2016 年 11 月 6 日

・説教 詩篇98篇「新しい歌を主に」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 13:51

 

2016.11.06

鴨下 直樹

 
 先週、私たちの教会では子ども祝福式をいたしました。たくさんの親御さんと子どもたちが礼拝に集い、主の祝福を求めて祈りをいたしました。また礼拝では讃美歌を歌い、み言葉を聞きます。礼拝に初めておいでになられた方にとって、礼拝は新しい経験であったに違いありません。

 今日の聖書のテーマは「新しい歌」です。新しい歌というと、一般的には新曲という意味で理解されることが多いと思います。未発表の曲というような意味です。けれども、聖書がいう新しい歌というのは、そういう意味ではありません。それこそ、今まで歌謡曲しか聞いたことのなかった人にとっては、讃美歌の響きは新しい歌であったのではなかったかと思います。これまで聞いたことのない歌、歌ったことのない歌のことを「新しい歌」というのです。

 昨日、私たちの教会で俳句の会が行われました。俳句も言ってみれば「歌」の一つと言ってもいいと思います。今年の夏から私も心を入れ替えまして何とか句会に参加させていただいています。私としては本当に満足のいく俳句をつくることができずにいるのですが、他の人の俳句を見せていただくととても豊かな俳句と出会わせていただけるので、楽しく参加させていただいています。昨日私が採らせていただいた句は、指導をしていてくださるMさんの俳句です。こんな俳句でした。この俳句には短い小見出しがついていまして、「東日本」となっています。

津波痕背高泡立草咲き過ぎ

 東日本大震災から5年が過ぎました。そのことを詠んだ俳句です。私も直後に救援物資を届けるために現地を訪ねたことがあります。湾岸に沿ってつづく長い道があります。津波の襲った跡と、建物が残された跡の境をまたぐようにして道路が続いているところがあります。その跡地に背高泡立草が咲いている。この季節の花粉症の原因ともなっているようですが、あの黄色の背の高い花で、津波の跡が埋められている。決してその傷跡はこの黄色い花で埋めることはできないのだという悲しみが心に迫って来ました。この傷跡を埋めることができる慰めは果たしてどこにあるのか。そう問いかけているようでもあります。

 歌を歌う。詩を詠む。俳句を詠む。どれをとっても、その詩は自分の心をのせて誰かに届けられていきます。その言葉を聞いて心打たれるのは、その言葉に共感できるからです。その共感は、時に懐かしさを伴い、時に心に秘めた悲しみを言い当てる役割を果たし、あるいは、共に喜びを分かち合ったりもします。歌を歌う。そこには、慰めが伴うのです。

 この詩篇の98篇は、昔から多くの人の心に慰めと希望を与える歌として歌い継がれてきました。

 11月に入りまして、とたんに町はクリスマス一色になります。教会でも祝福式のためにアドヴェントカレンダーチョコレートを捜したのですが、どこにも売られていませんでした。インターネットでも問屋と言われる所に尋ねても「ない」の一点張りです。ところが、それから数日もしないうちに、お店にはたちどころにクリスマスの商品が並ぶのです。クリスマスになるとよく店先で流れる曲の中のひとつに「Joy to the world」という曲があります。「諸人こぞりて」というクリスマスの讃美歌です。その歌詞にもこの詩篇98篇の歌詞が入れられています。世界中の人が集まって、この世界に恵みとまことをもたらすために来られた救い主を賛美する歌です。

新しい歌を主に歌え。主は奇しいわざをなさった。

この詩篇はそのように歌い出します。
 何がおこったのかというと、2節では「主は御救いを知らしめ、その義を国々の前に現わされた」と書かれています。主の救いの御業が告げ知らされているのです。だから、この内容はクリスマスの歌としてもしっかり内容が合っているとして、長い間歌い継がれてきたのです。救いとは何か、奇しいわざとは何か。これがクリスマスに歌われるのであれば、それは神の御子の誕生という事になります。しかし、この詩篇はそのもっと前の時代のものです。

 この歌が歌われていた時代には、誰もがここで歌われている「救い」の意味は明らかでしたが、この詩篇が作られたのは今から2500前のこと。もっというと紀元前539年以降に造られた歌だという事まで最近では分かるようになりました。というのは、BC539年イスラエルの民はバビロンの捕囚から解放されます。このころ、イスラエルはバビロニア帝国に支配されイスラエルの人びとは強制労働に駆り出され、国は植民地のように他の国に支配されていたのです。かつてのイスラエルの繁栄は見る影もなく、ソロモン王が建設したエルサレムの神殿は破壊されてしまっていました。イスラエルの人びとはまさに救いの希望を見出すことのできないような、それこそ歌など歌えないような悲しみに支配された時を過ごしたのです。

 そのイスラエルに突如として良い知らせがもたらされます。それが、「奇しいわざ」と書かれている言葉の意味です。「不思議なわざ」と訳した方が、内容ははっきりするかもしれません。この言葉は、「人間が自分たちの力で何とかできるようなことではない」ことという意味が込められています。「神のみわざ」としか言えないような圧倒的な出来事を味わうのです。

 この詩篇の書かれた時代に生きていた人にとってすれば、それまで「歌」という言葉は知っていたでしょう、意味も知っていたでしょう。しかし、その歌の素晴らしさを味わったことはありませんでした。なぜなら、そんな喜びを味わったことがなかったのです。そこに、突如、自分たちの常識を覆すような救いの知らせがもたらされます。それこそ、歌わずにはいられないような救いの知らせを聞くのです。

 イスラエルの回りには強大な国々がいくつもありました。なかでもバビロンは今日でもその名を轟かせているほど当時強大な国でした。もちろん、そのころにはメソポタミア、エジプトという文明の高い国々もありましたし、そのあとイスラエルが支配されることになる国として、アッシリア、ペルシャ、ギリシャ、ローマという国々が続きます。人間的に考えれば、小さな国イスラエルがこの地域で存続することができることなど不可能と思えるような状況に置かれていたのです。抵抗するだけ無駄なことです。希望も見出せず、ただ、大きな力の前に屈していかなければならないような日々を歩むことは、この時代の人びとにとってどれほど苦痛だったことでしょう。

 3節にはこう書かれています。

主はイスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる。地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。

 周りの誰もが、もう諦めてしまえ。どこに救いがあるのか。そんな声が聞こえて来ても、主なる神は、恵みと真実を覚えておられるお方です。「恵み」はヘブル語でヘセドという言葉です。慈しみと訳されることばですが、いつも目に留めて分かっていてくださる、共感してくださる、同情してくださるという意味の言葉です。

 この恵みと真実という言葉はよくセットで出てくる言葉で、詩篇の中に何度も神ご自身の御性質を示す言葉として出て来ます。真実なお方なので見捨てたりなさらないのが、私たちの神なのです。どんなに弱くたって、どれほどちっぽけだって、私なんかと言いたくなるような弱い存在であっても、神は真実なお方なので、私たちにいつも目を向けてくださって、そして、やがてこの神の救いの御業が誰の目にも明らかになるのです。それは、まさに、イスラエルの人びとがバビロン帝国の支配から解放されたように、神の救いは私たちにもたらされるのです。

 「新しい歌を歌え」まだ、見たことも、聞いたこともない、素晴らしい救いの知らせを歌うことができるようになる。それは、全世界に響く歌となるのです。

全地よ。主に喜び叫べ。大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え。

 2006年ドイツでサッカーのワールドカップが行われた時、私はドイツのシュトュットガルトでドイツ対ポルトガルの三位決定戦の試合を見ました。友人がチケットを取ってくれてサプライズ旅行に招待してくれたのです。一日シュトュットガルトの町を観光して夜に会場に行きました。町を観光している時に、時々ドイツの若者が大きな声で歌を歌っていました。ワールドカップの決勝がベルリンでイタリヤとフランスの試合が行われます。けれども、彼らは「ベルリンよりシュトュットガルトの方が素晴らしい」という歌を歌っていました。聞いたことのある替え歌です。

 ところが、試合がはじまるスタジアムで、ドイツ人たちからいっせいに「ベルリンよりシュトットガルトの方が素晴らしい」という歌の大合唱がはじまったのです。そして、結果、ドイツはこの試合に勝って3位になりました。帰り道、駅も道路もみんなこの歌を大声で歌っていました。町はとてもよい雰囲気で誰もがドイツの3位を喜び、みんなで歌いあっている姿がとても心に残りました。サッカーで一つの国が良い成績をおさめる。それだってこれだけの人びとが喜びの歌を歌うことができるのだとしたら、長い間抑圧されていた人々が解放された時の喜びはどれほどであったかと思うのです。

 ここには様々な楽器が登場しています。大声に続いて、立琴、ラッパ、角笛、海に住むもの、世界に住むものの叫び、川までもが手を打ち鳴らせと書かれています。人間だけではない、動物も自然も、神に造られた被造物すべてがこの神を喜んでたたえるのだというのです。

 もうすぐ教会の暦では一年の終わり、そして今月末から一年の初め、アドヴェントを迎えます。この詩篇はアドヴェントにも歌われ、クリスマスにも歌われ、イースターにも歌われる賛美として用いられるようになりました。

 神の救いがあなたのもとに訪れる。それはアドヴェントの知らせです。そして、クリスマスにお生まれになられた神の御子ご降誕を、神の救いが届けられたのだからと歌を歌い、イースターにこの救いは成し遂げられたと歌います。神は、私たちが新しい歌を歌うようにと招いていてくださるのです。これまで歌ったことのない歌を、主はこれから先にも私たちに備えていてくださいます。

 今、私たちは讃美歌を新しい歌として歌っています。神を知るようになってからの歌として神を喜び讃える幸いを知っています。しかし、私たちはさらに、神の救いを新しく知ることになるのです。イスラエルの人々が大歓声で喜び祝ったように、私たちも、やがて、喜び祝う時がきます。私たちは常に、この確かな喜びの約束に包まれて生きる者とされているのです。

 お祈りをいたします。

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