2016 年 9 月 25 日

・説教 詩篇8篇「神の威光は天と地に」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:32

 

2016.09.25

鴨下 直樹

  
 先日、私が関わっております名古屋にあります東海聖書神学塾の教師会が行われました。教師の一人が「漱石、芥川、太宰と聖書」というテーマの発題をしてくださいました。とても、興味深い講演でした。その先生が最後の方でこんなことを言われました。聖書の神を語るために文学者たちの持つ役割は小さくないと。この話の後で質疑の時間がありました。私たちの教会の古川長老が興味深い質問をしてくださいました。古川長老は今、神学校でキリスト教美術を教えてくださっていますので、教師会に参加してくださっているのです。

 それはこういった質問でした。聖書の中には、神と出会った人たちが、表現できないような神の美というようなものに触れて心動かされている部分があるけれども、教会ではこの美ということにあまり関心がないように思うと言われました。その古川さんの意見を受けて神学塾の理事長の河野先生がこう言われたのです。河野先生がアメリカの神学校で学んでいた時に、その時の実践神学の先生が、神の性質は「真、善、美」というけれども、この真理と善、義しさということは教会で語られているけれども、美という観点は今日までおろそかにされている。このことが現代の教会の課題だと言われたと言っておられました。私自身、この古川さんと河野先生の意見を聞くまで、礼拝の中でどのようにしてこの神の性質である美というものを表現できるのかということについて、あまり考えて来なかったという気がしています。けれども、たしかに聖書にはいたるところに、この神の美という視点が語られています。

 今日の説教の題を「神の威光は天と地に」としました。1節には「あなたはご威光を天に置かれました」と書かれていますから、まずは神の威光、栄光は天に示されていると書かれています。しかも、つづいて「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって力を打ち建てられました」と書かれています。この言葉は実はとても複雑な言葉でかかれていますが、幼子や乳飲み子たちを通して、神の威光は天に示されているということです。

 赤ちゃんや、幼子の言葉というのは、まだちゃんと表現することができません。何かを伝えたくて、それこそ顔を真っ赤にして泣き続けます。母親は、必死にその幼子の気持ちを受けとめようとします。この詩篇を作った人は、私たちが神の偉大さを言い表そうとしても、それは赤ちゃんの泣き声や、幼子の言葉に等しいということをよく理解しています。

 赤子や幼い者が神を褒めたたえているのに、自分が力強いと思い込んでしまっている者は、神に敵対し、自分が何者かであるかのごとく振舞っている。それは、なんと神の前に愚かしいことなのだろうか。この詩篇の作者はそのように歌っているのです。

 ある詩篇の解説者はこの詩篇は夜の礼拝の時に歌われた歌ではないかと言っています。夜の礼拝というのがあったかどうか、私には分かりませんが、レビ記を見ると祭司たちは朝まで神への献げ物の火を焚き続けることが書かれています。そのように、夜にも神への献げ物が行われたことを考えると、その献げ物を携えてきた人が夜に、幕屋や神殿で空を見上げながら礼拝をしたということは、あり得たと思います。

 今のように、夜に外にでても何も星がみえないというような時代ではありません。大気汚染もなかったでしょうし、街頭の明かりもない時代ですからそのころの夜の星空は想像を絶する美しさだったことでしょう。冒頭に、神の美の御業を、自分たちの信仰の言葉で表現する、それが詩篇でした。この時代の信仰者たちは、今の私たちには想像できないほどの紙の美しい御業の数々を見、また経験していました。ですから、とうぜん、それは信仰の言葉となって出てきたのです。

あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

と3節と4節にあります。
 神の圧倒的な被造物の美しさをまのあたりにした時に、人とは何者なのか、自分とは果たして何者なのか。そう考えざるを得ません。この世界を創造することのおできになるお方が、私、この小さな私に目をとめ、私を顧みてくださるということが果たしてあるのか。そのように、言わざるを得ないのです。もちろん、そんなちっぽけな人間が神に敵対して生きることができるなどと考えることなど恐れ多いことです。

 今週の火曜日、マレーネ先生がドイツでの半年間の宣教報告を終えて、日本にまた戻られました。私たちの多くは、ドイツの教会のこと、ドイツのクリスチャンたちのことを知りません。ドイツも同じで、多くのドイツの人は日本のことを知りませんし、日本人がどのようにしてクリスチャンとなるのかも知りません。ですから、報告に行き、またどんな働きをしているのかを知ってもらい、祈ってもらいます。そうやって、少しでも、日本のことを知ってもらって祈っていただいているわけです。

 私たちには分からない事ばかりです。私たちは自分が知っていることしか知りません。知り得ないのです。それなのに、私たちは、その小さな自分の生活がすべてだと思い込んでしまっています。自分のことしか考えられなくなって、自分の生活の中のこと、自分と関わる人のこと、それが、この世界のすべてかのように思い込んでしまうのです。

あなたは、人を神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

5節にそのように書かれています。「人間は神より少し劣るもの」とあります。そんなはずはないのです。まったく足元にも及ばない存在でしかないのが人間です。ここまでくると、自己卑下を通り越して、ただの嫌味でしかない気がしますが、人間は、自分の生活がすべてで、神などなくても大丈夫と考えている。それほどに、人間は栄光と誉れを身に受けて、その冠をかぶって喜んでいる。人とはそんな程度の存在ではないか。自分が神を知っている、自分は神の民、クリスチャンだと言ってみたところで、人間のはかなさは変わらないのです。その人間に、神はこの世界の管理を任せておられる。だから詩人はこう言葉を続けます。

あなたは御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。

 マレーネ先生が私の娘のために、ドイツ語の絵本をプレゼントしてくださいました。今朝、私の机の上にこの絵本が置いてあるのを娘が発見しました。「これ、あたしの絵本!」と言うのです。それで、「今日の礼拝で紹介したいから使わせて」と言うと、「お父さん、でも自慢しないようにね!」と言われてしまいました。いつも、娘に言っている言葉をそのまま言われてしまいました。

 この絵本のタイトルは「素晴らしい世界」というものです。1ページずつ色々な仕掛けのある絵本で、神がどのように素晴らしい御業で、この世界を創造されたのかが、ユーモアとともに紹介されています。ところが、最後のページで、今この世界は破壊され、あまりよい状態とはいえません。その世界のために私たちには何ができるのでしょうか?と問いかけられています。わたしたちはこの世界を開拓し、排気ガスを取り除き、川や海を綺麗にしなければなりません。それは、簡単なことではありません。時間がかかることでもあります。そのために、私たちは、はじめに神様はこの世界を美しく造られたということを思い起こす必要がある。神様はこの世界を素晴らしく創造してくださったということを。そのように結ばれていました。

 この絵本を娘と読んだ時に、娘がこう言いました。「でも、私たちの住んでいるところはまだ美しいわ。森もめちゃくちゃになってないし、戦争で町も壊されていない。この世界はまだこーんなに美しいの」。私はそういう娘の言葉を聞きながら、そうまだ完全にダメになっているわけではない。だから、まだ可能性は残されているのだと考えさせられました。

 これは子どもの絵本ですが、とても良く考えさせられる仕掛けがいくつもあります。「私たちにとって大切なことは神様のことを思い出すこと、そこからはじめること」と、この絵本には書かれていました。人間の業から、私がしたことから、事柄ははじまったのではなく、すべては美しい神の御業がはじめにあったのです。私たちは、神にこの世界を正しく管理することを託されているにすぎません。

すべて、羊も牛も、また野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。

 神のすばらしい御業はこの世界中にあらわされています。神の威光は天と地に示されているのです。私たちは、この神の御業をただしく見るまなざしが必要です。厳しい現実だけをみるのではありません。ただ、自分が見えている世界だけを見て嘆くのでもありません。また、神の御業を無視することも正しくはありません。神を知ること、自分を知ること。そのことを正しく行うことができるときに、私たちは道を踏みはずす過ちから逃れることができるのです。

 宗教改革者はそれを「神認識と、自己認識」と表現しました。神を知ること、それが自分を正しく知る道です。この神は、この世界が美しくあることを望んでおられるお方です。ですから、私たちは神の美しい御業を発見することが、不可欠なのです。無関心でいることは神ご自身が何よりも悲しまれることです。

 この教会にも俳句をやられる方が沢山おります。私は本当に、あまりうまく俳句を作ることができないのですが、この世界の美しさを、自分の言葉で言い表すことは、何よりも神を喜ぶことなのだと思います。詩篇の作者たちのように、自分の言葉で、神の御業を言い表す。神はこれほどまでにこの世界を美しく造って下さったのだと。そうすると、私たちの人生も、神は美しく生きることを望んでおられることが分かってくるのです。美しく生きるとはどういうことか、それは、神の心に応えて生きること。神を喜んで生きること。神を神とし、人を愛して生きることです。それはいい加減にできることではありません。

人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。

 私たちがりっぱに生きることができるから、神は私たちを心に留めてくださるのではありません。ただ、神はご自分の造られた世界を愛し、私たちを愛しておられるので、無関心でいることなどできず、私たちのような決して正しいとは言えないような小さな者にも心をとめてくださるのです。この世界をお造りになられた神が、私を心に留めていてくださる。私の生き方を決して小さなものと見ないでいてくださる。こう告白できるという事はなんという幸せなことでしょう。私たちの神は、私たちを美しい世界に生かしてくださるお方です。そして、私たちがその中で美しく生きる時に、神の美しさは一層輝きを増すのです。

 今日は、私たちこの同盟福音キリスト教会の宣教60年をお祝いする日です。私たちの神は、私たちに心をとめ、60年間もこの東海地区での宣教に心をとめてくださいました。ここにも、この私たちの教会にも神の美しさが豊かに示されているのです。

お祈りをいたします。

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