2016 年 7 月 24 日

・説教 エペソ人への手紙5章1-21節「神にならう者として」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 16:08

 

2016.07.24

鴨下 直樹

 
 今日は、5章1節から21節までを説教の箇所としました。少し前に説教の予定を変えたためです。この教会ではひと月前から説教箇所や讃美歌をすでに選んで配付しております。讃美歌なども、その説教箇所にあわせているために、説教の予定を変えてしまいますと単純に一週分ずらせばいいというわけにはいきません。本当は、今日は1節から5節で、次が6から21節という具合になるのですが、実は、その分け方もあとで考えるとすっきりはしていません。ご存知の通り、手紙というのは、当時はそのまま初めから最後までまとめて教会で朗読されました。今のように部分部分を細切れにしていたわけではないのです。ですから、5節までを分けて、6節から21節にするか、もう少し細かく分ける場合は、6-14節と15節から21節を分けるということもできると思います。ただ、ここでは同じテーマが何度も繰り返されて語られていますので、今日は1節から21節まででみ言葉を語りたいと思います。

 少し、前置きが長くなってしまいましたが、この1節から21節までの間には似たような言葉が何度も何度も繰り返されています。1節では

ですから、愛されている子どもらしく、神にならうものとなりなさい。

とあります。この1節の言葉はとても重要なテーマで、ここからは「神にならうものとなる」というのはどういう歩みをすることなのかということが、繰り返されているわけです。それで、3節では「聖徒にふさわしく」とか、8節では「光の子どもらしく歩みなさい」とありますし、15節でも「賢い人のように歩んでいるかどうか」という言葉が続いています。少しずつニュアンスがちがっていますけれども、言おうとしていることはみなこの1節の「神にならう者となりなさい」ということに結びついてくるわけです。

 3節と4節では「聖徒にふさわしい」生き方とは何かを語っていますが、そこでは「不品行」というような言葉に表されている性にまつわる罪と「むさぼり」として語られている金銭にまつわる罪のことが注意されています。これは、現代にはじまったことではないということですけれども、人は罪を犯す時に、性における罪と金銭をむさぼることの罪にあらわれてくる。そして、そのような生き方をするのは聖徒にふさわしい生き方ではないとパウロはここで注意しています。それこそが、偶像礼拝なのだとパウロは言うのです。ここにパウロのすぐれた宗教理解が表されています。

 先日も、レビ記を学んでいた時に、レビ記の結びとして26章の1節と2節で律法の要約として偶像崇拝の禁止と安息日を覚えることがあげられていました。これは、神の民の戒めの中でも特徴を示す戒めです。特に、その最初に「偶像を造ってはならない」とあるのですが、このモーセの時代も今の時代もそうですけれども、偶像崇拝を禁止する宗教というのはあまりないわけです。というのは、人間の欲望が神を造り出すからです。商売を繁盛させたい、健康でいたい、旅の安全が守られるように、そういう人間の願望があって、それを守る神様というものを見える形で人間がこしらえます。これが偶像です。

 そもそも宗教というのは、人間が自分たちの生活のために造り出すわけですから、偶像を否定すると、宗教生活が成り立ちません。そういう自分の願いが叶うという、言ってみれば自己実現というのが偶像の本来の役割なわけです。性の罪も金銭の罪も、そのような自分本位な欲求を満たすことですから、神にならう生き方ではない。聖徒として、キリスト者としての生き方とは異なっているのだとパウロは言っているのです。

 そして、4節のまとめの部分では、「むしろ、感謝しなさい」という言葉で結ばれています。しかし、もともとのギリシャ語では「感謝しなさい」という動詞は書かれていなくて、
「感謝を」というような書き方です。前回の部分で、口からでる言葉のことをパウロは言っていました。ここでも、そのことが結びとして語られているわけです。聖徒にふさわしい生き方、神の子にならう生き方というのは、感謝を口にする生活だと言うわけです。

 そうして、6節以降でまた言葉の問題が繰り返されます。「むなしいことばに、だまされてはいけません」。この言葉が何をさすのか、実ははっきりしません。誰にだまされないように注意を呼びかけているのか。聖書の解説をみても、実にさまざまなことが書かれています。しかし、ここで注意されていることは明らかで、ある牧師は「今様の言葉で言えば、性の解放や財テクのPRにまどわされるなということだ」と書いています。
 8節にこうあります。

あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

 私たちにとって、「あなたがたは以前は暗やみでした」という言葉がどれほど現実味のある言葉として響くのか、それは人によってずいぶん異なると思います。けれども、明らかなことは、キリストの光に照らされた者は、それ以前の生き方は闇であったということが分かるはずです。闇というのは、答えがないことです。何か思いがけないことが起こる。そうして思い悩むと、出口がないことに気が付く。そういう中での小さな慰めは、このような経験は自分一人が負っているのではないという事が支えや励ましにはなるのかもしれません。しかし、理解してくれる人、同じようなことを味わった人が身近にいて共感してもらえたとしても、そこから抜け出す道を見出すことができないことに変わりはありません。色々な人が教会にくる最初の理由はさまざまです。

 今週から夏休みに入りました。そうしますと、この芥見教会では8月末までの期間、水曜日と木曜日の聖書の学びと祈り会は、この期間だけいつも信徒交流会ということで、信徒のかたがたが毎回証しやみことばの解き明かしをしてくれます。ここで話をしてくださる方はご自分がどのように信仰に導かれたかをお話しくださることがあります。もう長い間教会に来られている方はお互いのことを知っておられると思いますが、少し前からこの教会にこられるようになった方などは、新鮮にお互いの話を聞きます。また、来週は礼拝のあとで、洗礼を受けられた方と、教保との食事会をすることになっています。そこでも、証を聞く機会があると思います。私たちはそれぞれ、クリスチャンになる以前のことを思い返すと、はっきりと何が変わったのかということを、喜びをもって証することができるのだと思います。

 ここに、「主にあって光となりました」と書かれています。このことは、私たちにとって実感なのではないかと思うのです。私たちは、主イエスを信じる前と、信じた後で、それほど人間性が変わったわけではないと思うのです。けれども、主は光です。この主の光に照らされることによって、光に照らされて生きるということがどういうことなのかを知るようになります。自分が光に包まれているということを知って生きることができる時に、私たちはこの暗い闇の世界の中にあって、光をもたらす者として、光の子として歩むことができるのです。

 先月、T家に赤ちゃんが生まれました。名前をひかる君と名付けられました。Tご夫妻にどうしてその名前にしたのかと聞いてみますと、長男のY君がお腹の子どもにいつも「ひかる君、ひかる君」と呼びかけていたのだそうです。私の記憶に間違いがなければ、たしか、まだ病院で男と分かる前からそう呼んでいたと聞きました。間違っていたら申し訳ないのですが。でも、そうやって、毎日、ひかる君、ひかる君と声をかけているうちに、この子の名前はひかるにしようと思う。だんだん、愛着が出てくる。いい名前だと思うようになっていく。そうやって、名前がその赤ちゃんの存在そのものを示すようになっていきます。

 それと同じように、私たちもキリストの光に包まれながら、毎日、毎日、この光の中で生きているのです。そうしているうちに、わたしたちは光に照らされて生きることが分かってきて、そうやって光の存在に変えられていくのです。14節にこうあります。

「眠っている人よ、目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照らされる。」

この14節の言葉はカッコ書きされています。どこからかの引用の言葉なのです。新改訳聖書は引用をする場合、下の欄外のところに、どこからの引用個所であるか書いているのですが、ここは何も書かれていません。というのは、この言葉は、当時、教会で良く知られていた讃美歌の一節なのです。しかも、どうも洗礼式の時に歌った歌の一節のようです。
「眠っている人よ、目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照らされる」
 これまで光を知らないで生きてきたところから、主イエスと出会って、洗礼を受けます。その時に、こう歌ったのです。今まであなたは眠っていた。いや、死んでいた。けれども、今、この時から死者の中から起き上がるようにして生きる者とされる。そう、キリストの光に照らされるからだと歌ったのです。それこそが、光の子として生きているということなのだというのです。

 15節からはさらに「賢い人のように歩みなさい」ということが言われています。
実は、同じような言葉でこれは繰り返されているのですが、1節では「愛されている子どもらしく」とありました。この「らしく」という言葉はこのあと何回も繰り返されます。3節の「聖徒にふさわしく」もそうです、8節の「光の子らしく」もそうです。ここでは「賢い人らしく」と書かれています。ここでは「賢い人のように」となっていますが、どれも同じ言葉です。この「らしく」という言葉は、「もうそうなっているのだから」ということがその言葉の背景にあります。もう、神に愛されているのだから、もう、神の聖徒とされている。もう光の子とされている。そして、ここでは、あなたは賢い人にすでにされているのだからということになるわけです。

 これにつづく17節で「愚かにならないで」とあります。この愚かという言葉は、他の翻訳では「思慮のない」とか「分別のない」という言葉で訳されています。思慮分別がないというのは、どう考えていいか分からないということです。ところが、キリスト者になると、急に頭が良くなるということではなくて、その思慮、分別というのを働かせるようになるということなのです。つまり、自分のためにというのではなくて、他者のために心を配るようになるということです。そして、その時何をもって考えるのかというと、「主のみこころは何であるか」ということがすべての判断の基準になるわけです。

 もう今から20年ほどまえからキリスト者の「霊性」という言葉が教会で使われるようになりました。英語でいうと「スピリチャリティー」という言葉です。クリスチャンとして生きるということは、何かをすること、能動的に動くこと、特に教会では伝道することというようなことの強調点がつい置かれてしまうのですが、この「霊性」ということにもっと関心をおかないといけないのではないかということが言われるようになりました。とても簡単な言い方をすると、クリスチャンの霊的な生活といったらいいかもしれません。神とどのような交わりを持っているのか、そのことが忘れられて、何をしなければいけないかということばかりが語られるようになると、教会は衰退していってしまうということが言われるようになったのです。

 これも、今から20年前のことですけれども、この私たちの教団の役員研修会が行われた時に、明田勝利先生が、このキリスト者の霊性という講演をされました。明田先生はつい一昨年まで毎年、夏に私が夏季休暇で留守にしている時に、この教会の礼拝説教をしてくださっていましたから、ご存知の方も多いと思います。この明田先生がそこでこういう話をされました。「最近、キリスト者の霊性ということが何か新しいことでもあるかのように語られているけれども、トマス・ア・ケンピスの書いた『キリストにならいて』という本の中にすべて書かれていることだ。つまり、キリストにならって生きるということこそが、クリスチャンのなくてならない大切なものなのだ」と語られました。この本をまだお読みになったかことのない方はぜひ、一度は読んでみていただきたい本のひとつです。

 「キリストにならいて」ラテン語で「イミタティオ・クリスティ」と言います。この本のタイトルはまさに、このエペソの5章1節の「神にならうものとなりなさい」という言葉から発生した言葉であることに違いありません。そして、この本の内容も、このエペソ人への手紙5章がベースになっていると言っても言い過ぎではないと私は思います。

 「神にならう」「キリストの光に照らされる」そして、ここで書かれているように「聖霊に満たされる」それこそが、私たちの霊的な生活の土台です。これこそが、パウロがここで勧めている神にならう者としての生活です。こうして三位一体の神との交わりに生きることは、私たちの生活の土台です。それは、その後で書かれている。「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい」というみ言葉も、その生活の姿が見えるように描き出されています。

 かつては闇の中を生き、この世の知恵を追い求め、性的な快楽や金銭を愛することがこの世の生活の幸いだと思い込んでいた私たちは、この主にあってまったく異なった霊的な生活を営むことができるように導かれたのです。
「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照らされる」という古い賛美歌が示すように、私たちの生活のすべてがキリストに照らされて生きることの幸いを知るようになるのです。それは、もう、すでに私たちに与えられているのです。もう、すでに、私たちはキリストを見上げながら、キリストのようにされていく歩みを歩み始めているのです。そのような生活は、ただ、ただ、神に感謝をささげることのできる生活となるのです。

お祈りをいたします。

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