2017 年 1 月 8 日

・説教 詩篇27篇「主は私の光」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 13:23

 

2017.01.08

鴨下 直樹

 
 この詩篇は二つの大きく異なる内容が組み合わさった詩篇です。前半の1節から6節は「信頼の歌」とも言える神への信頼を讃える内容ですが、7節からの後半は全く逆の「嘆きの歌」となっています。神は沈黙したまま応えてくださらない。そのために、全く異なる二つの詩篇が時間の経過とともに間違って一つにされてしまったのではないかと考える人もいます。

 けれども、私たちの信仰の歩みは、まさに同じようです。ある時は心から神を信頼して神を讃えたい気持ちでいるのに、次の瞬間にはもう神がどこかにいってしまっているように感じてしまうことがあります。以前、神学校で神学生がこんな会話をしていたことがあります。「クリスチャンホームで育った神学生は、何があっても神がいなくなったりしないのに、そうではない自分は時々神がいなくなってしまうことがある。その違いは埋めようがない。」と話していました。私はクリスチャンホームで育ちましたから、その神学生の言いたいことが完全には理解できませんでしたが、言おうとしていることは分かる気がします。ひとたび、神に対する疑いの思いに捉われてしまうと、神なんかいないのではないかとさえ、思いたくなるということなのだと思うのです。0か100か。そんなふうに考えてしまうような弱さが、私たちにはあるのかもしれません。

 この詩篇27篇はとても美しいことばで始まっています。

主は私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。

 神を「光」という言葉で言い表す。それはよく考えてみると、聖書の冒頭から、そのように記されています。神は光を造り出されるお方です。「神は光です」と言い表したときに、そこには神がすべてのものを明らかにし、照り輝かせてくださって希望と温かさを与えてくださる。この神の「光」という性質そのものが「救い」なのだと言い表しています。とても、美しい信仰の言葉です。

 今、ある方と信仰入門クラスを行っています。先日は「聖書」という項目について学びました。私の前任の後藤喜良先生の書かれた『キリスト教ここが聞きたいQ&A21』というテキストを使っています。そのテキストに最初に書かれているのは、聖書を読むというのは、まず、この聖書に書かれた神を知ることだと書かれています。

 私たちは多くの場合、聖書を読む時についついしてしまいがちなのは、「神は私にどのように行動することを求めておられるか」ということに注意を払って聖書を読むということです。自分の悪い部分に気づいて反省して、神様が求めておられる良いことをしようと思って聖書を読んでしまうわけです。ところが、こういう読み方をしていきますと、自分がしなければいけないことは分かりますが、ちっとも神がどういうお方なのか分かりません。神のことが分からないと、実はどう生きてよいのかも本当には分からないわけです。

 「神は私の光、私の救い」このすぐ後には「主は、私のいのちのとりで」という言葉も出て来ます。神は光、救い、砦。そのように自分の言葉で神を言い表すことができるということは、神が自分にとって光のよう、まるで、光のように闇に覆われている思いから解き放ってくださるお方と言い表す。あるいは、戦いの砦のように神がいることで安心感を得ることが出来ていると言い表す。そうすることによって、自分にとって神様がどういうお方であるかが具体的なイメージと結びついていくわけです。

 この詩篇は「ダビデによる」と書かれています。ダビデはその生涯を見てみると、実に多くの困難を経験します。2節と3節にはもうダビデがこれまで経験してきた様々な戦いの出来事から出て来た言葉が続いています。2節。

悪を行う者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。

 実際に起こった出来事が背景になっているのでしょう。自分を苦しめようとしていたものが、躓いて倒れる姿を見て、神は私の砦となってくださっているとダビデは感じたのです。つづく3節にはこうあります。

たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。

 ダビデがこれまでイスラエルに敵対して来たペリシテ人との戦いの場面を思い返しているのかもしれません。そういう時にも、恐れないでいることができた。「それにも、私は動じない」とここで言い切っています。そのように言い切ることができる確かさを、ダビデは自分の信じる神から経験してきたのです。そういう、自らの神体験と言っていいと思いますけれども、神は信頼するに足る方であるという告白がここに現れています。

 その結果としてどうなるかが4節から6節までの言葉になって表れています。

私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日のかぎり、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いふける、そのために。

 もうここまでくると、晩年の自分の姿を思い描いているような言葉ですが、主の家、主の宮で主の麗しさを仰ぎ見ながら、思いふけりたい。そういう人生をおくりたいのだと言い表しています。
 この詩篇の前半部分には祈り手の、心からの神への信頼の姿が描きだされています。とても深い神への信頼とそれが人生の晩年にまで続く、幸いな神と共にある生活を求めているのです。

 私たちは、誰もがこの詩篇のような祈りを祈りながら生活していきたいと願うのだと思います。いつも神を私の光、私の救い、私の砦と言い表しながら、こういう神と共にいつまでも歩みたい。神の宮で、神に礼拝をささげながら、自分の人生を振り返り、ああ、あの時も、この時も、神の助けがあったなあと思いにふけられるような信仰の生涯を歩みたいと願うのです。

 ところが、何があったというのでしょうか。この6節と7節との間には、あまりにも深い神との隔ての壁のようなものが出来上がってしまっています。

「聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を」と7節の冒頭にあります。9節には「どうか、御顔を私に隠さないでください」とあります。先ほどまでの目の前に敵の陣営が張られても私は恐れないと言っていたのと、同じ人物とは思えないような言葉が続くのです。「怒って、押しのけないでください」「私を見放さないでください。見捨てないでください」この9節後半の部分は、絶望的な響きさえあります。祈りの声が神に届いていないように感じる。神の御顔がみえなくなってしまう。見捨てられてしまっている気分になる。最初に話した神学生もそのような気持ちを言い表したかったのだと思います。自分の理解を超えた厳しい出来事が身に降りかかって来るときに、神の姿を見失ってしまうのです。

 そういう時に、私たちはどうしたらいいのでしょうか。自暴自棄になってしまうのは簡単なことです。私たちに与えられているのは信仰です。神を信頼する心です。ぜひ、知っていただきたいのです。神が私たちに与えてくださった信仰は、なくなりません。私たちの側に、疑いが広がることがあると思います。神を信じる気持ちを、もうこれ以上持ち続けられないと思うこともあるかもしれません。しかし、神が私たちに与えてくださった信仰は、私たちの疑いや、迷いや、苦しみの大きさによって奪われてしまうことはないのです。
 今年の年間聖句を思い出してください。

わたしはあなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。

エゼキエル書36章26節です。
 神が私たちに、新しい心、神が心を与えてくださり、霊を与えて私たちを新しくしてくださるのです。それが、私たちに与えられている信仰です。

 ダビデはここでこう言い表しました。

私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。

この10節からダビデは深い信仰の言葉を語り出すのです。なによりもまず、父と母が、我が子を見捨てるということはまずありそうもないことです。親は子供のために大きな犠牲を払います。どんなことがあっても守りたいと思う。それが、愛です。けれども、その両親さえも諦めざるを得ないような、もう誰にもどうすることもできないような事態が起こらないとも限りません。けれども、ここでダビデは神に与えられた信仰によってこう確信するのです。もし、そんなことがあったとしても、「私の父と、私の母が、私を見捨てるときには、主が私を取り上げてくださる」と。これはもう信じるしかないことです。

 ダビデに、神はそういう信仰を与えておられるのです。そして、この信仰は私たちにも与えられています。この新しい心が、新しい霊と共に与えられているのです。そして、私の敵が沢山いる。もうどうにもなりませんと、神に訴えています。

 興味深いのは最後の言葉です。13節

ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。

これは、否定的な言葉で書かれているようにも読めますが、「もしも信じられなかったらどうなっていたか」ということです。つまり、主の慈しみを、恵みを、幸いを信じますと言っているのです。

 そのように信じるために、この神が沈黙しておられる状況の中で、ダビデはこう祈るのです。「待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」
 私が若い時によくうたったワーシップソングにこの14節の歌詞を歌ったものがありました。

待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。

何度も、何度も繰り返して歌いました。まるで、自分に言い聞かせるように歌い続けました。もう、この曲はそう歌うのだというかのように、この賛美を歌う時は、いつも何度も何度も繰り返して歌いました。私たちには時折、そういう事が必要です。

 私はそれを時々「体育会的信仰」という言葉で表現することがあります。先日、スポーツニュースで今年のドラフト選手が巨人の寮に入ったというニュースをしていました。その部屋が映し出されていましたが、部屋の中で素振りをするのでしょう。畳がボロボロになっていました。毎日毎日、プロの野球選手は何百回と素振りをするのだそうです。そのようにスポーツの選手が自分のからだに覚えさせるように同じトレーニングを繰り返します。いつでも、良いフォームの状態でスイングできるように体に覚えこませるためです。

 それと同じように、信仰の歌を何度も何度も自分に染み付くまで歌い続ける。私たちはすぐに、神への思いが100か0かになってしまうような、自分の都合で神に深い信仰心を抱いたり、別のときには全く神に対して不平しか出ないといった具合になるのも、神が私たちに与えてくださっている信仰がまだ身についていないからです。それで、スポーツ選手が良いスイングを身に着けるために同じことを何度もくりかえすように、私たちも自分に神への信頼がすっかり身に着くまで、同じ歌を繰り返して歌う。同じ聖書の言葉を何度も何度も繰り返して暗唱してしまう。そうやって、身に着く信仰ということもあると私は思うのです。神が見出せなくなっているなら、待ち望めばいい。雄々しく、心を強くして、主を待ち望む。ダビデはそうしたのです。たとえ、「父と母が私を見捨てても、神は私を取り上げてくださる」そのように、自分に信仰の言葉を言い聞かせていくのです。

 神はそのとき、私たちに与えてくださった新しい霊によって、神への信仰を確かなものとしてくださるのです。

お祈りをいたします。

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