2016 年 6 月 26 日

・説教 エペソ人への手紙4章1-16節(1)「招きにふさわしく生きる」

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2016.06.26

鴨下 直樹

 
 エペソ人への手紙の4章に入りました。お気づきの方もあるかもしれません。パウロはここに来て、急に「なになにしなさい」という戒めの形で、命じ始めています。パウロの手紙はいつもそうですけれども、前半は、どのように考えたらいいのか、信仰の基本的な考え方について丁寧に語ります。そして、後半は、具体的な勧めをいたします。このエペソ人への手紙も例外ではありません。パウロは、エペソなどのアジアの教会の人々にこの手紙が回覧されることを知っていました。そこで起こっていたさまざまな問題、特に、異邦人のキリスト者たちと、ユダヤ人のキリスト者たちとの間に起こる争いに、いつも心を砕いていました。そして、主イエスの信仰に生きようとする人々は、この問題を乗り越えて、この主の福音に自分たちが生きることができ、さらに多くの人々に主の福音を伝えていくことができることをパウロは信じていました。そのためには、まず、何よりもキリストの心を知ること、教会とはどういうところであるのかを語る必要がありました。それで、パウロは丁寧に、キリストがなにをして下さったか、そして、教会はどのように生きるのかを語り続けてきたのです。

 そこで、パウロはここからさらに具体的に教会に生きるキリスト者たちに語りかけようとしています。1節です。

さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。

 パウロは、この時牢獄に捕えられていました。ですから、この手紙は獄中書簡などと呼ばれているわけです。自分は捕らわれている、牢に閉じ込められている。そういう囚人がするべきことは何かというと、「刑に服する」ということです。このとき、パウロは教会の人々にお勧めしたいことがあったのです。それは―今、パウロは、囚人として刑に服している。何故かというと、キリストに捕えられた者であるから。自分を捕えた主のために牢に閉じ込められることもパウロは喜んで耐えることができる。ですから、あなたがたも、このキリストに捕えられた者としての生き方をしなさい―そう勧めているのです。この「勧めます」と言う言葉は、「傍らに立ってはげます」という意味の言葉です。どこか高みから、あるいは、知らないところから声高に命じているのではありません。自分は今、実際に捕えられている。だから、分かる。捕えられる時に、求められているのは、これは不当だ、自分はそんなつもりではなかったと、必死に抵抗するということよりも、むしろ、そこに身をゆだねて生きるということしかできない。そのように、あなたがたも、キリストに捕えられたのだから、キリストの願っているように生きてほしいと勧めるのです。

 そこで、パウロが何を勧めているのかというと、2節「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い」と言葉が続くのです。ここまでパウロの言葉が続きますと、パウロはここで色々な言葉を使いながら一つのことを言っているのだということに気づかされます。謙遜も、柔和も寛容も愛をもって忍ぶも、どれもこれも、自己主張をしないという言葉と結びついているのです。続いて「平和のきずなで結ばれて、御霊の一致を熱心に保ちなさい」という言葉で文章が結ばれています。

 このエペソ人への手紙は、教会のことを教える手紙として、広く読まれ続けて来ました。特に、今日の箇所では「一つ」という言葉が何度も何度も繰り返して語られています。「一つとなる」、「一致する」ということをパウロはここでとても丁寧に語っています。けれども、その何よりも先に、パウロは「御霊の一致」と言っています。教会が一つとなるのは、誰かが自己主張をするということの先にはないことを、ここでまず4つの言葉を使うことによって語り聞かせているのです。

 ここに、私は深いパウロの慰めの言葉があると感じています。教会というところは、このエペソの教会でもそうであったように、実に多くの人の心が傷つけられてしまう場所です。というのは、多くの人がそうであるように、教会で人々は善意の振る舞いによって教会の歩みが行われようとしています。そして、相手の気持ちが悪意によってではないということが分かるのですが、そのことで誰かが傷つくということが起こってしまいます。こういう話は何か、特別な例を挙げる必要はそれほどありません。誰もが経験することがあるのです。そこで、パウロは勧めるのです。「愛をもって互いに忍び合いなさい」。誰もが忍耐することを求められているというのです。

 エペソの教会のことを例に出すことはゆるされるかもしれません。エペソの教会にいたローマの市民権をもっている人々は、教会で大きな顔をして振舞い、自分たちのことを異邦人とさげすむユダヤ人キリスト者たちのことを耐え忍ぶ必要がありました。そのユダヤ人キリスト者たちだって、そうです。彼らは旧来のユダヤ人たちからは異端視されるわけです。そういう迫害の中で、厳しい信仰の歩みを求められる。そういう戦いに身を置いている人からすれば、異邦人キリスト者たちには聖書を厳格に守って生きようとする姿勢が見られないと感じ、何とか教えてあげなくてはと思う気持ちが生まれるのは当然のことだったと思われます。
「もっとこうした方がよい」「何か、教会に来ると、自分がのけものにされている気がする」「あの人が可哀想だ」教会にはいろんな声が起こります。パウロはそういう心の叫びを聞きながら、教会の人びとに向けて語ります。「愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」と。

 見るべきところは、悲しんでいる人に目を向けることではありません。声の強い人にでもありません。そうではなく、私たちを教会へとお招きになった主イエスを見上げるのみです。そして、わたしたちを一つにしているのは、誰かの信念でもなければ、強い人にあわせるのでもなく、弱い人にあわせるのでもなく、私たちのうちに働かれる聖霊によって築き上げられる一致なのだとパウロは言うのです。

からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

とパウロは4節から6節で続いて語っています。

 私たちが見つめなければならないものは何か。そこにパウロは目を向けさせようとします。私たちは、どうもすぐに自分との「違い」を発見して、それを正したいと考える性質があるような気がします。違うことは、悪いことであるかのようにどうも思い込まされてしまっています。多くの人が大好きな言葉は「普通は」とか、「一般的に」、あるいは、「みんなは」という言葉で、そういうものによって何とか一つにくくろうとします。それが、人を一つにするための方法であるかのように考え込まされてしまっているのです。しかし、それは、この世界の考え、もっといえば、悪魔のささやきであるとさえ言っていいと思うのです。かつて、C・S・ルイスが書いた「悪魔の手紙」の中に、そのようなくだりがありました。クリスチャンを誘惑するためにもっとも有効なのは、今、何が流行っているのか、何が現代的なのか、そういうことに目を向けさせることであって、真理とはなにか、神が何を願っておられるのか、そのことを考えさせないようにすればいいのだと書かれていました。

 神は、わたしたち、ひとりひとりを十把ひとからげでお救いになられたお方ではありません。神は、私たちひとりひとりの違いを楽しんでおられるお方です。その違いを主は喜んでいてくださるのです。けれども、私たちは、人とどこかが違うとすぐに不安になり、また、そういう不安を取り除いてあげようと一生懸命気を配ることによって、また別の人を苦しませることになってしまうのです。

 ちょうど、この原稿を書いている時にこんなことが起こりました。突然、牧師室の部屋が開いて、娘が「お父さんおやつを食べよう」とにこやかな顔をして入って来ました。ところが、私は、説教を書く時間が邪魔されることをおそれて、「今忙しいから、勝手に食べなさい」と部屋から娘を放り出したのです。娘は大声をあげて泣きながら、扉の外で泣いています。そしてトボトボと家に戻っていく姿をみながら、ああ、こういうことかと自分の許容量のなさを恥じて、娘に謝りながら、おやつを一緒に食べることにしました。娘には何の悪意もないのに、それは、こともあろうにみ言葉を語ろうとしている私には、その娘は邪魔者としか映っていなかったのです。

 これが、教会で誰かが人を傷つけてしまうメカニズムです。誰もが、自分のすべきことに夢中なだけなのですが、その自分のすべきこと、自分の気づいたこと、自分が見えていることに心が縛られてしまうがために、神に受け入れられている他の人が自分の視界に入らなくなっていることを見落とすのです。

 パウロは語ります。7節。

しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。

 みな、キリストから賜物を受けているのだと言うのです。誰もが、主から救いを受け取り、キリストからプレゼントを与えられているのです。けれども、それはみなまったく同じものということではないのです。そう言いながら、パウロは詩篇を引用します。詩篇68篇の18節です。ところが、この詩篇は少し混乱をもたらします。問題はこの最後の言葉です。このエペソ人への手紙には「賜物を分け与えられた」と書かれています。ところが、詩篇を開いてみますと「みつぎを受けられました」となっています。この詩篇の箇所のそもそもの意味は、人々から貢物を神が受け取ったというところなのですが、パウロは意味を反対にして訳しています。この「神が人々から贈り物を受け取った」という詩篇の言葉なのですが、パウロはこれを「神が人々に贈り物を分け与えられた」としたのです。

 これは、パウロが使っていた聖書がヘブル語の聖書ではなくてギリシャ語訳の七十人訳聖書なので、違いがあるのかというと、そうではなくて、ギリシャ語の聖書の方でも「賜物を受け取った」というのがもともとの文章です。パウロはここで、何を語ろうとしているかというと、モーセがシナイ山に登って、神の律法を受け取った時に、それは神から人々に与えられた賜物なのだということを、聖書の意図を少し変えながら伝えようとしているわけです。これは、パウロが勝手に聖書の読み方を変えたということではないようで、当時すでにそのような読み方がされていたようです。古代のユダヤ語訳の聖書でもパウロがここで採用したような翻訳がなされているようです。これは、勝利を得られた方が貢物を受け取るというよりも、勝利者が賜物を与えるという読み方のほうが理に適っているという理解がすでにあったからのようです。

 少し難しい説明をしましたけれども、大切なことは、パウロはここで、勝利の主は、人々に豊かに賜物を与えるお方であるということを強調しようとしているわけです。勝利者が人々に分け与える戦利品は、けちくさいもの、陳腐な価値のないものではありません。私たちは、おのおのこの主から豊かなものを頂いているのだから、人と何かが違うことで、見比べてどちらが劣っているとか、優れているとか比較して一喜一憂するのではなくて、それぞれに優れた物を頂いているのだということを言おうとしているのです。

 ですから、それに続く11節で「こうして、キリストご自身がある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです」と言葉を続けているのです。

 主は、私たちに違うものを与えてくださって、それぞれが、その与えられたものに従って、実にユニークに、色々な働きをすることができます。主はそのことを喜んでくださるのです。みんな違って、みんないいのです。そこに、誰かの、こうでなければならないという思惑は入り込む必要はないのです。それぞれが、主に対して精一杯応答することができるなら、それでいいのです。

 先週、御代田で、私たち、同盟福音の教職者研修会が行われました。特に、今回は若い人々に伝道していくにはということがテーマで、ある講師をお招きして二度にわたって講演を聞きました。今、この地域で若者の伝道をしておられるある伝道者を講師に招いたのです。そこで、今若い人たちが使っている、スマートフォンという電話を使って、どうやって、コミュニケーションを取るのか、ラインとか、フェイスブックというようなものをどのように利用するのか、そんなことを丁寧に話してくれました。そうやって、若い人たちのことを理解して、彼らの立場になって伝道をするのだということをとても熱心に語ってくれました。これもまたひとつのユニークな働きだということができると思います。

 けれども、私はこの話を聞きながら、いつになったら次のテーマに移るのかと期待していたのですが、結局そのままで話は終わってしまったのでとてもがっかりしました。そこで語られた事、ここでは若い人、相手の立場に立って、相手のことを理解すること、それは大切なことです。そのために、神様は色々な人を教会の働き手として立ててくださいました。
 パウロは、続いてこう語ります。

それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストの体を建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

 パウロの言葉は、ある一部の人たちを理解するためでは終わりません。さまざまな人たちを捕えるために、教会には色々な人たちがいます。そこでは相手の立場を理解する、受け止めるということも当然必要です。けれども、小さな子どもを理解するためには一緒に砂場で遊んでやることも大切なことですが、いつまでも、同じところで遊び続けるわけにはいかないのです。若い人を理解するためにアイフォンを駆使して、一緒にラインをしていれば伝道ができるということではないのです。そこから、神が望んでおられる生活へと導かなければならないのです。人を引き上げていかなくてはなりません。相手を理解することはスタートですが、導くところは、キリストのようになるというゴールがあります。ですから、そこまで導かなくてはならないのです。

私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

 完全に大人になるところへまで達するのだとパウロは言うのです。

 今から十数年前にドイツの教会に研修に訪れた時に、新しいスタイルの教会の取り組みが行われ始めていました。それは、教会を映画館のようにして、まさに映画を見せながら、その中からキリスト教的な部分を抜き出して、メッセージを語るというものでした。教会の一階部分はバーになっていて、仕事が終わるとみんなそこに集まって来る。そして、映画を見て、ちょっといいはなしを聞いて、いい雰囲気をつくることが伝道になるというのです。その中で献金もあるのだけれども、献金と同時に、ポップコーンの箱も回されるのだと言っていました。一つは手を伸ばして、ポップコーンを取ることで、次の箱に献金を入れるために手をのばす作業をしやすくするのだと話していました。当時、沢山の人が来ていました。その教会の若い伝道者は、現代の人びとのニーズを聞き取って、教会はそれに応えなくてはならない。これからの教会のスタイルはこうなると言っていました。それは一つの大きなブームとなって、色々な地域や国でこのようは働きが実行されました。

 それから、十年以上が過ぎ、最近ではあのやり方は間違いだったということが反省されるようになったということを、つい先日聞きました。人の要求に応える教会というのは、いつのまにか、神の要求には応えなくなっていってしまうのです。人が大事なのか、神が大事なのか。答えは明らかです。

 パウロは、語ります。私たちはキリストに召されたのだと。その召しとは何か。それは、人々が神の御心に従って生きるようになるために、私たちを用いられるということです。そして、その神は私たちの個性を、私たちの違いを用いて、さまざまな人を教会に招くのです。そして、その教会で、私たちはただ、主のみを見上げて、「キリストの満ち満ちた身丈にまで成長させていただける」というこのゴールに向かって歩んでゆくのです。

 キリストがすべてです。見上げるべきはただ主お一人です。そして、教会は、この主を見上げることによってのみ、一つとなるのです。教会には色々な人たちがきます。みな、考えが違うことも起こります。そこでは、「互いに愛をもって忍耐する。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示して、愛を持って互いに忍び合う」です。そうやって、お互いに受け入れあい、忍耐しあうところで、キリストはご自分の教会を建て上げてくださるのです。私たちは、この主に招かれました。この主イエスが喜ばれることをするようにと。だからわたしたちは、この主キリストをただひたすら求めて、キリストを見上げて歩んでいくのです。

 お祈りをいたします。

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