2016 年 7 月 10 日

・説教 ローマ人への手紙 5章1-11節「神からの平安」

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2016.07.10

鴨下 直樹

 
 今日は、あらかじめお知らせしておりました聖書の箇所を改めまして、このローマ人への手紙からしばらくの間、み言葉を聞きたいと思います。
 昨日、私たちの教会でMigiwaさんをゲストにお迎えしてコンサートを行いました。とても素敵な歌声を聞かせてくださいましたし、ご自身のことも少しお証ししてくださいました。今朝も、コンサートに来られた方でしょうか、この礼拝に何人かの方々がお集いくださったことを大変うれしく思います。昨日のコンサートでMigiwaさんが学生時代に不登校になってしまったことや、過度のストレスのために声が出なくなってしまったことをお話しくださいました。そして、そういう中で神さまと出会ったこと、また神の言葉に触れて平安を持つことができるようになったこと、そして、今、この喜びを歌うことができるようになったことをお話ししてくださいました。私たちはみな、昨日、その喜びを一緒に味わうことができました。みなさんの中にはそういう話を聞かれて、少し教会に興味を持ってくださってこの礼拝に来てくださった方があるかもしれません。そして、信仰に生きるということはどういうことなのだろうかと、もし心動かされた方があるとすれば、それはとても嬉しいことです。

 しかし、「信仰に生きる」というのはどういうことなのでしょうか。実は、今日の聖書の言葉はそのことがとてもはっきりと記されているところだと言えます。特に、冒頭でこのように書かれています。

私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

これは、この手紙を書いたパウロの言葉です。パウロは、私たちは「神との平和」を与えられたと、ここで高らかに宣言しています。これは、もう、私たちは大丈夫、神が私たちを見捨てないでいてくださるというところに立たせてくださった。これが、イエス・キリストによって私たちに与えられた神の御業なのだと宣言しているのです。

 ここでパウロは「神との平和」という言葉を使いました。「平和」というのは争いのない状態を示す言葉です。しかも、この「平和」を与えてくださるのは、神です。神が人生に私たちをドキドキさせるような介入をしてくることはなくなった。そういうことを心配しなくてもよくなったのだと言っているのです。このような「神との平和」を与えられた人は、そこから「安心」を、心の安らぎを、つまり「平安」を持つことができるようになるということでもあるのです。これはただひとつのこと、つまり「信仰」ということにかかってくるのです。この「信仰」というのは、私たちがそのように信じているその心というよりも、神の「信実」と言ってもいいようなものです。この「信実」というのは、漢字で書くと、信じるという言葉と実行するという言葉の方の「信実」です。「誠実」と言ったら分かりやすいかもしれません。今、この信仰ということばを「信実」という言葉で訳したほうがいいのではないかという提案がなされているようですけれど、神が誠実でいてくださるがゆえに、私たちはこの神を信頼して信仰に生きることができるようになるということです。神はそのようなお方なので、平安に生きることができるようになるのだとパウロはここで言っているのです。

 パウロは語ります。2節です。

またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

とあります。ここで使徒パウロは、「今私たちの立っている恵みに導き入れられた」と語っています。信仰に生きるようになる前、パウロもそうでした。それ以前の生活についてはこの6節から書かれていますが、それまでは、どこかカスミのかかった世界に生きていた。パウロはここでは「まだ弱かった時」と言っていますが、自分がどういきていいか分からなかったのです。ところが、信仰に生きるようになった。この場合は、教会に来るようになってと言い換えてもよいのですけれども、そうして、神の光の中で生きる喜びを得ることができるようになったというのです。教会に来るようになって、信仰に生きること、そうして喜びの生活に足を踏み入れることになったのです。信仰に生きるということは喜んで生きることができるようになるということです。信仰に生きるということは、まさに、信実な神の備えてくださる喜びに身を置くことができるようになるということなのです。それこそが、「いま、私たちの立っているこの恵み」と言い得るものなのです。こうして信仰によって平安をあたえられていくのです。

 この神が与えてくださる平安、1節に記されている「神との平和」と書かれているものは、今日はあるけれども、明日もあるかどうかは分からないというような不確かなものではありません。それは、私たちの都合に左右されるようなものではないからです。今日は朝から健やかな目覚めが与えられて良い一日がはじめられそうだから、今日は良い日。だけれども、明日になるとあの苦手な人と会わないといけないから、明日は喜んでいられるかどうかわからないというようなことではないのです。主イエスによって与えられた信仰は、今日は薄く、明日になったら濃くなるというものではありません。主イエス・キリストの信実、主イエス・キリストが、私たちを神との平和の関係へと入れてくださって、喜んで生きることができるようになるというこの神の救いの事実は変わることはないのです。 

 ただ、私たちが知らなければならないのは、私の側がどうであるかということではなくて、ただ、神が私たちを受け入れてくださるということです。そのことは、この後の6節から11節までに記されているのですけれども、たとえば6節で「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました」と書かれています。ここに、私たちの弱さのことが記されています。確かに、私たちは毎日毎日、その時々に気分が変わります。調子がいい時もあれば悪い時もある。そいう自分の都合で自分を正当化してみたり、あるいは人を攻撃したりしてしまうという部分があります。そういう私たちの性質としての弱さという部分があります。けれども、ここでは「不敬虔」と言い換えられています。これは、もっとはっきりというと、神の御前に罪ある者として生きているということです。ただ、私たちの性質としての弱さがあるということだけでなくて、そういう弱さにどこか開き直ってしまうような、私たちの神に対する不誠実さと言ったらいいかもしれません。そういう私たちの罪に対して神は、ずっと忍耐しておられるわけです。

 そして、信実な神は、私たち人間の不誠実さ、神に対する不敬虔さに対して忍耐に忍耐を重ねられました。そして、ついに、神はその怒りを振り下ろされたのです。この神の怒りは、驚くことに神の御子にくだされました。この神の御子、主イエス・キリストはこうして十字架で死なれ、そして、三日目によみがえられたのです。神は、私たちのような不敬虔な者、罪ある者をこうして、イエス・キリストを通して見出してくださったのです。それは、ただ、神ご自身がしてくださったことです。そして、この神の御業は、もう成し遂げられたのです。この神の御業を通して、私たちは神と仲直りをして、神から平和を頂くことができるようになったのです。このことが、先ほどから言っている神の信実を私たちが信仰を持って受け止める時に、神は私たちに平和を与えてくださるのです。それは、私たちが自分たちの力で勝ち得た平和ではありません。すべて神ご自身がしてくださったことです。そして、このことが大事なのです。というのは、こうして信実によって与えられた神との平和、神からの平安だからです。ですから、これは、私たちの側の都合で、あるときは平安でいられるけれども、またある時は不安にさいなまれてしまうというようなことにはならないということなのです。

 そのことを示すために、パウロはこの言葉に続いて3節で「そればかりでなく」と言うのです。「そればかりでなく」というのは、まだ言い尽くせないものがあるということです。私たちは主イエスの信仰によって平安を得ている。いつも喜んでいられる。けれども、私たちの信仰はそれだけでは言い尽くせない。まだある。それは何か。それが、「患難さえも喜んでいる」という言葉に繋がっていくのです。

 私たちの毎日の生活というのは、自分がいい状態でいられるときには喜ぶことはできます。けれども、一度事態が急転すると喜びが失われてしまう。それが、私たちが生きている日常です。だからこそ、恐れているともいえます。そうならないために、今から備えておくのだ。そう考えて老後にたくさんのお金を残しておこうとか、少しでも健康でいられるために体にいいものを食べよう。そのようにして、さまざまなことをして備えているわけです。それが、この世にあって生きるということです。しかし、信仰に生きるということは、そこから自由になって、神から平安が与えられ、喜びを得ている。そして「それだけではなく」と言って「患難さえも喜ぶ」と言えるということなのだと、パウロは言うのです。

 この「患難」という言葉は「圧迫」という字からでた言葉です。「ストレス」と言い換えてみると分かりやすいかもしれません。付加がかかる、重たくなる、肉体的にも精神的にも圧迫されて、ストレスに押しつぶされそうになって、ひょっとすると、昨日歌ってくださったMigiwaさんのように、声まで出なくなるという事態に陥る。普通であれば、もうここでダメだと自分を見失ってしまうかもしれません。

 普通であれば、「患難は焦燥を生み出し、焦燥は強情を生み出し、強情は絶望を生み出す。そして、絶望はすべてを全くダメにしてしまうのです。」そういう事だってあり得るとかつて宗教改革者ルターは言いました。それこそが、私たちが生きている生活の姿なのではないでしょうか。しかし、パウロは断言するのです。「患難は、希望を生み出すのだ」と。

 これが、信仰に生きるということなのです。神が私たちに与えてくださる平和、平安というのは、一時的にうまくいっているように見せるということではないのです。そうではなく、たとえ、声が出なくなったとしても、たとえ、自分の思い描いたような結果にいたらなかったとても、いや、自分が望むようなものではまったくないような、それこそ、ストレスばかり感じているような、圧迫された生活の中に身をおかなければならなかったとして、私は大丈夫だと確信をもって宣言できることなのです。

 また、いつもの話をして申し訳ないのですけれども、うちには今、4歳の娘がいます。先日、何かの会話の拍子に私が娘に「そんな危ないことをしていると、何かがあってあなたがケガをしてしまうかもしれない。ひょっとすると死んでしまうかもしれないから」と娘を注意しました。すると、娘が私にこう言い返しました。「お父さん、わたしは死んでも大丈夫。だってそうしたら神様のところに行けるんだから」と答えたのです。妻が語ったのか、私の言葉をどこかで聞いていたのでしょうか。自分が口にした言葉の意味がどのくらい理解しているかは分かりませんが、私はそういう娘を驚きの目で見つめながら、「本当にそうだ!」と言ってぎゅっと抱きしめました。そうです。これこそが私たちの信仰なのです。

 キリストの十字架の御業は、私たちが良い人間であったから成し遂げられたのではありません。神にとって都合がよい時には私たちに喜びを与えるけれども、最近あまり態度がよくないからといって、患難を与えられるのではないのです。

 パウロはここで「患難さえも喜んでいる」と3節で言っています。新改訳聖書をお持ちの方は、その「喜ぶ」という言葉の横に小さな米印がついていることに気づかれるかもしれません。その欄外の注のところにこう書かれています。「喜ぼうではないか」というのが別の翻訳として可能だと書いています。わざわざ注をつけたというのは、翻訳者がこちらの翻訳も捨てがたいと思ったからです。喜びの中に生きてほしいという励まし。そういうニュアンスがここにはあるのです。実は、この言葉は他にもいろんな翻訳が可能です。その一つに新共同訳聖書がそうしているのですが「誇りとしています」と訳しました。この喜びという言葉は「誇り」とも翻訳することのできる言葉なのです。しかし、患難が身に降りかかってきたときに、それを人に自慢したくなるような誇りを持つ、というようなことはあるのでしょうか。

 私たちは自分の現実の生活で患難が身に降りかかった時に、それを喜ぶことがあるでしょうか。さきほどのルターの言葉ではありませんが「患難は焦りを生み出し、その焦りが人を強情にし、そしてついには絶望にいたる」というのが、私たちが毎日あじわうところだと思うのです。それは、キリスト者であってもそういうことが多いのだと思います。私たちは大抵の場合、患難を憎んでいます。患難に合わないほうがいいと思っています。神は、私によい物だけを与えるべきで、そのために信仰を持ったのだと考えることが多いのかもしれないのです。けれども、パウロが患難を喜ぶと言った時、それは私にとっては誇りとも言い得るものなのだと、どちらかというと、この患難を自慢しているのです。

 なぜか。患難がはたして何をもたらすというのでしょうか。パウロは三つの言葉をここで続けています。

患難が、忍耐を生み出し、忍耐は練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

とあります。ここで一つ一つの言葉を丁寧に解き明かすことはできませんけれども、この三つの言葉は、患難は私たちの人生を豊かなものにしてくれる宝物なのだということを語っています。ここにこそ、信仰によって与えられた平安とは何かが分かるのです。「忍耐」というのは、もともとの言葉では「下に立つ」という意味の言葉です。そのもとに留まって、重荷を投げないでそれを負うということです。そして、そこにこそ、宝が見出されるのです。私たちは重荷を感じるとすぐにもそれを下ろすことばかりにやっきになります。けれども、私たちは主イエスのお姿を見上げるとき、主イエスが十字架という重荷を身に負われた姿に気づきます。もし、主イエスが十字架を拒絶されたなら、私たちには何も起こらなかったのです。自分に与えられた患難を負う時に、私たちは強められるのです。

 それで、次にくる言葉が「練られた品性を生む」と書かれています。他の聖書の翻訳、たとえば新共同訳聖書では「練達」と訳されています。この言葉は少し変わった言葉で「テストに合格する」という意味の言葉です。これはたとえば金の細工物を造るときに、どれだけ純粋に金が入っているか、その純粋さを調べるためのテストをします。高い熱をかけて不純物を取り除いて、ますます精錬していくわけです。そうやって、テストをします。それで、新改訳聖書はその意味を汲んで「練られた品性」という少し意訳をしたのですが、意味はよく分かると思います。そうやって、テストに合格する。重荷を負って傷つく、涙を流すということを繰り返しながら、そこで、ただ一人で耐えているのではなくて、私のなかにある不純なものは取り除かれていって、自分はただ神によって支えられているのだということを味わっていく。そういうテストをされながら、神が私をそのように練ってくださって、神にいつも目を向けることができるのだということを知っていけるのです。

 それまでは重たいものを背負うとすぐに足腰が弱くなってしまって、すぐにでも杖を必要としたのに、気が付いてみると足腰が強められて、もう杖を外しても歩くことができる。そういう強さと、自由を得ていることに気が付くのです。神が私を鍛えてくださって立ちあがることができるようにしてくださる。そしてそればかりか、まさにそこでも神の平安が与えられていることに目を向けることができるようになって、何が起こっても、この神は私を見捨てられることはないのだという希望を見出すことができるようになるのです。
確かに、私たち自身は、弱い者でしかないのかもしれません。けれども、神は神であられるのです。その真の神が私を力づけ、立ち上がらせ、体力をつけてくださって、また新しい期待を持って生きることができるようにしてくださるのです。

 パウロはそのことを、ここで急に、別の言葉で表現します。5節

なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 ここに神の愛があるのだというのです。実は、このローマ人への手紙の中で「愛」という名詞が使われるのは、ここが最初です。この手紙のはじめ、1章7節でこの手紙の受取人に向かって、「ローマにいるすべての神に愛されている人々」という言葉で、愛が出てきてから、実にここが最初に愛という言葉が使われているのです。それほど、パウロはここで「愛」という言葉を使うために温めてきたとさえ言えると思います。「なぜなら、・・・神の愛が私たちの心に注がれているからです。」神は、私たちに、神の愛を注いでくださるのです。私たちが患難に会う時にも、平和を感じることができなくても、心の平安を奪われたと思えるような事態を迎えているように感じたとしても、神の愛は確かに注がれているのです。愛の神は私たちを遠くで見つめながら、転んでしまっているのをじっと陰で見つめておられるというのではないのです。そうではなくて、私たちに神の霊を、聖霊を与えていてくださる。それは、私たちが神と共に生きることができるように、神は私たちといてくださり、それを通して、神の愛を注いでいてくださるということなのです。

 そうです。神は、私たちに信仰を与え、希望を与え、愛を与えて、私たちを完全に支えていてくださるのです。信仰と希望と愛。これが、私たちが平安を持って生きるために神によって与えられた、私たちへの三つの贈り物なのです。それによって私たちは確かな心の平安を与えられて生きることができるのです。信仰と希望と愛、これは、神が私たちに与えてくださる三つのものであると同時に、私たちが神に向かって持つことのできる三つのものでもあるのです。神への信仰。神に対する希望。そして、神への愛。これによって私たちは神との平和の関係を築き上げ、平安に生きることができるようになるのです。この神が、私たちを見捨てたままでおられることがあるでしょうか。私たちが打ちのめされたままにしておかれることがあるでしょうか。私たちの神は、ご自分の御子を与えられるほどに、私たちを愛してくださったのです。私たちは、この神に平安を与えられて患難の中にも平安を持って生きることができるのです。

お祈りをいたします。

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