2016 年 3 月 25 日

・説教 ヨハネの福音書 19章38-42節「主イエスの葬り」

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2016.03.25

鴨下 直樹

 
 ピエタと言われるミケランジェロの彫刻の作品があります。ローマのバチカン、サン・ピエトロ大聖堂にあります。私たちは岐阜県美術館に行きますといつでもそこにレプリカがありますので、そこで見ることができます。十字架から降ろされた主イエスの亡骸を、その母マリヤが抱いている母の悲しみを描き出しています。この日曜日の説教でも語りましたけれども、主イエスは「完了した」と言われて、その霊をお委ねになられました。この地上でなすべきすべてのことを成し遂げられた。それは、まさに、父なる神のみこころをすべて完成させて、人への愛を成し遂げられた十字架の主イエスの姿でした。そして、その亡骸をマリヤは抱きながらそこで何を思ったことでしょうか。

 今日は受難日です。それで、この夜私たちは主イエスの十字架の死を覚えるためにこうして集まって礼拝を捧げています。私たちがここでするのは、まさに、このピエタに込められているように、私たちもまた主イエスの亡骸を抱えながら、主イエスの死を自分の心に刻むことです。

 死と向かい合うこと。それは、多くの人がどうしたらいいのか分からなくなるので、避けて通ろうとすることです。できるかぎり、死を生活の中で思い出さないように、考えないようにして人は生活しています。そして、まるで、死など存在しないかのように思い込むことこそが、充実した人生をおくっているかのような錯覚をしてしまいます。

 しかし、死はいつも私たちの傍らにあるのです。誰か、身近な人が亡くなると、私たちは取り乱してしまいます。それを冷静に受け止めて、自分の膝に抱えるなどということはほとんどありません。死を恐れるからです。けれども、私たちは死を恐れるのではなくて、まさに、主イエスが死を引き受けてくださったがゆえに、私たちは落ち着いて死を思うことができるはずなのです。

 自分の愛する息子の死を膝に抱える母マリヤはどのような思いであったことでしょう。ミケランジェロはどうも、その生涯にわたって4度も、このピエタを彫ろうとしています。一作目は20代の時の作品ですが、その後、70歳を越えてもう一度ピエタに取り掛かります。そして、遺作になった4作目のピエタを掘り始めて倒れる前日までこのピエタに取り組んでいたと言われています。それは、言ってみればミケランジェロの生涯というのは主イエスの死と向かい合い続けた生涯であったということができるのだと思います。何度作っても満足できない。違う、もっと違う何かを表現したいと思い続けたのでしょう。そこには、現代の多くの人々が目をそらし続けているものに、自ら向かいつづけようとした一人の人の生き方があるのだと思うのです。

 そして、今日の聖書箇所にはさらに、二人の人の名前が出て来ます。アリマタヤのヨセフと、ニコデモです。アリマタヤというのは地域の名前です。先日テロのあったヨッパ、今でいうヤッファから東へ約30キロほど離れた土地、つまりユダヤ人で、他の聖書箇所を見ますと議員とありますから、ユダヤ人の宗教指導者の一人です。続いて出て来るニコデモは、39節で、「前に、夜イエスのところに来たニコデモ」と説明されています。これは、ヨハネの3章1節以下の出来事ですでに出て来た人物で、この人も「ユダヤ人の指導者であった」とあります。ニコデモはすでに、主イエスを訪ねて、「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。」と言った人です。けれども、主イエスが「人は水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」と答えられて、そのことが分かりませんでした。しかし、ここでは、ヨセフもニコデモも、十字架で死なれた主イエスの亡骸を葬るためにローマの総督であるピラトに許可を求めて、丁寧に埋葬しています。

 特に、ニコデモの方は埋葬のために

没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ30キログラムばかり持ってやって来た。

と39節に記されています。あまり気にして読んでいないと読み過ごしてしまうところですけれども、30キロのもの没薬というのいうのは、とてつもない量です。以前もヨハネの福音書ではマリヤが高価なナルドの香油を300グラム、主イエスの足に塗ったという記事がありましたけれども、それを思い起こさせるような量です。ナルドの香油も今でいうと300万円くらいの価値と言われています。ここでのニコデモの没薬も、その出来事を思い起こさせるような量の没薬なのです。それは、マリヤの時もそうですけれども、主イエスのために自分のできる限りのことをしたいという、その心のあらわれです。

 アリマタヤのヨセフにしても、41節で

イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。

とあります。おそらく自分のために備えておいた墓でしょうか。その墓に主イエスを埋葬する。そこに、ヨセフの精一杯の心があらわれています。

 ヨハネの福音書はそのように、主イエスの葬りを、ユダヤ人の指導者たちが心を込めて行ったことを伝えているのです。これまでの箇所はユダヤ人の指導的な立場の人々はみなこぞって主イエスを十字につけた側の人間のように描かれていましたけれども、ここで、その中にも主イエスを信じる人たちが起こされていたのだということを、ここでしっかりと描き出しているのです。

 主イエスの生涯にふれて、自分のもっているもので、主イエスの死を受け止めようとした人たちがいたのです。母マリヤも、ニコデモも、ヨセフも、そして、私たちも、主イエスの死を自分のものと受け止めるように問われたのです。
 主イエスの死を目の当たりにして生まれる、心の思いがあります。主イエスの死を受けとめたところに、神の恵みが見えてくるのです。

 今日、少し前に注文をしておりました、古書が何作か届きました。私が真っ先に手にとって読んだのが、加賀乙彦の『キリスト教への道』という本です。加賀乙彦というのは、カトリックの文学者です。何冊も小説を書いております。しかし、実は、この方はもともと文学者だったわけではありませんで、もともとは精神科の医者でした。少し面白い経歴のある人で、この本にはこの方がどのように生きて来たのかが書かれていてとても面白く読みました。もう、古い本で、1988年に出されたものです。

 なぜ、私がこの本をとったかというと実は少し理由があります。今日、ニュースで出ておりましたけれども、法務省が今日、二人の死刑を執行したというニュースを目にしました。それで、加賀乙彦の本に手を伸ばしたのです。この人は、犯罪心理の研究をした人で、死刑囚というのは、どのように死を受け止めるのかということに興味をいだいて、その研究をした人です。そこから、死刑制度そのものに対して異を唱えるようになりました。そのことは、今日のテーマではありませんので、また別の時に話したいと思います。けれども、この死刑が執行されたというニュースを聞きながら、この受難日に死刑を執行したのは意図的ではないかと思いながら、あらためて、死刑囚と向き合い続けた加賀さんがどのように信仰に導かれたのかを読んでみたいと思ったのです。

 この本を読んでいきますと、すぐにある死刑囚の名前がでてきます。まだ加賀さんが25歳の時のことだったようですけれども、東京拘置所に務めるようになって、当時有名になった殺人事件の犯人と出会います。昭和28年頃のことですが、この人は、逮捕された時に、「私はまったく罪の意識はない。私が大変な犯罪人だというけれども、一体悪とは何ですか」と新聞記者に問い返したというのです。というのは、どうも理由があるようで、戦争前に、アメリカ人を殺すことは善であった。ところが、戦後になって自分たちが善だと信じてきたことが逆になる。そうなると、善悪の基準というのは何を根拠にいうことができるのかということを、この人は考えていたのではないかというのです。

 ところが、刑務所で出会ってみると、この人はカトリックの信仰を持つようになった。それが、キリスト教との出会いになったということなのです。そして、しばらくしてからのことですけれども、この人の死刑を取り下げてほしいという嘆願をカトリックの方々が願い出て、200人分の署名を集めたのだそうですが、それを母親が出そうとすると、本人が止めたというのです。自分は今のようになって、こう言うのです。

「私は助命されたいとは思いません。私のやったことは悪いことなのだから、死刑になるのは仕方がない。けれども、私の罪というものは、神によってゆるされている、と思います。罰は受けます。罰は受けます。罰はカエザルによるものなのだから、それはイエスさまだってちゃんと、そういうものをお受けになっています。私自身が助命されようというのは、つゆ思いません。しかし、罪を犯したその罪の方は掟に反した、そして、それをゆるされるということによって、わたしは大きな恵みを受けた」

と言ったというのです。

 自分は悪いことなどしていないと、人を殺して言い切ることができた人間が、獄中でキリストと出会うことによって、自分の罪を知るようになって、そして、ゆるされるということもこの死刑囚は知る。それが、この加賀乙彦という一人の犯罪心理を研究していた加賀さんに大きな影響を与えたのです。

 キリストの死と直面して、自分の姿を見ると、そこには、どうすることもできない黒々としたものが自分の中にあることに気づかされる。罪などない、そんなものは分からないと人にいうことができたとしても、自分をみつめればそこから見えてくるものがあるのです。けれども、主イエスの死はまったく違うのです。まさに、愛を貫くための死であったということを知るときに、自分の罪を認める以外になくなる。そうやって、この主イエスはどういうお方なのだろうかということに心惹かれていくのです。そして、主イエスが与えてくださるいのちの豊かさがそこからみえてくるようになるのです。

 主イエスは確かに、人々によって埋葬されます。それは、まさに、事実として死なれたということです。その死を見つめることによって、私たちは自分を見つめることになる。自分が死ぬというのはどういうことなのか。自分の生き方はこれでよかったのか。人を愛して生きたのか、人を傷つけて生きて来たのか。自分の死と主イエスの死はどこがどう重なるのか。重ならないのか。考え始めたらきりがないほどですが、死を見つめ続ける時に、死を思う時に、人は本当の自分の姿を見つけ出すのです。そして、本当に葬られなければならないのは、誰なのかを見つめる。すると、私ではない、主イエスが葬られている。私ではなく、主イエスが死なれ、葬られる。そこに目をとめる時に、キリストが私たちの前に大きな存在として立っておられることを認める以外になくなるのです。

お祈りをいたします。

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