2016 年 11 月 13 日

・説教 詩篇4篇「安らかな眠りを」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 16:55

 

2016.11.13

鴨下 直樹

 
 今日は召天者記念礼拝です。そのために今朝は遠くからこの礼拝にお集いになられた方もあると思います。私たちの教会では毎年、召天者を覚えて礼拝を行っています。それは、芥見教会の墓地に入っている、いないに関わらず、みなで共に天に召された家族や信仰の友のことを覚えながら、聖書の約束をもう一度思い起こす時だからです。神は、人をどのように扱われるのか。そのことに心をとめ、また主なる神の真実なみわざに心を向けたいと願っています。

 特に、今朝は詩篇の第4篇からみ言葉をともに聞きたいと思っています。少し前にこの礼拝で詩篇の第3篇からすでにみ言葉を聞きました。おそらく、この詩篇第4篇と第3篇は対になっている詩篇だと考えられますので、詩篇第3篇の状況がこの詩篇の背景にあるといえます。伝統的に詩篇第3篇は朝の祈りの詩篇と呼ばれ、この第四篇はゆうべの祈りの詩篇と呼ばれています。と言いますのは、この二つの詩篇には同じような表現が出て来ます。詩篇4篇の8節にある「私は身を横たえ眠ります」という言葉は、3篇の5節にも同じ言葉が書かれています。けれども、3篇は「目をさます」と書かれていますけれども、4篇にはそれがありません。それで、朝の祈りと、ゆうべの祈りと分けられてその特徴を表現しているわけです。

 この詩篇は第3篇にあるように、ダビデの記した詩篇の一つで、しかもダビデの息子であるアブシャロムが父ダビデに反逆を試みまして父ダビデは眠れない夜を過ごした、それが、この詩篇の背景にあります。そして、興味深いことに、この詩篇第4篇は教会の暦では、聖土曜日と言われる主イエスが十字架で殺されて、墓に葬られていた日に読む聖書の箇所になっているのです。夜の眠りということと、死というテーマをこの詩篇は扱っていると教会は理解してきたのです。

 今日の説教題を「安らかな眠りを」としました。私たちが夜眠るときに、本当に平安に眠ることができるというのは、心の底から安心できるという時に、すこやかに眠ることができます。実は、私は昨日、夜中にいやな夢を見て声をあげてしまったようで、朝になって妻に「何か叫んでいたけど」と言われました。夜、安らかな眠りができていないのかななどと改めて考えさせられております。平安に眠れない者が平安な眠りにつて語るということは少し説得力に欠ける気もいたします。しかし、私自身もう一度この詩篇としっかりと向かい合って、安らかな眠りを与えられたいと願っています。そして、また同時に死を迎える時に眠りについたと表現することがありますが、安らかな死というものについても心にとめたいと願っています。

 「安らかな眠り」-私を含め、多くの方は人に口に出しては言わないけれども、様々な苦しみを実は抱えていて、安らかに眠ることができないということがあると思います。この詩篇はそんな人の祈りの言葉だと思って読んでくださってよいと思います。

 1節で祈り手はこう祈り始めています。

私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。

 人は苦しい時に神に祈りたい気持ちになります。それは、何とかこの苦しみから解き放たれたいという強い願いがあるからです。この詩篇はヘブル語で書かれていますが、ヘブル語ではこの「苦しみ」という言葉は、もともとは「しばられた窮屈な状態」を指す言葉です。何かにしばられたように身動きが取れなくなくなってしまって、体が小さくなったまま動かない、そんなイメージの言葉です。それに対して「ゆとりを与ええてくださいました」と書かれていますが、この「ゆとり」という言葉はもともとの意味は「広い」という意味の言葉です。小さくなって窮屈さを感じているのが、解き放たれてのびやかに、ゆったりすることのできる状態になること。この祈り手は苦しみにある時に、神はわたしを解き放ってゆとりを持つことができるようにしてくださると、ここで信じて祈っているのです。

 これは、少し考えてみてくださるとよく分かることですけれども、小さなやかんはすぐ沸騰するといいます。こころにゆとり、余裕がないと、小さなことですぐに沸騰してしまうわけです。四畳半のスペースでできることと、外の広い運動場でできることは当然違います。ゆとりが、広さが与えられると、小さなことでいちいちくよくよ考えません。けれども、色々な周りの状況が厳しくなってくると、気持ちはどんどん小さな部屋に追いやられてしまうような気持にさせられてしまって、どんどん心からゆとりがなくなっていってしまうのです。問題はどうやって、この一度小さなところに縛り付けられた状況から自分を解き放つことができるかということです。それは、何とかして少しでも広い場所に出て行かないと、この縛り付けられた状況から抜け出すことはできなくなってしまうのです。そのために私たちに与えられているのは、神に祈るということなのです。

 祈りとは、自分を見つめることではありません。神を仰ぎ見ることです。自分を見つめることを止めて、天を見上げる、この世界をすべて作られた神のもとに出ることです。私たちは、「神よ」と、この世界をお造りになられ、この世界を支配しておられる神の御前に出ることによって、小さな世界から抜け出すことができるのです。

 ダビデは、自分の息子アブシャロムや、アブシャロムにくみする者たちによって自分の名誉を奪われてしまいました。2節から5節はこの敵に対する言葉という形になっていますが、よく読んでみると、敵のことについて書かれているのは2節だけで、結局自分自身と向かい合っています。

 「あの人がこう言った、この人にこう言われた」と言って私たちは傷つくことがあります。恥をかかされたと感じる時があります。しかし、人の考えを変えることは難しいことです。その人に何か言い返してみたところで、また別のことを言われてさらに傷ついてしまうということも起こり得ます。結局私たちができるのは、自分自身と向かい合うことしかできません。けれども、そうやって、自己反省ばかり続けていくと、先ほど言ったように、どんどん窮屈で縛られたような状態になってしまうのです。

 ダビデはどうしたのか。この祈り手はこう言っています。3節です。

知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。

 ダビデはただ、自分と向き合って自分のみじめさや、弱さを見つめるのではなくて、神は私をどう見てくださっているのかという事に目を向けようとします。これが、神に与えられる「ゆとり」、「ひろさ」と言ってもよいかもしれません。

 「神は私を特別扱いしてくださる」。普通の人はなかなかそんなことは言えません。「神様、あなたは私を愛してくださるんじゃないのですか」と不平を言うことは簡単です。だから、ついつい、そういう言葉が多くなってしまいがちです。ダビデはここで「聖徒」と言う言葉を使いました。これは、「神の恵みに信頼している者」という意味の言葉です。神が自分に目をとめてくださっていることを知っている。神の真実を、神の誠実を知っている。神は、神に寄り頼む者を見過ごしにはなさらない。それは、神ご自身の性質に関わる問題です。だからこそ、神にそのように告白して、まるで自分に言い聞かせるように「知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ」と告白しているのです。

6節のはじめににはこう書かれています。

多くの者は言っています。「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。」

 「何かいいことないかなぁ」という言葉は、若い人の専売特許なのかもしれません。何か違う人生があるのではないかという希望をどこかで見たいと考えている時に、そういう言葉が口をついて出て来ます。ところが、年齢と共に、あるいは責任と共に、どこかに現実逃避するような言葉は次第に言えなくなってきます。それと同時に今度はため息がふえるということであるのかもしれません。

 私の若かりし日のことです。当時、私はまだ独身の神学生で、教会の隣の長屋を借りていただいて、その教会で実習をしながら、神学校と教会の働きをしていました。神学校の勉強と教会の仕事の多さに、ある土曜日、説教の準備をしていた時に、ふと一つの考えが私の頭をよぎりました。「このままこの家を逃げ出して、誰も知らないところに行けたらどんなに楽しいだろう」と想像してみたのです。そのアイデアは私にはとても魅力的に思え、具体的なことをあれこれ考え始めます。電車でいくか、車でいくか。お金は大丈夫か。どこに行こうか。考えている間、とても楽しくてつかの間、我を忘れてその考えにのめりこんでいました。そして、自分の前に開かれた聖書に目が留まり、われに返ったのです。

 神の前に慰めを見出すことができずに、どこか知らない世界に逃げ出してそこに慰めなどあるはずもないのです。「どこかにいいことないかなぁ」「だれかわたしに良い目をみさせてくれないかなぁ」それは、自分の知らないどこかに、自分を楽しませてくれるものがあるのではないかと思い込む、自己逃避でしかありません。けれども、目の前で自分を縛り付けようとするものから一時的に逃げ出したとしても、すぐに同じ問題が身に迫ってくるのです。自己逃避は本当の問題の解決ではないからです。

 祈り手は、つづけてこう祈ります。7節です。

あなたは私の心に喜びを下さいました。それは、穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。

 神が心に喜びを与えてくださる。それは食べるもの、飲む物が満たされている豊かなときにも勝る喜びだと言っています。これは、この祈りの状況が息子の離反と民のクーデターという状況をもう一度思い出してみると、とてもすごいことを言っているということがよく分かっていただけるのではないかと思います。

 自分の息子が反旗を翻し、自分の部下だったイスラエルの民たちもアブシャロムにくみする者が大勢出たのです。それまでは、毎日安心できる食卓で食事ができていたのです。穀物と新しいぶどう酒の備えられた食卓というのは、すべてがうまくいっているしるしのようなものです。ところが、まさに、夜もぐっすり安心して眠ることのできないような状況で、ああ何かいいことないかなぁと現実逃避の言葉を言いたくなるような状況の中で、ダビデは今、私の心には喜びがあると言っているのです。まさしく、小さく閉じ込められた状況から、天を見上げ、神に祈ったときから、考えるべきことがちゃんと整理できて、そして、自分は神の前に生かされているから大丈夫なのだという安心を持つことができるようにされているのです。

 この詩篇はそのことが、すべてこの最後の一節に込められています。

平安にうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。

 自分の危機的な状況、苦しく、縛り付けられているような状況の中で、安心して眠ることができる神の守りを、ダビデは見出しているのです。ここに書かれていることは、一言で言い表すならば、神に委ねきったということです。自分の人生を神に明け渡したということです。そして、このことが一番の問題でもあるのです。

 というのは、ゆだねるという事は、どんなことが起こっても、その結果も受け入れるということです。自分の望むような結果でなくても、それを受け入れなければなりません。それが、ゆだねるという事です。

 最初にお話した通り、この詩篇は主イエスが葬られていた土曜日に読む聖書の言葉として受け止められてきました。主イエスのことを考えてみると、そのことが良く分かるのです。主イエスは自分のことを神にゆだねる祈りをいたしました。そして、その結果、主イエスの身に起きたのは、十字架の死です。神に寄り頼んでも死んでしまっては意味がないではないかと多くの人は考えます。しかし、まさに、自分の命までをも神にゆだねきることができることをこそ、主イエスは示されたのでした。そして、その先に待っているのは復活。新しい命に生きることです。

 今日は召天者記念礼拝のときです。私たちは、今、私たちの愛する家族、友人のことを考えながら、この礼拝に集っています。そして、もう一度私たちが改めて今日気づかされるのは、神にゆだねてしまうことのできる人生は、安らかな眠りにつくことができるということを知るのです。主イエスは、ご自分のいのちを神が支えていてくださることを知っていました。同じように、信仰に生きた、私たちの家族も、神が、そのいのちをささえて下さることを知りながら神の御許に、新しいいのちの道へと導かれて行ったのです。

主よ、あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。

 私が、安心して生活し、安心して死を迎えることができるのは、この私たちのいのちを支え、私たちを安らかにすまわせてくださるお方が、神、主であるとの理解に立つことです。この世界をお造りになられた神は、私たちのすべてを支配し、私たちが安心して生き、安心して死ぬことができるようにすべてを最善にしてくださるお方なのです。だから、安心して眠りにつけるのです。神にすべてをゆだねることができるのです。

 このことを受けとめた時に、私たちの心にゆとりがうまれ、締め付けらるような苦しみから解き放たれるのです。この主は、この神のみ恵みに、慈しみに信頼する者を特別に扱ってくださるのです。

お祈りをいたします。

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