2016 年 9 月 11 日

・説教 詩篇2篇「王なるメシア・救い主」

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2016.09.11

鴨下 直樹

 
9月5日の月曜日北朝鮮が日本海に向けて中距離弾道ミサイルを発射しました。日本と中国の首相が会談をしている時間にあわせてのことでした。このミサイルは1000キロちゃんと計算して飛ばしているのだそうで、あと2,300キロメートル距離を延ばすことはもはや何の問題もないことだとニュースで報道されていました。そして、9日(金)、今度は北朝鮮がまた核実験を行いました。
 そういう中で、私たちはこの詩篇のみ言葉を聞いています。「なぜ国々は騒ぎたち、国民はむなしくつぶやくのか。」

 この詩篇第2篇は「王の即位の詩篇」といわれる詩篇です。この詩篇は詩篇第一巻と言われる2篇から41篇の巻頭詩です。特に、この第一巻はダビデの詩が収められています。その中で、この詩篇第2篇は、王たちが即位をする時に歌われたとする詩篇を巻頭詩として置いています。また、新約聖書でも、あとでお話しますけれども、この詩篇はダビデのものであると書いています。それほど、ダビデと結びついていると考えられたわけです。

 この詩篇はイスラエルの王が即位する時に使われたと考えられていますが、この二節に「油注がれた者」という言葉が出てきます。これがヘブル語でメシアという言葉です。当時、王として任職を受けるためには祭司によって油注ぎを受けて、それによって王として任命されていました。このメシアというヘブル語が、ギリシャ語になるとキリストという言葉になります。つまり、ここで王として即位する油注がれた者のことを、メシアあるいはキリストと言ってきたのです。

 聖書の中で油を注がれた王の即位について書かれているのは、初代の王サウルと、ダビデです。それ以外にはダビデの息子のソロモンとヨアシュという王様の四人だけです。けれども、これらの王が即位をした時にはこの詩篇2篇が用いられたということは、はっきりと書かれているわけではありません。けれども、この詩篇は王が即位をするときに問題になる一つの出来事が背景となっています。それは、前の王が亡くなって、次の王が即位する時というのは、言ってみれば国家の危機です。そうしますと、近隣の諸国やこれまで、権力によって従属させられてきた民族などはこの時とばかりに反旗を翻すわけです。これが、この詩篇の背景にあるのです。

 何かきっかけを見つけると近隣諸国が騒ぎたち、この時とばかりに攻撃をしかけてくるというのは、今日にはじまったわけではなくて、今から何千年も昔、この詩篇の記された時代から今日にいたるまで続いていることです。新しい王が立てられるというのは、国としてはお祝いムードの嬉しい時ということになるのでしょうけれども、それは同時に、その国の危機を表していたわけです。

3節の「さあ、彼のかせを打ち砕き、彼の綱を、解き捨てよう」というのは、今言ったようなこれまで従属関係にあった諸民族や諸国が今こそ反旗を翻す時だと言っているということを表しているわけです。

 ところが二番目の段落に入りまして4節から7節では、それに対して、主なる神はどういっておられるのかということが書かれています。しかも、4節はとても興味深い書き方がされています。

天の御座についておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。

とあります。
 「天の御座におられるお方は笑う」というのです。神は笑っているのだと。神の笑い声が天で鳴り響いている。けれども、現実問題は笑っていられるような状況ではないのです。冒頭でもいいましたが、私たちは今や、いつ、核のミサイルが飛んでくるか分からない状況の中で生きているわけです。もう、北朝鮮にその技術はないとは言えなくなりました。近隣の首相たちは大慌てで会議をしています。私たちも、そういうニュースを聞くと心穏やかではいられません。ところが、神を見上げると神は笑っておられるというのです。

 もちろん、この聖書の箇所は直接的にはイスラエルと近隣諸国との問題ですから、日本とその隣国の話しというふうに単純に置き換えることはできません。けれども、私たちは、私たちのまことの王は神、主であるということを知っているのですから、主はその時に、なぜ、そうされるのか、なぜ、笑っておいでになるのかということを知っていることは、大切なことです。

主は怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山シオンに。」

と5節と6節に記されています。
 「シオン」。この芥見教会では実に愛されてきた名前のようで、ご自分の会社にこの名前をつけた方があります。猫にこの名前を付けた方もあります。お孫さんにこの名前が付いている方もあります。シオンというのはエルサレムのこと、神がお選びになった聖なる都の名前です。主は、「都にはわたしが立てた王がいるのだ!」と怒りでおののかせると言われ、その人のたくらみを笑っておられるというのです。

 そして、興味深いことに、この詩篇2篇は新約聖書でも登場します。この2篇を引用したのは、主イエスの弟子の代表でもあったペテロが、あのペンテコステの時の説教で、この詩篇2篇から説教するのです。使徒の働き4章27節以下です。ここでペテロはこの詩篇を引用しながら、

「事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行いました」

と説教したのです。 
 この詩篇に書かれているとおり、このエルサレムでヘロデとピラトという王が、主が立てた油そそがれた王、主イエス・キリストに逆らったのだと、ペテロは語ったのです。この詩篇2篇で語られてきた王の詩篇は、まさに主イエスのことだったのだというのが、教会がまさに誕生した時の、教会の宣言だったのです。

 この詩篇の3番目の部分は、神が宣言された言葉を、地上の王が自分で読み上げるという形で、宣言をした文章です。それが、7節から9節までの部分です。そして、まさに、この部分は、王が新しく神によって認められたのだという宣言と同時に、これこそが、まことの王、まことのキリストの務めであるということを宣言する言葉となっています。

わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物のように粉々にする。」

7-9節。

 さきほどの「聖書のお話し」の時間に、イスラエルの民が神に王を求めたという話を聞きました。サムエル記第一、第八章に記されています。民は、まわりの諸国のように王によって国が治められることを求めたのです。祭司サムエルの息子たちは利得を追い求めて神の道を歩んでいませんでした。神はこのイスラエルの民の願いを聞き入れますが、それは、真の神ご自身が民の王であることを退けたのだということを語ります。

 聖書は一方でこのように神こそが真の王であるということを明らかにしています。けれども、民の願いに耳を傾け、イスラエルの民は他の地域の国々と同様に王を持つことになります。そして、この詩篇の2篇には、まことの主がお立てになった王は、主を求めるように導き、その時に、主は約束の地を与えてくださるということがこの部分で言われています。

 私たちは、今、そこで問われているのです。私たちの国には指導者が立てられています。ですから、国の政治をつかさどる者のために祈り、また正しい決断ができるように祈る必要があります。けれども、同時に私たちは、この世界の造り主であられる主こそが、この全世界のまことの王でられることを知っています。このお方は、この世界が、主を求め、神の御心に従って導かれていくことを願っておられます。私たちは、この地上の世界に生かされていますが、同時に、私たちは神からの約束の国、神の国の民とされました。ですから、神の御心がこの地で行われることを祈り求め、また、同時にこの世に支配されて生きているのではないことを知る必要があります。この地に生きながら、神の御手の中で生かされているのです。そして、私たちの真の王、主はイエス・キリストですと告白しつづけていくのです。

この詩篇の第四の部分はこう告げています。

「それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきつかさたちよ、慎め。恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは今にも燃えようとしている。」 

10-12節です。
 この世界にあって慌てふためいている地の王たちに、神は語り掛けておられるのです。悟るべきは、この神、主に仕えることだと。そう言っておられる主は悲壮感漂う顔でお語りになっているのではなくて、笑いながら、語り掛けられているのです。まことの神の余裕といったところでしょうか。

 この世界で何が起ころうとも、私たちを不安にするような出来事が起ころうとも、私たちの主は、天で、この世界の王たち、指導者たちのすることを高みで見ておられます。そして、わたしは、もうあなたがたに真の王を与えた。わたしの御子、イエス・キリストこそが、あなたがたの真の王。これに従えと、主は言われるのです。

この詩篇の第2篇は最後にこう付け加えています。

幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。

 この言葉は、おそらくこの詩篇のもともとにはなかったと考えられているのですが、1篇と2篇が一つの詩篇だったのではないかと考えられたために、この言葉を付け加えて1篇と2篇の結びの句としたようです。

 そして、それは、とても意味深いものとなりました。この世には色々な王が立てられます。これまでの歴史の中でも実に多くの人々が、王のもとに生きてきました。指導者が、正しく国を治めることができなければ、民もまたそのまま影響を受けます。けれども、この詩篇は、私たちに大切なことを思い起こさせるのです。

 自分の状況を嘆くのではない。幸いは、主に身を避ける者にもたらされるのだからと、告げるのです。これこそが、主が私たちに与えてくださる幸いなのです。あの人が悪い。この人たちのために、自分の人生はめちゃくちゃにされてしまった。だから、私は不幸なのだと言いたくなることがある。けれども、そうではないということを、この言葉は私たちに思い起こさせるのです。

 幸いというのは、この世界をすべ治めておられる真の主により頼む者が、この主によって幸せに生きることができるのだと。これこそが、私たちの主、この世界の支配を打ち破って、神の世界を私たちにもたらすことのできる、まことの王なのです。

お祈りをいたしましょう。

 

 

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