2009 年 8 月 23 日

・説教 「歴史の中で働かれる神」 創世記10章1-32

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:25

鴨下直樹

 今、水曜日と木曜日の祈祷会の時に、信徒の方々が聖書の話をしてくださっております。これまでの夏の間は、教会でそのようにしてきた伝統があるようで、私自身参加して大変よい機会だと喜んでおります。普段みなさんがどのように御言葉に向かい合っているかを知る機会ですし、また、そこからの問題提起に、みなさんがどのように答えるかということも大変興味深く聞かせていただいております。

 この木曜の祈祷会の話題に上ったことですけれども、聖書をどう読むかということは基本的なことですけれども、実にさまざまな意見を聞くことができて大変楽しませていただきました。そのきっかけとなりました一つは、芥見ネットという私たちの教会が毎朝登録している方々に、御言葉を携帯やパソコンにメールで届けるということをしておりまして、先週の御言葉がきっかけになりました。

 そのメールにはこうありました。

 

「思わぬときに、滅びが彼を襲いますように。ひそかに張ったおのれの網が彼を捕え、滅びの中に彼が落ち込みますように。」詩篇35章8節

 

☆あなたの敵を愛しなさい。(ルカ6章27節)とは一見、ずいぶん矛盾するように思いますが… 皆さん、どう考えますか?

 私ははじめ読みました時に、なぜこの聖句を選んだのか不思議に思ったのですが、これが思わぬ問いとなったようです。

 これは詩篇の35篇のダビデの祈りとされています。虐げられた者の嘆きの祈りです。このような祈りが聖書にあることを驚かれる方も少なくないと思います。実際に芥見ネットでは、「これは『汝の敵を愛せよ』という聖書の言葉と矛盾するように思うのだけれどもどう思いますか?」と書かれていました。聖書を読むというのは、このように時々「あれ?」と思えるようなところがあります。 この詩篇の場合は、自らが虐げられていることを義なる神は見過ごすはずはないという、「神の義」が背後に考えられているということはできるでしょう。木曜日にもお話しましたけれども、「相手を呪ってしまいたい」ということは、「愛しなさい」ということとは正反対です。そして、そのような祈りが素晴らしい祈りだということは言えないでしょう。けれども、神はそのように祈ることを許しておられると言うことがわかります。もちろん、裁きをなさるのは神です。相手を赦さないなどと宣言することも、信仰者としては問われることです。けれどもこのように、どんなことでも心を注ぎだして祈ることは、神は認めていてくださるということを私たちは同時に知っていてよいと思うのです。

 

 このように、聖書の中には実に様々な出来事が記されています。そして、ここはどのように読んだらいいのだろうかと思うのが、この創世記10章であると言ってもいいかもしれません。

 いつも礼拝の説教の箇所から一節を選んで教会の掲示板に掲げているのですけれども、そういう意味では、この箇所から町の人が看板を見て心を奪われるような御言葉はここにはないのかもしれません。書かれているのはノアの子どもたちがどのような民族を形成していったかがひたすら書かれています。「ヤペテの子孫は誰々」、「ハムの子孫は誰々」とひたすら続いているのです。ですから、今日の掲示板には先ほどお読みしたもう一つの聖書テキストである使徒の働き17章の御言葉を掲げました。

 けれども、だからと言ってこういう聖書の箇所が大事ではないということにはならないのです。今日のところは、実に色々なことが語られているところです。それを少しづつ見ていきたいと思います。

 

 まず、1節です。ここに、この第10章のことが要約されています。「これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史である。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれた。」と書かれています。ここには、大洪水によって世界の人々は滅ぼされたけれども、神によってもう一度世界に人々が増え広がっていったことがここで宣言せれているわけです。つまり、このようにして子孫が広がっていくことは、神の赦しなしには成し得ないことであって、ここに神の祝福を見ることができるのだということを宣言しているわけです。

 私がまだ子どもの頃のことですけれども、私は木曽川町の黒田という所で育ちました。ここ数年前にNHKの大河ドラマで山内一豊をやったようですけれども、この一豊が治めていたのが黒田という城でした。今は小さな祠があるだけですけれども、先週この前を通ったら綺麗になっておりましてびっくりしました。おそらく撮影用に綺麗にしたのでしょう。この一豊の家臣に五藤という人がおりました。ですから、近所には五藤さんという家庭がいくつもあります。教会にもその五藤さんが来ておりまして、ある時家の家系図というのを見せてくれました。歴史家に言わせると、家系図などというのは後で自分の都合のいいように書きなおしたもので、祖先は源氏か平家になっているというようなものだから当てにならないということのようでしたけれども、私は子どもの頃初めてそういうものを見たものですから、非常に興奮しながら見たことを今でも忘れることができません。私も父に、家にも家系図はないのかと聞いたものですけれども、ありませんで、代わりに曾お爺さん、曾々お爺さんの話を聞かせてくれました。この曾々おじいさんという人は寺小屋で先生をしていたんだというくだりになりますと、私はひどくがっかりしました。何だ自分の家は今は教会でも昔はお寺だったのかと思ったものです。 けれども、子どもにまた子どもが生まれて、そこからまた子どもが生まれてという話は、子どもの私には非常に大きな想像力を働かせながら色々と考えたものです。

 それは本当に不思議なことです。一人の人が生きている。それも、自分が知らないとこで生きていたということは想像することも難しいことです。けれども、人の歩みが神の御手の中にあるのだと思うと、何とも言えない安心を感じるのです。神が私の家族をずーっと長い間導いてくださった。この神の憐みの大きさがここで最初に宣言されているのです。 そして、この神の御手にあって人々はこの地上で生きることをゆるされてきたのです。私にとってこの家系図を見たことは、そのように見えない神の働きを知るきっかけとなりました。神は、私たちが知っていること、見えていることだけはなく、見えないところも支配して下さって働いておられるのです。

 

 そのような人々の系図ともいえることがびっしりと書かれているこの創世記第10章は、「家系図」という言い方ではなくて、「民族表」と言われています。ノアの子どものセム、ハム、ヤペテがどのような民族を築いていったかが、ここで表のようにまとめられているというわけです。たとえば、2節から5節はヤペテの子孫のことが書かれています。そのまとめとして最後の5節に「これらの海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれの国々の国語があった。」と書かれています。

 これは、後にでてくるハムの子孫のまとめである20節でも、31節にあるセムの子孫のところでも同じように書かれていますけれども、ここでは四つの視点でまとめられていることがわかります。つまり、地域、言語、血族、国家という視点です。特に興味深いのは国語のことが書かれているのです。この後の11章でバベルの塔のことが書かれていますが、そこでは、一つであった言葉が混乱したということですから、その出来事の前に、すでにそれぞれの国や国語があったというとおかしいのではないか?ということになります。 これはどういうことかと言いますと、この10章と11章は時間的な流れで書かれているのではないということです。ここで、この民族表はノアからどのようにしてそれぞれの氏族が増え広がっていったかを説明しているので、このバベルの塔の出来事もここにすでに記されているのです。

 

 そのことを記しているのが、ハムの子孫の中から登場する「ニムロデ」という人物です。このニムロデは8節で「ニムロデは地上で最初の権力者」となったとされていますけれども、最初の「王」と言ってもいいと思います。

 この創世記はすでに5章に一度系図が出ております。そこでも「エノク」という人物が神と共に歩んだということが記されておりまして、この人物だけが言ってみれば特別扱いされていたわけですけれども、この10章ではこのニムロデが特別扱いされているのです。何が特別かと言いますと、エノクのような信仰の人として評価されているわけではありません。このニムロデは政治的に評価されているわけです。

 それが、この後につづく9節で「彼は主のおかげで、力ある漁師になったので、『主のおかげで、力ある漁師ニムロデのようだ。』と言われるようになった」とあるように、このニムロデの背後には主の働きがあることが記されているのです。 

 けれども、このニムロデについて続いて見てみますと、「彼の王国のはじめは、バベル・・・」と記されているのです。そうです。11章に出てくる言葉が混乱したあのバベルです。ですから、このバベルの塔を築いたのはこのニムロデであるということができるわけで、そうすると、このニムロデが神の祝福によって立派な王となったのだというようなことではどうもないのです。

 ではなぜここで「主のおかげで」と訳されているかということですけれども、新改訳はそのように訳したわけですが、一般的に他の聖書はどれも「主の前に」と訳しております。この「主の前に」という言葉は、聖書の中に何度も出てきておりますけれども、たとえば、「主の前に悪を行った」という場合も同じことばですから、特別に良い意味というわけではありません。けれども、新改訳はこの翻訳にこだわりました。だから、第三版を出してもこの言葉はなおしてはおりません。それはどういうことかと言いますと、「例えニムロデが主に逆らい反逆していたとしても、それでも王として立てられているのは、そこに主の摂理があり、あわれみがあり、めぐみがあるからだ」と説明しています。

 神のゆるしなしに、この世界にはどのような王も立ちえないのだというメッセージをここに読み取ろうと新改訳はしているのです。それはどのような支配者であろうと、自分の力で勝ち取ったというようなことではないのだという、聖書のメッセージであるということを表そうとしているのです。

 このニムロデという名前は「われわれは反逆しよう」という意味があります。その名が示すとおりニムロデは神に逆らったのでした。そのように神に逆らう王でさえ、神のゆるしなしに王であることはできないのです。

 私たちの国でも間もなく選挙が行われようとしています。そのようにして選ばれる者もまた、自らの力ではないということを私たちは覚えていなければなりません。神に逆らう者が選ばれることも起こり得るのです。けれども、ここで言おうとしていることは、国を支配したり、政治を支配する権力者だけのことではありません。自分の生活を自分で支配していると思い込んでいる私たちにもそのまま当てはまります。けれども、神は長い間寛容を示し続けてこられたのです。

 それは、ひとつにはノアの時に、大洪水でこの世界を滅ぼした時に、このような悲しい歴史を繰り返すことがないようにと神がご自分に誓われたからです。そして同時に、この世界に神は大きな忍耐を示して、人々が悔い改めるのを待っていてくださるのです。

 それは、聖書を読む時にあらゆるところに示されています。ダビデが人の呪いを祈ることもゆるし、ニムロデが神に逆らいながらも王であることをゆるしておられる。この世界の政治が神に逆らいながらも滅びの文化を築き上げて続けていることも、私たちが神に逆らいながら自分勝手な生活を築き上げていくことさえも、神はゆるしておられる。ゆるしておられるというと誤解されるかもしれませんので、言い換えるならば神は忍耐しておられるのです。

 けれども、だからそれで良いということではないのです。そのような神の忍耐は、神が人間に絶望しておられてあきらめておられるからではなく、その反対に、この世界の人々に、いや私たちがこの神の願いに気がついて、自ら悔い改めることができることを信じてくださっているからなのです。神が私たちを信じてくださっていることのあらわれが、神の忍耐の中に示されているのです。

 

 今日、この礼拝のために掲示板に記した御言葉は使徒の働きの17章30節です。

 「神はそのような無知の時代を見過ごしにしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」

 

そして、この言葉につづいてこう記されています。

 「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確信をすべての人にお与えてなったのです。」

 

この言葉はパウロがアレオパゴスでした説教の結びの言葉です。ここで、このパウロの説教についてまた長い説明をしようとは思いません。ここでパウロが語っていることは、神の忍耐はただ人々が悔い改めるためであるということに尽きます。そして、もう一度神がこの世界を裁かれる時が来ることが、キリストが人々の代わりに裁かれたことによって明らかとなったではないかと人々に語っているのです。

 神が、ノアよりも正しい義なるお方であった主イエスを、十字架でお裁きになるのだとしたら、どうして私たちが裁かれないことがあるかということを、パウロは問おうとしているのです。そして同時に、イエス・キリストの十字架の死と復活は、神がこの裁きを主イエス・キリストに対してなさったので、私たちがこのお方を信じる時に、私たちはこの神の救いにあずかることができることを語っているのです。

 

 私たちの神は、どこまでも忍耐深いお方です。そして、同時に愛に満ちておられるお方です。そして、この世界を支配しておられるのも神です。だとしたら、私たちはこのお方によってしか救いを得ることはできませんし、この方によってしか慰めも平安も得ることはできないのです。なぜなら、この神は歴史を支配されるお方ですから、私たちの将来の確かさもまた、この神にかかっているからです。

 

 私事でもうしわけないのですけれども、私の父は、彌(わたる)という名前です。この漢字は古い漢字ですけれども、わたると読むのは、「端から端まで」という意味から来ているのだそうです。それで、私の祖先はこの漢字を大切にしまして、先祖代々この漢字を名前に充てていたのだそうです。ところが、父は信仰を持った時に、この名前を使うのを止めるという決断をしました。聖書から名前をつけようと考えたのです。というのは、歴史の端から端まで、あるいは、世界の端から端までを支配しておられるのは神だということを知ったからです。ここに父の信仰があったのです。こうしてここから新しい歴史がはじまったのです。そういう信仰の表し方もあるのかと、私は子どもの頃それを父から聞いて知りました。

 このように、私たちは神に信頼するという姿勢はありとあらゆるところで表すことができます。一日の初めと終わりに神に祈りをささげると言うこともそうでしょう。あるいは、このように日曜に礼拝に集うことを通して神に信頼していることを表す。私たちはあらゆる仕方で、私たちを救ってくださった神に、自分の信仰の応答をしていくことができるのです。

 

お祈りをいたします。

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