2016 年 3 月 20 日

・説教 ヨハネの福音書 19章28-37節「完了した!」

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2016.03.20

鴨下 直樹

 
 今日の週報にも書かれておりますけれども、復活節の第二主日に洗礼式を予定しています。今、二人の方々が信仰の入門クラスという学びを続けています。この芥見教会では、洗礼式に先立って試問が行われます。試問というのは、口述の試験という意味があります。ですから、ちょっと言葉が厳しいので、面接とか面談にした方がいいのではないかという意見もありますけれども、いままで試問として続けてまいりました。ここで何をするかといいますと、洗礼、入会を希望する方の証を長老と執事たちで一緒にお聞きして、いくつかの質問をしながら、洗礼を受けさせてもよいかどうかを確認するのです。最近は、教保といいますけれども、この洗礼入会希望者の信仰の支え手となってくださる方も一緒に出ていただいています。私は、いつも思うのですけれども、この試問の時に行われる会話を教会員のみなさんが御一緒できればいいのにと思います。

 時折、長老や、執事から厳しい質問が出る場合があります。わずか5分から10分程度の証で、その方のことがすべて語られているわけではありません。ですから、役員の方々もできるかぎり、洗礼を受けられてからの信仰が支えられることを願って色々な質問をしたり、色々な意見を言われます。ところが、いつもそうですけれども、気が付くと役員の方々が自分がどのように信仰に至ったのか、何を悩んだのか、信仰の歩みの中で戦いになることはこういうことだという証をしはじめるのです。私は、洗礼を受ける方のことばかりでなくて、そこで、その役員方の今まで知らなかった一面を知る機会ともなるので、この時をいつもとても楽しく思うのです。

 自分の信仰の話をする。自分はどのように信仰が与えられて来たのか。どのように、教会に来るようになったのか。どう信じたのか。何を悩むのか。そこには、一人一人の生きた信仰の言葉があります。そして、そこには、必ず、主イエスとの出会いがあるのです。それは、みな違います。心に響く聖書の言葉も違います。それまでの歩みもみな違います。みな同じように、主と出会うわけではないのです。けれども、そういう言葉を聞くと、自分の味わったことのない、生きて働いておられる主の姿を知ることができるので、それはとても嬉しい時間となるのです。

 今日の箇所は、いよいよ今週から受難週に入ります。そこで、主イエスが十字架ですべてを成し遂げられて、頭をたれて、その霊をお渡しになったときの事が記されています。主イエスはその時、「完了した」と言われたと、聖書は記しています。
28節でまず「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、」と記されています。

 「すべてのことが完了した」とあります。自分がすべきことをすべて完了する。私の書斎を覗かれたことがある人は、みな知っていると思いますけれども、もうどうすることもできないほどの紙の束がいたるところに積まれています。お世辞にも綺麗な部屋とは言えません。一言で言い表すとすれば「カオス」です。きっといつか私はこの牧師室の高々と積み上げられた資料をすべて整理し終えることが出来た時に、「完了した」と心から叫ぶことが出来るのかもしれません。

 半ば自虐的に話していますけれども、私がしなければいけない事柄は、主イエスが託されたものから考えれば、スズメの涙ほどのものです。本当にどうでもいいことばかりと言ってもいいかもしれません。けれども、それでも、すべてを完成させるのは無理な気がするのです。主イエスが託されたものは、測り知れません。しかも、旧約聖書に記された一つ一つの約束の言葉も、主は余すところなく成し遂げられたのです。

 たとえば、30節で主イエスが命をひきとられた瞬間の事が記されています。

イエスは酔いぶどう酒をうけられると、「完了した。」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。

 ここに、主イエスがすべて「成し遂げられた」、「完了した」という言葉が記されていますけれども、新改訳聖書はここで「霊をお渡しになった」と訳しています。実は、この「お渡しになる」と言う言葉ですけれども、この18章と19章に何度も「引き渡す」という言葉が使われています。ピラトが語った言葉で、ユダヤ人たちが主イエスを引き渡したと18章30節や35節で語られています。19章11節では主ご自身がピラトに向かって「わたしをあなたに渡した者に」と言っていますし、最後の16節では、「十字架につけるために彼らに引き渡した」と記されています。
 これは、ヨハネの福音書の10章18節で主イエスはこのように語られました。

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。

 主がご自分で言われた言葉を、この30節の「霊をお渡しになった」という言葉でヨハネは表現しています。けれども、そこには、実に何度も、何度もこの同じ言葉を使いながら、ユダヤ人たちやピラトによって、主イエスのいのちが奪われたのではなくて、このヨハネの10章の言葉が実現するように、神がそのように主イエスを導かれ、いのちを引き渡す最後の瞬間まで、すべての御業を終えて、ご自分のいのちを自らお返しになったのだということをここで物語っているのです。

 これは、どういうことかというと、主イエスは、神から私たちを救いに導くために必要なことは全て成し遂げてくださったということです。洗礼を受けるように導かれたこと、そのあとも、色々と思い悩むこと、信仰から離れそうになること、そういう私たちが通されるであろうすべてのことを、主はすべて支えることができるように、神に託された御業をすべて成し遂げてくださったということなのです。

 ですから、この十字架での主イエスの「完了した」という言葉は、私たちにとって慰めの言葉なのです。「ああ、まだあれもできなかった。これも不完全だ。あそこに資料は埋もれたままだし、あなたから聞いていた祈りは結局、何もできずじまいでしたね」などというようなことではなくて、すべてを「完了した」と叫ばれて、主イエスは自らいのちをお渡しになられたのです。この主イエスの「完了した」との言葉は、あなたへの愛をわたしは完成させた、あなたを愛して、その愛を貫き通したのだという主イエスの宣言の言葉なのです。

 少し細かな箇所に目をとめてみたいと思いますが、主は十字架の上で「わたしは渇く。」と言われました。28節です。主イエスはヨハネの福音書では酸いぶどう酒をのまれているように書かれていますけれども、たとえばマタイの福音書などでは、これを拒んで、「なめただけで、飲もうとはされなかった。」(27章34節)と記されています。けれども、ヨハネの福音書では主の方からお求めになられたように記されています。マタイでは、酸いぶどう酒を死の苦痛を和らげるものとして受け止めて、主イエスはこれをなめただけだったとして、主が十字架の死を明確な意思で受け止められたことを描こうとしたのですが、ヨハネも、「わたしは渇く」と言われて、ぶどう酒をもとめられたのは、十字架の死を積極的に受け入れられたことのしるしとして描き出そうとしているのです。興味深いのは、同じことを考えていながら、描写は正反対になっているというところにあります。

 しかも、この29節で

酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それを、イエスの口もとに差し出した。

と書かれています。ただ、ここで、ヒソプという植物の名前がでてきます。今、レビ記を学んでいますが、少しまえにちょうどこのヒソプについて学びました。このヒソプは重い皮膚病、新改訳では第三版で「ツァラアト」となっていますが、この重い皮膚病を患って癒された時に使う儀式にこのヒソプを使いました。それで、詩篇の51篇などでも、「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。」とあります。この「ヒソプ」というのは、はっか科の雑草で、乾燥させて調味料にしたり薬草として使用しました。出エジプト12章22節では過越しの時に、

ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。

とあります。イスラエルの民がまだエジプトで奴隷であったときに、イスラエル人を導き出すためにモーセが10の奇跡をエジプトの王の前でします。この最後の奇跡、エジプトの長男という長男がすべて殺されるという神の裁きの業を行われた時に、羊を殺したその血にヒソプの束を入れ、その血を鴨居と門柱に塗ることで神の怒りが過ぎ越すという出来事が起こります。これを通してイスラエルはエジプトから脱出することができるようになります。それ以降、イスラエルの人々は今日に至るまで、この神の救いのみ業を思い起こして、過越しの祭りを祝います。

 ですから、ヒソプという言葉が聖書にでてくると、それは、神の赦しの御業のために使われた植物であるということは、誰もがすぐ分かりました。そして、この十字架の際にも、酸いぶどう酒をヒソプの枝につけて主イエスに飲ませたという記述は、ここでも、主の救いの業が行われようとしているということが分かるわけです。

 また、31節以降では、主イエスが十字架で死なれた後、ユダヤ人たちが安息日になる前に、死体を十字架の上に残しておかないように願い出たことが記されています。それは、申命記21章22-23節にある

もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。

という規定を反映しています。
ここに記されている一つ一つの記述が、主イエスが「完了した」と言われた通り、まさに、神の救いの計画の一つ一つが、聖書に記されているとおりに成し遂げられたことを、書き記しているのです。

そして、今日の箇所の最後の部分ですけれども、34節に

兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。

と記されています。十字架にかかって死んだものを槍で突き刺すと、実際に水と血がでることがあるのかどうか、私は分かりませんが、調べたものではそれはあり得ることだと書かれていました。しかし、わざわざ、血だけではなくて、水が出たことも記しているのは、特別な意味をそこに込めているからです。教会では二つの大事な典礼、サクラメントと言いますけれども、聖餐と洗礼を主から言われた命令であるとして、とても大切に、いまでもそれを行い続けています。もう21世紀なんだから、洗礼式なんて形式ばったことをやらないで、紙にサインすればいいというわけにはいかないわけです。古代や、中世の教会の指導者、教えの父と書いて、「教父」といいますけれども、教父たちはこのヨハネの記述をもとに、血と水こそが大事なのだということを言い続けて来ました。つまり、洗礼と聖餐は、主の恵みを特別に預かる手段であると考えて来たのです。
このヨハネの福音書でも4章10節でヤコブの井戸で主イエスと出会ったサマリヤ人の女との会話で、主イエスは「あなたに生ける水を与える」という話をしておられます。そこから、ヨハネの福音書はすでに何度もこの、「生ける水」について語って来ました。十字架で死なれた主イエスから、水と血が出たというのは、こうして主イエスから生ける水を頂き、血を頂くことによって私たちは生きる者とされることを表していると、教会は語り続けて来たのです。
まさに、主イエスの十字架の死が、私たちにいのちを与えるのだということを、この出来事の中に見出してきたのです。主イエスの十字架の死は、わたしたちにいのちを与えるため。こうして、主イエスは、私たちを救い、私たちをいかすために必要なことをすべて成し遂げてくださった。完成させてくださったのです。この主イエスこそが、私を生かしてくださると信じる。この主イエスが私たちに本当のいのちを下さった。このことが、私たちを支えるのです。

主イエスはまさに、私たちを命がけで愛してくださいました。それが、主イエスの十字架です。だから、人を死刑にするシンボルであるはずの十字架が、愛のシンボルとして用いられるようになったのです。ここには、価値の大転換があるのです。人を殺すためのものが、人を生かすためのものとなる。主イエスは、私たちを愛して、その愛を中途半端で終えることなく、完成させてくださいました。愛し抜いてくださったのです。愛し抜くということは、何と難しいことでしょう。何かを完成させるということの何と難しいことでしょう。しかし、主イエスはそれをしてくださったのです。私たちを生かすためにです。私たちが愛を知り、喜んで生き、平和を築いて生きることができるために。そのために、主イエスは、十字架でこう叫んでくださったのです。
「完了した!」と。

お祈りをいたします。

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