2017 年 1 月 15 日

・説教 詩篇36篇「あなたの恵みは天にあり」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:25

 

2017.01.15

鴨下 直樹

 
「罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない」という言葉で、この詩篇ははじめられています。「悪者」と言う言葉がこの詩篇の冒頭に出てきます。「悪人」と聞くと、「物凄く悪い奴」とすぐに頭の中で置き換えてしまいがちですが、「神を敬わない者」という意味の言葉です。罪が人の心に語りかけると書かれています。「神のことなんか考えなくていい」と。神など恐れなくてもよい。どうせ神などいないのだから。何をやったって誰にもわかりっこないのだから。ひょっとすると私たちは毎日、色々な生活の場面でそういう心の葛藤を感じているのかもしれません。あるいは、そんな声も気にならないほどに、神に心を向けないことが当たり前になってしまっているかもしれません。

 この詩篇は、冒頭で、まさに人の罪の本質に目を向けさせています。2節の言葉は少し翻訳が難しいために分かりにくい言葉になっていますが、他の聖書、新共同訳聖書では

自分の目に自分を偽っているから、自分の悪を認めることも、それを憎むこともできない。

となっています。自分の罪に気付かなくなってしまっている。もう当たり前になってしまっていて、自分の悪い部分に気づかなくなってしまう。ここに、罪の恐ろしさが描き出されています。自分の心を偽りすぎて、無感覚になってしまうというのです。

 先週、成人式が各地で行われました。毎年、ニュースになるのは、新成人たちが各地で起こした「悪ノリ」と言ったらいいのでしょうか。お酒を飲んで、酔っぱらって注目を集めようとして、警察に取り押さえられるニュースが毎年毎年、変わることなく繰り返されます。お酒を飲んで、気持ちが大きくなって、だんだん悪いことをしている自覚がなくなっていく。まさに、それに似ているのかもしれません。

 「罪」というのは、私たち、すべての人間の心の奥底に潜んでいます。そして、何度も何度も繰り返していくうちに、悪いことをしているという意識がなくなって、自分の罪を認めることができなくなってしまうのです。あるいは、みんなもやっていることだからという思いが働いて、普通に考えたらやってはいけないことなのにブレーキがかからなくなってしまう。お酒の力をかりて、自分勝手に振る舞うことをよしとしてしまう。ついうっかり、ということもあると思います。私たちは毎日、この悪の思いとの葛藤があります。けれども、その葛藤もブレーキが利かなくなってしまうとどんどんエスカレートしていってしまいます。3節の後半にはこう記されています。

彼は知恵を得ることも、善を行うこともやめてしまっている。

悪いことだと分かっていたはずなのに、いつのまにか知恵ある行動にでることができず、正しいことも行わず、気づくと表面を取り繕うことに心を向ける。この詩篇の冒頭の言葉は、私たちに罪とは何かということをするどく問いかけています。

 興味深いのは4節です。

彼は寝床で、不正を図り、よくない道に堅く立っていて、悪を捨てようとしない」。

 私は先週、教会の聖書学び会で、この箇所から話をした時に、「みんなが寝静まっている時に、安心して眠れるように求めているのではなくて、みんなが寝ている時にこそ、悪いことをしようと計画している。悪い想いに支配されるということは、それほど自分の生活を暗くしてしまう」という話をしました。本来であれば安心して眠りたくなる時間です。けれども、そういう時間に、この暗闇に乗じて悪いことをしようなどと考えるのは、もうすっかり悪が身についてしまった姿だと言ってもいいかもしれません。

 ところが、あとで、この聖書の話を家でしていたのですが、妻は「そんな物凄く悪い人でなくたって、例えば翌日、気の合わない人と話をするときに、ああいわれたらこう言い返してやろうとか、そうやって自分が傷つかないように理論武装してから床に入ることだってある。それだって、よく考えてみれば、自分の考えに固執して、それを捨てようとしない頑固さと理解すれば、こういうことは誰にだってあるのではないか。」と話してくれました。そういうことも起こるかもしれません。もちろん、それは不正ということではないと思いますけれども、相手に耳を貸そうとしないで、自分のことしか考えられなくなる姿というのは、それも罪の一つの姿ということは言えると思います。

 この詩篇は内容が大きく三つに区切られているのですが、この前半部分はこのように悪の考察をしているわけです。そして、その中心にあるのは、「神を敬う心がなくなっていること」なのだということを明らかにしているわけです。神を敬う心というのは、大切な判断の基準を自分の心の中ではなくて、誰から見てもよい、悪いという納得のいく判定をくだす基準があるとすれば、それは神にあるということです。自分の外にあるということを認めるということです。そうでないと、善悪の判断の基準が自分になってしまいます。そうすると人は客観性を失ってしまって、正しいことと、間違っていることを見分けることができなくなってしまうのです。神に対する恐れの心がなくなるというのは、自分の生き方がいい加減になるということと、深く結びついているのです。

 さて、この詩篇は、今度は視点を移して、人間は神を見失ってしまうと手の付けられない状況になることを明らかにしてから、つづいて、では神を見上げてみるとどうなのかということに目を向けようとしています。
5節に「主よ、あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。」とあります。人は、なかなか簡単に自分中心の視点から抜け出すことができません。けれども、一度、自分から離れて、神に目を向けてみると色々と気づくことがあります。神は、この地べたの生活の中にではなくて、天から見ておられるお方です。神が私たちにくださるものは、天から与えられる。私たちが生きるために必要なものを。それを「恵み」という言葉で表現しています。

 これは「ヘセド」という言葉ですが「慈しみ」と一般的には訳されることばで、神のまなざしが語られています。神が私たちをどのように見ていてくださるか。私たちのことを気遣い、愛してくださる神の思いは、いつも私たちの上から注がれているというのです。その言葉を新改訳では「恵み」としているわけです。そして、いつも、この「ヘセド」「恵み」とか「慈しみ」と訳される言葉が出てくるときには「エムナー」「真実」という言葉とセットで出てきます。それは、神がその慈しみのまなざしだけではなくて、その神の慈しみに対して、真実を尽くしてくださるということがいつも一つになっていることを聖書は示しているわけです。ただ、神はいつも優しく天から見ているよというのではなくて、そこで、神の愛の業が行われ、その神の真実は私たちに与えられて、雲にまで届くほどになっているとここで、言い表しているのです。

 人は自分で自分の心に蓋をして、見ないようにしながら、自分勝手な生き方をしようとしているのに、神の方は、人に対して慈しみのまなざしを注いで、神の真実さを示してくださる。それは、7節ではこういう言葉で表現されています。

神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。

ここに、神の恵みが、慈しみがどれほど具体的な形で示されるのかが描き出されているわけです。親鳥がヒナをその翼のもとにかくまうように、人をその翼の下にいれてくださるのだと描き出されているのです。

 大切なことは一つです。それは、この主なる神は親鳥のように私たちをその翼の下にかくまってくださるお方なので、この主の翼の下に身を避けようとするのか、それとも、夜も悪いことをたくらみながら、自分で自分の生きる道を求めるために神を無視して生きるのかということなのです。

この詩篇の8節にはこのように続いています。

彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます」。

ここに「彼ら」という言葉があります。この「彼ら」は誰のことを指しているのかということになるのですが、1節から4節の人を決して締め出してはいないのです。この詩篇は内容としては悪者と正しい人という構図で文章は書かれていますが、聖書はすべての人は罪に支配されてしまう弱さがある者として描いています。けれども、そういう神を自分の判断の基準にしないで、自分勝手な思いで生きながら、生きることに苦しんでいる人が、主の御翼の陰に身を寄せるとき、神は、私たちに注いでくださる慈しみの眼差しを注ぎかけ、真実を行ってくださって、神の家の豊かさを心ゆくまで飲むことができるようにしてくださるのです。このことを、神の恵みという言葉で聖書は表現しつづけているわけです。

 この8節に「楽しみの流れ」という言葉があります。これは、もともとの言葉は「エデン」という言葉の複数形です。神の御翼の陰に身を寄せるというのは、まるで、エデンの園にいるような豊かな生活を送ることができるのだと、この詩篇は語っているのです。「エデンの園」というのは、聖書の最初に記されていて、神がこの世界をお造りになられた時に、人に住まわせた楽園の名前です。まさにそのあとの「天国」のイメージになった言葉でもあります。天におられる神は、人を楽園に、まるでエデンの園にでもいるかのように、豊かに生きることを願っていてくださるのです。

 9節にはこう記されています。

いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。

そこには「いのちの泉」があってその泉から毎日、喜びの水を汲んで飲むことができる。それは渇くことのない泉です。心が渇いてしまう、からからに乾いて何かを求めるような生活をしなくてはいけないのではなくて、毎日、満たされて、安心して、喜んで生きることができるようになると、ここには記されているのです。

 神の恵みというのはどれほど豊かで素晴らしいものなのかをここで描きながら、この神のくださる豊かな生活に身を置くようにとこの詩篇は私たちを招いているのです。この結びには「私たちはあなたの光のうちに光をみるからです」と書かれています。子供に、「太陽を見ると目がやられてしまうので、じっと見つめちゃだめよ」と教えます。太陽がまぶしいことは当たり前なのです。それと同じように、神は光だとここで言っています。神は光。すべてを明るくし、温め、見えるようにする。それが、神の性質です。この神の中に、光があるのは、当たり前のことですが、この当たり前のことに目をとめるようにここで語りかけているのです。神は光なので、神の前に隠し事をすることはできません。そのように、光はすべてを明らかにするという一面がありますが、同時に、それはすべてを見通し、暖かさを与えて、安心して生きることができるようにするのです。この光の神のみもとに身を寄せるなら、私たちはこそこそと何かに怯えて生きるのではなくて、毎日安心して生きることができるのです。

そして、この詩篇は最後の部分にはいります。10節以降の文章ですが、ここにしるされているのは、祈りです。神の恵み、慈しみが注がれるように。ちゃんと受け止められるように、気づくようにという祈りです。そして、悪の支配に飲み込まれてしまうことがないように祈っているのです。

 私たちは誰もが道を踏み外す弱さがあります。クリスチャンであっても、牧師であっても、私たちは神から心をそむけて、自分の思いに生きてしまう罪を抱えた人間です。だから、祈りが必要なのです。間違えることがないように。いや、もし、間違えてしまっても、神を何度も何度も軽んじて、神の思いをないがしろにしたとしても、神は私たちを御翼の下に招き入れてくださいます。だから、この神の思いに生きることができるように、間違いに気づくように、開き直ってしまうことがないように祈る必要があるのです。自分のために、そして、家族のために、友達のために、お互いのために祈るのです。祈りつつ、主の御前に生きていくときに、私たちの毎日の生活は支えられていくのです。

お祈りをいたします。

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