2016 年 8 月 7 日

・説教 エペソ人への手紙 6章1-9節「家庭の倫理、職場の倫理」

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2016.08.07

鴨下 直樹

 
 私たちの教会では毎日「聖書のまばたき」というみ言葉の配信サービスを行っています。配信サービスなどというと、少し大げさかもしれませんけれども、教育部の執事のKさんが毎日、み言葉や、さまざまな信仰の言葉を一つ選んでメールで送って下さっています。今、60名ほどの方が受け取っておられるのだそうです。毎日、実にユニークな取り組みですけれども、暗証聖句になるようなみ言葉が贈られてくるときもあれば、讃美歌の一節や、キリスト者の残した言葉が送られてくるときもあります。

 その中で先週一つの変わった聖書の言葉が送られてきました。「彼女は言った。いけません兄上。乱暴してはいけません。イスラエルでは、こんなことはしません。こんな愚かなことはしないでください。」という第二サムエル記13章の言葉です。さすがに驚かれた方も多いと思います。「何だこれは?」と思って聖書を開けられた方が少なからずあると思います。私も実は少し驚いたのですが、Kさんの意図としてはそうやって驚いて聖書を読んでもらいたいという意図があるんだそうです。この箇所はダビデの子どもたちの出来事ですが、ダビデには何人かの妻がおりまして、アブシャロムという後でダビデに反旗を翻す息子がおります。その妹のタマルに異母兄のアムロンが乱暴を働いてしまう出来事の箇所です。

 ある方が、私のところにまいりまして、あれはどういう聖書の箇所なのかと尋ねられましたので、私が今のようなことを簡単に説明いたしました。すると、聖書にはなんで、そういう人間のどろどろとした出来事が書いてあるのかと質問を受けました。みなさんもご存知の通り、このダビデを取り上げてみてもそうですし、先ほど「聖書のお話し」で語られたサムソンとデリラの出来事もそうかもしれません。聖書は人間の醜い姿をありのまま記しています。特にダビデの子育てといったらいいでしょうか、親子関係というのは、あまり手本になるようなものではありません。聖書人物から学ぶ親子関係というような本はあまり見かけないわけですが、それほど、理想的な親子像というものを聖書は記していません。むしろ、多くが失敗ばかりしていると言っていいと思います。その質問をしてくださった方にもその時にお話したのですけれども、聖書は人のあるがままの姿を正直に描きながら、それでも主はそのような罪深いものを憐れんでくださって神の民としてくださるということが書かれていると言えます。

 さて、先ほども言いましたが、聖書を読んでみますとさまざまな親子の姿が出てまいります。ダビデもヤコブも子育てという点でだけ見ますとそれほど上手だったとは言えません。あるいは私自身も牧師家庭で育ちましたし、沢山の牧師家族を見て来ましたけれども、みな、どの家庭でもそうですけれども、子どもを育てるということに苦労している姿を見続けて来ました。簡単に、こうするとうまくいくというようなマニュアルのようなものを作ることは出来ないと思っています。

 けれども、子育てにおいてうまくいったのでその良いモデルを見習えば自分もうまくいくということは言えません。誰もが思い悩みながら、子どもと向き合う、あるいは親と向き合うということをしていく以外にないのです。そして、そういうことをふまえつつ、私たちが聞きとるべきことはやはり、聖書の言葉なのです。聖書はそのことを何と言っているのか。私たちが聞くべきは、それ以外にはないのです。

 そこで、パウロがここで何と言っているかといいますと1節にこうあります。

子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。

 この言葉は、わたし自身、思春期の頃に何度父にこう言われたか分からないくらいです。親の意に背いて自分勝手なことをしようとすると、父がよく、「エペソ6章1節にこう書いてある。子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。」といって言うことを聞かせようとしました。すると、私はいつも決まって、「お父さん。その後になんて書いてあるのか知らないの?4節には父たちよ、あなたがたも、子どもを怒らせてはならないと書いてある」と言い返したものです。なんどその会話をしたか分からないくらいです。

 今、改めて、この聖書の言葉を読みながら、わたし自身色々と考えさせられます。子どもは親の意思に従うべきであるということを、この聖書の言葉は果たして言っているのだろうかとまず考えるわけです。そうすると、先週の説教でも言ったのですが、この箇所は主イエスを信じているということが前提になっているわけです。主に従うということが、まずすべてに先立っています。ですから、ここでも一般的な子育てについての聖書の教えが書いてあるということではなくて、キリスト者に向かって語られた言葉だということをまず理解しておく必要があります。先週もお話ししましたけれども、

主を恐れ尊んで、互いに従いなさい。

という21節がまずおぼえられなくてはいません。互いに仕えあうことがすべての土台になっています。それは夫婦関係だけでなくて、親子の関係についても言えることです。

 毎日のように、ここ数年間と言っていいと思いますけれども、親子の関係のもつれから生じる事件が伝えられています。育児や子育てを放棄してしまう親があとを絶ちません。自分のことが精いっぱいで、子どもに向き合うことができないような幼い大人が増えています。自分が支えられているから大丈夫ということを知らないのです。自分が受け入れられているということを知らないために、いつも不安で、自分の子どもと向き合うことができないで逃げ出したくなってしまうということが起こってしまうのです。自分の存在が受け止められているということを知らないということは、本当に残念なことです。

 しかし、聖書は主ご自身が、私たちを生かすために、私たちを支えて下さっています。このことが、私たちの、いや、本当はすべての人の生きる土台になるのです。だから、この主を畏れ尊ぶことを私たちは知るのです。はじめに神が、愛を示してくださったのです。

 そして、パウロはここでまず子どもたちに向かって語りかけているのです。「子どもたちよ、主にあって両親に従いなさい」と。「主にあって」です。主イエスに包まれてということです。主イエスに支えられながら、両親に従うことを学びなさいというのです。パウロはその根拠として、十戒の言葉をすぐに書き記します。2節

「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。

 十戒の第五の戒めです。この十戒の「敬う」という言葉はもともと「重くする」という意味の言葉です。両親を尊重するというわけです。しかも、その両親は神を畏れる両親ということになります。神を畏れ、神に聞き従おうとする両親のいうことに重きを置きなさいというのが、この戒めの趣旨です。そうすると「地上で長生きできる」とありますが、神に従う者は、神の守りのもとにあるから平安だということです。そして、それは実際的な祝福をもたらすものとなったのです。そして、神から永遠のいのちを与えられるので、まさに地上でも、天にあっても確かないのちを与えられて生きることができるのです。十戒は、神が戒められたから従わなければならないもの、神が怖いから従うものということではありません。神が救ってくださった。この神の御業に対する感謝としての応答が、十戒に応えて生きることを支えます。神がまず先に、愛をしめしてくださいました。イスラエルの民が奴隷であったところから救いだされて、この神の救いの御業に感謝して生きることをお求めになられました。これが神に従って生きるということなのです。

 私自身、子どもを育てる時に、いつもさまざまな迷いがあります。躾をするのはどうしたらいいのか、叱るときはどういうしかり方がいいのか。それこそ、書店に行きますと実に様々な子育ての本があって目移りしてしまいます。少し前までは叱らないで育てることがいいという本が並んでいましたが、最近は少し様変わりしてきました。ちゃんとしかるべきだというものが増えつつあります。父親が子育てに参与するイクメンという言葉が生まれたかと思えば、父親は家の権威なのでドシンとしていた方がいいのだとか、挙げればきりがないほど、子育て論も様々です。そして、こういうものは数年ごとに移り変わっていくのです。何がいいとか、悪いとか、簡単に答えをだすことはできないと思います。それぞれに良い点があるのだと思います。

 しかし、親の生活も多様であれば、子どもの性格もじつにさまざまです。同じ親に育てられた兄弟だって、性格は全く違います。何がいいとか、悪いとか、そんな情報に支配されるこの時代にあって、私たちはそういうさまざまな意見に振り回されるのではなくて、私たちの価値基準のもとはなにかということをはっきりとさせることです。そして、それは主イエス・キリスト。この主に従うことこそが、私たちが生きるささえであり土台なのだということからぶれないでいることです。神の前には、それだけがまずなにより大切なことなのです。そしてこのことが、私たちを救ってくださった神に応えて生きる唯一の道なのです。

 では4節の

父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。

とは何をさすのでしょうか。もちろん、この言葉によって、子どもが開き直って両親に盾をついてもいいということではありません。実は、ここに子どもを信仰に導く道があるのだということなのです。子どもが、どう生きていいか分からずに、自分の生きていることに怒りを覚えるということは残念なことです。自分の道が見えない、定まらない時、人は怒りを覚えます、腹を立てます。そして、それは親のせいだと考えてしまうことが多いのです。子どもが心やすらかに生きることができるように務めること。子どもが不安で生きる道が見えないでいるときに、神の言葉に従って生きることがあなたを平安にし、幸いにするのだと確信をもって語ることができる、このことが大切なのです。それが、親が子どもを支えるということ、そしてここに、親子の祝福はあるということなのです。

5節からもう一つのことが書かれています。

奴隷たちよ、あなたがたはキリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に仕えなさい。

 この5節から9節で語られていることは、当時の奴隷制度の習慣がもちろん背景にあります。先週もお話した通り、聖書はそのようなその時代の通念を受け入れているところがあります。確かに社会はそうだ。奴隷になることによって自分の生活が成り立つようにしなければならない人たちがいたのです。先ほどレビ記を読みましたけれども、ここにも記されていました。イスラエルの民はかつてエジプトで奴隷としての生活を強いられていました。だから、同邦の民を奴隷としてはならないと書かれていました。しかし、外国からの寄留者を奴隷にすることはできると書かれていました。

 不思議な気持ちがするかもしれませんが、イスラエルというのはそれほどに祝福されていたために、仕事を求めて、安らかな生活をもとめてイスラエルに来る異邦人たちがいたのです。そうすることで、異邦人の生活をも支えていたのです。奴隷というのは単純に悪いことと結論付けることができない社会があったのです。けれども、そうだからと言って、その奴隷を自分の思うままに支配するということを聖書は語らないのです。子どもを親が自分の思うままに支配するのではないのと同じように、奴隷にも尽くすべきだというのです。

 しかし、ここでも奴隷たちにパウロは語ります。キリストに従うように、主人に従うのだと。そこには、主人がキリスト者であるということが前提になっています。人を使う立場の人もいるでしょう。人に使われる立場の人もいます。今日、私たちの多くは社会で何かの仕事を持ち、どこかの会社や職場に所属して、そこで働くことを通して、生活の糧を得ている人々がほとんどです。今、勤め先の上司がクリスチャンではないということがほとんどなのだと思います。だから、この箇所は当てはまらないということにはなりません。

 妻が夫に仕え、夫が妻を愛すように、子どもが親に従い、子どもが親をただしく導く。いつも、相手が完璧な人であるということはないのです。最初に言ったように、ダビデもヤコブも、聖書の中に出て来る信仰の代表者と言われる人であっても完璧ではありませんでした。けれども、神は、神の示される秩序の中に生きることを求められました。何よりもキリストご自身がそのことを示されたのです。相手がどうであったにせよ、その人に仕える。そうすることによって愛を伝えることができることを、主ご自身がお示しになったのです。

 それはまず私たちに仕えることによって、わたしたちに、あなたに、主はしめしてくださったのです。だから、わたしたちもキリストにならって、夫に仕え、妻に仕え、子どもと共に生き、職場で共に生きるのです。相手を軽んじてはなりません。その人を、ちゃんとその人として接すること。そうするときに、その人は、自分は支えられているのだということを知るのです。自分の存在が、不確かな存在なのではないということを知るのです。認められるということを味わうのです。こうして、神が支えて下さっていることを、体験として知ることができるのです。

9節の終わりにこうあります。

主は人を差別されることがないことを知っているのですから。

 この箇所を新共同訳聖書ではこのように記しています。

あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。

 私たちは、みな同じ主が与えられ、このお方は人を分け隔てなさらないのです。この主がわたしたちを支えてくださるのですから、私たちもこの主がなさるように、私たちも人を分け隔てなく、接し、仕えるのです。こうすることによって、この世界に、いや、自分の生活のすぐ近くから、キリストの愛の豊かさが広げられていくのです。

お祈りをいたします。

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