2017 年 1 月 1 日

・説教 エゼキエル書36章26節「新しい心、新しい霊」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:26

 

2107.01.01

鴨下 直樹

 
 2017年を迎えました。今年、私たちに与えられている年間聖句はエゼキエル書36章26節のみ言葉です。

わたしはあなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。

 このみ言葉はドイツにありますヘルンフート兄弟団という教会が『ローズンゲン』という日々のみ言葉の冊子がこの一年のためのみ言葉として選んだものです。ドイツのヘルンフート教会が自分たちのために作ったもので、このローズンゲンが作られるようになってもう300年近い歴史があります。そして、今では世界中のクリスチャンたちがこのローズンゲンを使うようになりまして、今では50を超える言語で翻訳されているそうです。

 先ほど、年間聖句のカードをみなさんにお配りしました。とても色鮮やかなものですが、この年間聖句のカードを、ドイツでは何種類ものカードを作っているのですが、インターネットで見ることができます。見てみると、実にさまざまなイメージのカードがあります。「新しい心、新しい霊」というのをどのようにイメージするか、そのイメージの豊かさがそのまま様々な種類のカードに表れているような気がしました。私たちの教会のカードは鳩とハートがイメージされています。鳩とハート。韻を踏んでいますが、音までは絵に現わそうとしたわけではないと思います。もう一枚の黄色のカードは青く塗られた人の中を、赤色の人が歩きだしているイメージです。おそらく、神様から新しい心と霊を与えられて、今から歩み出そうとしているイメージなのだと思います。

 神様が私たちに新しい心と、新しい霊を下さるというのは、いろいろなイメージで受け止められます。この聖書のみ言葉が、私たちに与えられている年間聖句だと知って、みなさんもいろんなイメージを持たれたと思います。新しい心を与えられるという場合に、連想するのは、心を入れ替えて新しくスタートするというようなイメージがあるかもしれません。それこそ、この新しい年を迎えるにあたって、今年は新しい気持ちで、新しいことにチャレンジしたい。これまでの自分を反省しつつ、心を入れ替えて新しく歩みだそうとする。そう考えると、このみ言葉は元旦に読むみ言葉としてはとても適した聖書の箇所と言えます。神が新しい心を下さる。それはどんな心なのでしょうか。私たちのイメージは豊かに膨らみます。

 問題は霊の方です。心の方は、自分で心を入れ替えるという言い方ができますからある程度イメージを抱きやすいと思います。けれども、自分の霊を新しくするという言い方はできません。そうすると、自分の力で何とかするというようにはいかなくなります。新しい霊をいただく。それはどういうことなのでしょうか。

 聖書のみ言葉を理解するときには、いつも、ただ単にこの言葉がもつイメージを自分なりに膨らませて理解するというのでは、その言葉を正しく受け止めることにはなりません。必ず、この言葉が語られている聖書の文脈というものを理解する必要があります。聖書から豊かなイメージをここから受け取るということは聖書を理解する助けになりますが、それだけで、正しく神の言葉を聞き取ることにはならないのです。

 このエゼキエル書というのは、旧約聖書の中でも特徴的な書き方がされている箇所で、旧約版の黙示録ともいえるような独特な表現が出てきます。特に、この時代、イスラエルの人々はバビロンに捕らわれていた、いわゆるバビロン捕囚と言われる時代です。今日のエゼキエル書36章は、なぜバビロン捕囚が起こったのかという理由を神が答えているところです。その理由はここで偶像礼拝にあると神は言われます。神のみ言葉に聞き従わないで、偶像によって神を汚したことが、神の怒りの理由だと記されています。

 なぜ人々は神に従わないで偶像を拝んだのかというと、それは人間の心にある欲望です。それが、今日の26節でも「石の心」という言葉で表現されています。頑なな心、頑固な心です。この欲望は色々な言葉で表現することができます。「自分だけがよければいいと思う心」という事もできます。「損はしたくない」、「もっと欲しい」持ち物、食べ物、綺麗な衣服、お金も、性的な快楽、健康も、名誉も、認められること、ほめられること、ありとあらゆることが自分に結びついている心、欲望です。これは、人の心の中に石のように頑なになり、取り除くことができない。そのために、神はお怒りになられてバビロンに支配され、捕えられているのだと、神はここで語っておられるのです。

 この欲望に対してどうしたらよいのか、石の心、頑ななまでに自分のために生きてしまう思い。聖書はそれを罪と言い続けてきました。そんなに固く、取り除くことのできないほどの罪を神は、そのまま見過ごしにはなさいません。間もなく新しい時代が来る。その時、神はあなたがたに新しい心と新しい霊を与えるとここで約束しておられるのです。

 この「新しい心」というのは、自分の意思です。自分で決断する意思です。それこそ、今年は心を入れ替えていこうと思うのも、自分の意思です。決断です。けれども、私たちは知っています。この自分の意思というのはどうもあまり当てになりません。昔は正月になりますと書初めというのをする習慣がありました。自分の決意を習字で書いて、自分自身に言い聞かせるわけです。ところが、多くの場合、正月の三が日も過ぎた頃には何を決意したのかさえ忘れているような場合もあるわけです。けれども、まず神は意思さえも弱い私たちに、新しい心を与えて、私たちの思いを変えてくださるというのです。

 そして、さらに神は、私たちの心がしっかりと貫かれてそれを行うことができるために、神の霊を与えてくださって、私たちのうちに新たにされたその心が、意思決定がしっかりと支えられるように、神が霊を与えてそれを支えると約束してくださったのです。

 私は、このみ言葉を私たちに与えられた年間聖句として、この一年心に留めることができることをとても嬉しく思います。というのは、私たちは自分の力では、自分で決めたことも守り通すことに不安を感じるような者なのですが、神ご自身が私たちに新しい思いを与えて下さって、そして、その思いを行うことができるように霊をもくださって、この神の思いを果たすことができるよう導いてくださるからです。

 神は新しいこころをこの一年、私たちのために備えていてくださいます。今年は、宗教改革500年を迎えます。こうして生まれたプロテスタント教会は、500年にわたって神の新しい救いの御業を語り続けて来ました。私たちもプロテスタント教会に属しています。そして、今年、私たちは宗教改革500年を記念する年に、大きな伝道計画をもってこの地域の人々に福音を届けていきたいと願っています。

 また、私たちの同盟福音キリスト教会としても今年から宣教ネットワークという協力関係を地域の教会と協力しつつ、より地域に根差した伝道をしていこうとしています。神は、私たちに新しい心を与えてくださり、そして、神の霊を与えてくださって神の新しい御業を行ってくださいます。私たちの神は、今も生きて働いておられるお方です。この神は、今も、バビロン捕囚や、宗教改革のあった時代と同じように、これからも新しい御業をおこなってくださるお方です。

 けれども、いつの時代もそうですが、私たちは神の心を軽んじて、自分のことに夢中になって生きてしまいます。私たちは石のように頑なな欲望を常に抱えているのです。そして、神の御業が行われることよりも、自分の望み、願いが実現することに心捕えられてしまうのです。

 神は、いつでも新しい御業を行いたいと願っておられるお方です。そして、この神の新しい御業は、私たちにとって本当に喜んで暮らすことができるようになることなのです。神が、私たちのことを心配してくださる。神は私たちに喜びを備えてくださる。神を愛し、喜んで生きることができるようなることを、他の誰でもない、神ご自身が願っていてくださるのです。

 このカードに描かれているように、神は私たちに新しい心を与えてくださいます。神がこの一年、私たちにどのような新しい思いを与えてくださるか、ぜひ、期待してください。そして、神が新しい霊を注いで、その思いを果たすことができるよう支えてくださるという約束をぜひ心にとめて歩んでいただきたいとおもいます。

 私たちは、主イエス・キリストを信じる者とされて、新しい霊をすでに与えられています。この神の霊は、私たちのうちに働いて、神の御思いを果たさせてくださるのです。天で神の御心が行われているように、地上でも、私たちの生活のただ中ででも、神の御業が行われ、神の御業があがめられる一年となりますよう覚えて祈ります。

お祈りをいたします。

コメントはまだありません

まだコメントはありません。

この投稿へのコメントの RSS フィード

現在、コメントフォームは閉鎖中です。

HTML convert time: 0.156 sec. Powered by WordPress ME