2016 年 5 月 15 日

・説教 エペソ人への手紙2章1-10節「恵みによって生かされて」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:58

 

2016.05.15

鴨下 直樹

 
 このエペソ人への手紙というのは、自分で読んでも、朗読されるのを聞いてもそうだと思いますけれども、あまり頭の中にすっきりと入って来ません。この金曜日も名古屋の東海聖書神学塾で、ある神学者の書いたものを神学生たちに読んでもらったのですけれども、あまりに堅い文章で書かれているために、1ページを読むたびに解説をしなければなりませんでした。本当は手紙ですから一気にまとめて読んでしまわないと意味が分からないはずなのですが、一週間ずつ文章を細切れにして読んでいますので、余計頭にはいりにくくなってしまいます。それで、すこしおさらいをしようと思うのですが、パウロはこの手紙の読者に、主イエスを信じた時に与えられるものがどんなに素晴らしいものかを理解できるようにと祈りました。それを、栄光の富と呼んだり、全能の神の力などと言い換えていますけれども、主イエスの復活の力が、教会の中で働いているのですよと、まず書きました。

 今日はその言葉につづく言葉なのですが、読んでみますとまたテーマが変わったように見えます。この2章の1-10節までの部分は、クリスチャンになる前の生活の回想をしているのが、1節から3節までです。つまり洗礼を受けるまでの生活のことを書いておいて、4節から7節では洗礼を受けてどう変わったのかということについて書いています。そして、8節からは、その「恵みによって救われる」というのはどういうことなのかを書いています。こうやってはじめに少し内容を整理しておきますと、何が書かれているかを理解しやすいのではないかと思います。

 さて、パウロはこの2章でキリスト者になる前にどんな生活をしていたのかを思い起こさせようとしながら筆を進めています。

あなたがたは自分の罪過と罪の中に死んでいた者であって

とまずあります。「あなたがたは死んでいたのだ」という言葉だけでも、何を言っているのか分からなくなってしまう言葉です。これは、聖書の代表的な考え方ですけれども、心臓が動いているという意味での生きているということではなくて、神の前に生きている者とみなされているかどうかを問題にしているわけです。「罪」と「罪過」の中に生きている者は心臓は動いていて生きているように見えていても、神はそれを死んだ存在として見ておられるということを言っています。神を信じる前の生活は、それがこの世界にどれほど意味のある貢献をするような尊い生き方をしていたとしても、神の前では死んだ者、けれども、主イエスを信じることができるようにされた時に、死んでいたものが、まさに1章の最後に書かれているように、復活の神の力によって、神の前で生きている者としてみなされるということ。それこそが、神の全能のお働きなのだということを言っているわけです。

 今、祈祷会で、レビ記を学んでいます。先週はレビ記の第19章を学びました。ここには

あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。

ということが書かれています。私たちは、誰かに「あなたは自分の生活が聖なる生活だと言えますか?」と質問されたら、「めっそうもない。そんな聖人のような、聖い生き方とは程遠い生活です」と言わなければならないと思います。けれども、神、主は、聖い生活をするように求めておられます。聖い生活とは何かといいますと、それは、神の戒め、ここではレビ記19章に書かれているような生活をすることというのが、この答えです。では、聖い生活っていうのは何かというと、ここで書かれているのはモーセの十戒を少し噛み砕いているのですが、神に従うことと、隣人を愛して生きることが書かれています。つまり、この神を愛して、隣人、私たちと一緒に生活している人たちを大切にする生き方をすることが、神の前に生きた生活をしているとみなされるわけです。

 「罪」と「罪過」という言葉が続いて書かれています。「罪」という言葉は、「ハマルティア」というギリシャ語で、「的外れ」という意味の言葉です。そして、「罪過」というのは、ギリシャ語で「パラプトーマ」といいますが、これは「道から外れてしまった」、「脱線してしまった」という意味の言葉です。つまり、罪の性質と結果を表す言葉なのですが、行くべき方向が定まっていないので、逸脱してしまったという言葉を使うことによって、罪ということを表そうとしているわけです。聖い生活をするならば神の前に生きたことになるのに、それをしないために死んだ存在になってしまったということです。

そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

と続く2節にあります。「空中の権威を持つ支配者」と見ると、「ああ、これは悪魔のことだな」と思ってしまうかもしれませんけれども、これは、「自分自身のこと」を指して言っている言葉です。この世界を、自分ですべて支配できるかのように思い込んで生きているのが、洗礼を受ける前の生活で、だから神から裁かれるべき存在なのだと続く3節で言っているわけです。「自分の肉の欲」という言葉が3節にも出て来ますが、これは、このエペソの手紙の得意とする言い換えですが、神に従う生活のことを、「霊」という言葉で表現し、反対の言葉としてを「肉の欲」という言葉で言い表しているわけです。つまり、神に逆らって生きる性質のことを「肉」と言っているわけです。「霊」という言葉と「肉」という言葉をそれぞれ対義語として使っているわけです。この肉の欲に従った生き方をするということは、神から御怒りを受ける対象となっているというわけです。この神の怒りの対象というのが、つまり、神はその者をもはや生きた者とみなさないということなのです。

 私たちは、神の裁きというのは、死んだ後で、閻魔大王の前に立つような感覚で、神の御前で裁きを受けて、永遠の滅びが確定するかのように考え込んでしまっているかもしれません。確かに、そういう時間的な書き方も聖書の中にはありますけれども、ここではっきり記されているのは、神を信じないで生きるということは、神の前に死んだ者なので、心臓が止まってから判決がでるなどということを考えるまえに、聖書は、この世での生活がすでに神の前に裁かれた者として生きているのだということです。

 けれども、4節以降で書かれているのは、神はそのように死の存在となってしまっている者を、愛してくださって、その愛のゆえに罪の結果として死んでいた者をキリストによって救ってくださるという道を示してくださいました。ですから、パウロはここでそれは

あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。

と言っています。

 神は聖いお方です。そして、この神は聖い生き方をするように求めておられるお方です。けれども、人間は自分こそがこの空中の権威を与えられているのだと、自分が神なのだから、自分の心の赴くままに生きればよいと思ってしまっているのです。けれども、神は、そういうどうしようもない私たちのことを、それは自業自得なのだから、死んだままでいい、見捨ててもいいとは思われませんでした。ここに神の愛がある。神は、そんな私たちを見捨てないで、愛してくださった。この神の愛が分かるときが来る。それを信仰と教会では言っています。

 いつも、教会に来られるようになった方としばらくすると入門クラスを持ちます。いつもそうですけれども、なんとなく始まります。私の方からお勧めすることもありますし、聖書のことをもう少し学びたいのですがと言ってこられるときもあります。私自身、振り返ってみても、どういう風に入門クラスが始まったのか、はっきり覚えていません。そのくらいなんとなく、始まります。もっとも、私の記憶力の方に問題がある気もしますけれども。そうやって、聖書のまなびを始めて行きますと、あるところで壁にぶつかります。信じるということが、どうも違うのです。

 これは、みなさん誰もが同じような経験をされるのではないかと思うのですが、一般に信じるという時には、信じる対象、私たちの場合は神様ですけれども、はじめのうちは漠然とした神様を思い描いています。それは、ひとそれぞれ、それまでの生活環境の中から、なんとなく神様はこんなお方と思い描いているイメージがあります。ところが、神という存在を信じるかどうかということは、ほとんど問題にしません。そのあたりで、「あれ?」となるわけです。そうではなくて、牧師は誰もそうだと思いますけれども、「主イエス・キリストが何をしてくださったのか」を色んな角度で、色んな切り口で語ります。そのうち、だんだん分かって来るのですけれども、それまでのご利益宗教の神様のように、この神様はどんな効き目があるのかというようなことを教会は語らない。聖書は語っていない。そうではなくて、神が私たちを愛してくださったのだ。それは、御子、イエス・キリストによって示されている、主イエスの愛を語る。そして、私たちは自分で一生懸命、信じるかどうするかということで格闘するのではなくて、この神の愛が分かるかどうか。このキリストによって示された神の愛を受け止めることができるかどうかを、ただ語りつづけるのです。

 パウロはここで、「恵みによって救われた」という言葉を5節の後半で語って、8節と9節でそのことをもう一度語りなおしています。8節をお読みします。

あなたがたは恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

とあります。自分で信じるというのではない、信仰は神からの贈り物、賜物で、神の愛が分かった時に、神はその信仰を贈り物として下さったのだと言っているのです。

 入門クラスをしながら、どなたの場合もそうです。「ああ、分かった」、この人も神の愛を受け取ったと分かるときが来ます。その時に、洗礼を受けませんかと勧めます。多くの方は、そんなことでいいのかと躊躇される方もありますが、みな、洗礼を受けますと答えてくださいます。

 その時、神の栄光の富が、その人に届けられた瞬間、神は全能の神であることを私は牧師として覚えることができます。私にとって、洗礼を受けられた方が、次の日曜日にまた教会に来る時に、それはまるで奇跡のように感じることがあります。そのまま続けて教会に集うことができるということは、決して当たり前のことではありません。特に、洗礼を受けてから、実に色々なことを考えるようになります。

 いつも、お話する一つのことは、救われた後、起こるのは、それまではあまり罪だと感じていなかった自分の行いが、罪だということに気づくようになるということです。これは、とても苦しいことです。教会に来る前、それこそ、自分が空中の権威を持っている時は、すべてのことは自分にとっては当たり前のことですけれども、洗礼をうけてから、いや、神の恵みを知ってからは、それは神が喜ばれないことだということが分かって来る。そこで、葛藤が生まれます。今までのように行くのか、自分が考えを改めるのか。そういう格闘をしながら、毎日、主イエスと共に生きるということは、ある意味ではとてもしんどいことです。それで、もう教会に行くのをやめてしまえばそこから解放されると思う。けれども、心の中では、もう神の前に正しいことが何かが分かってしまいますから、教会に来ないということが解決にはならないことも分かる。そうして、どうするか、思い悩みながら、神の御前に出る。神に助けを求める。自分が変えられることを求める。それは、本当に奇跡です。恵みとしか言いようがない。そうして、自分のうちに、全能の神の御力が働くことを体験していって、私たちは、パウロがここで言っている神からの賜物が何であるのか、栄光の富というのがどれほど豊かなものなのかを毎日の生活の中で知っていくことになるのです。

 今日は、ペンテコステの主の日です。ペンテコステというのは、50日目、主の復活から50日目、弟子たちにまさに神の賜物である聖霊がそそがれます。自分の力で、自分の救いを完成するのではなくて、神が、私たちの救いを完成してくださる。神が、聖霊を与えてくださって、私たちの生活を支えて下さることを教会が知った日です。私たちは、自分の罪の問題を、自分の力で乗り越えることはできません。このエペソ2章9節の「行いによるのではありません。」という言葉はそういう意味です。自分の力ではなくて、神の力によって、心の問題を乗り超えさせていただくことができる。それが、聖霊によって可能なのだという事を知ったのが、このペンテコステなのです。主は、神の霊を私たちに与えてくださいました。復活の力を、私たちにくださいました。それも、神の恵みです。私たちは、この神の恵みによって、毎日、毎日いつも支えられて生きることができるのです。

お祈りをいたします。

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