゴルゴタに進んで行かれるのです。私たちを、主のもとに招きたいからです。主のお姿を見て、私たちが心動かす時、それこそ、主イエスが喜ばれる時なのです。
 こうして、主イエスは私たちの王となってくださるのです。

 お祈りをいたします。

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