2017 年 2 月 12 日

・説教 詩篇77篇「思い起こせ主の業を」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:09

 

2017.02.12

鴨下 直樹

 
 私たちの教会に「ぶどうの木」という俳句の会があります。この句会で以前、俳句には大きな俳句というものと、小さな俳句というものがあることを聞きました。五七五の短い言葉なのに、大きな俳句と小さな俳句というものに分類されるというのは、私にとってはとても興味深い話しでした。ところが、指導してくださっているMさんに聞いてみると、とてもよく分かるのです。俳句の内容が何を物語っているかといことで大きな俳句とか、小さな俳句という言い方になるというのです。

 この詩篇77篇は、そういう意味でいえば小さな詩篇です。偉大な神を高らかにほめたたえる詩篇というよりは、自己中心的な詩篇といってもいいかもしれません。大きな詩篇というよりは、普通の人の祈りなのです。もっと言うと、私たちが日常する祈りと似ているかもしれません。この詩篇の内容を全体的に見てみますと前半の部分は神に向かって祈りをささげます。ところが、祈りながら嘆きの言葉が繰り返されていくのです。

 1節と2節はこう始まります。

私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。私が神に向かって声をあげると、神は聞かれる。苦難の日に、私は神を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を差し伸ばしたが、私のたましいは慰めを拒んだ。

祈りのはじめは神に向かって祈り始めます。けれども、神の慰めを求めて祈ったけれども、神は答えてくださらないので慰めを求めることを諦めてしまいます。そして、3節にはこうあります。

私は神を思い起こして嘆き、思いを潜めて、私の霊は衰え果てる。

 ここに「思い起こす」という言葉があります。「思い出す」という意味の言葉です。何を思い出したのでしょうか。この祈り手は「思い起こす」と言いながら、自分の内面を見つめ始めていきます。そして嘆き始めるのです。つづく4節にはこうあります。

「あなたは私のまぶたを閉じさせない。私の心は乱れて、もの言うこともできない。」

 この祈り手は、あまりにも不安で、不安で眠れなくなっていると言うのです。「神は私を眠らせてくれない、もう疲れ果てて何も言うことができないほどだ」と言っているのです。そうやって、不安の中で神に祈りながら、この祈り手はさらに自分の内面へと向かっていきます。それが、「思い起こす」という言葉にあらわれています。5節。

私は、昔の日々、遠い昔の年々を思い返した。

こうやって祈り手はどんどん自分の内面を見つめつづけていくのです。

 私たちの日ごとの祈りの中で、私たちも何度も、何度もそういう祈りを繰り返すことがあると思います。主に向かって祈り始めたら、だんだん何を祈っていたのかよく分からなくなってしまって、気が付いたら自分のことばかり考えてしまうということがあると思います。立派な祈りをしたいと思いながら祈り始めたのに、気づくと心はどんどん内向きになっているのです。

 祈り手の言葉はこうつづいていきます。7節以下です。

「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。」
「もう決して愛してくださらないのだろうか。」
「主の恵みは、永久に絶たれたのだろうか。」
「神は、いつくしみを忘れたのだろうか。」
「もしや、怒ってあわれみを閉じてしまわれたのだろうか。」

7節から9節までで、この祈り手の思いはどんどんネガティブな思いにとらわれていっています。つむぎだされた言葉はどんどんと神への不信の言葉となっていきます。負の連鎖と言ってもいいかもしれません。一度、悪いことを思い出すと、それをきっかけにして、次から次へとネガティブな言葉が口をついて出てきてしまうのです。

 おそらく、この祈り手は目の前に受け入れがたい出来事が次々に起こったのでしょう。祈っても答えがない。自分の祈りが神に届いているとは思えない。そういう中で、神に対する不信感が募ってきたのです。祈っても、祈っても、自分の祈りが届かない。そうなると、そこで祈り手がつい考えてしまうのは、自分のみじめさです。自己卑下をしたくなってしまう。そして、同時に、神に対して不信感が出てくるのです。神に不平を言いたくなってしまう。神は私を愛してくださらない。神は私を永遠に忘れてしまっているのではないか。そんな心になってしまうことがあるのです。これを自己憐憫といいます。

 こういう自己卑下や自己憐憫というのは、自分で自分を悪く言いながら、自分を慰めるのです。私は神に捨てられてしまったのだから仕方がない、誰も私のことをかまってくれない。自分はかわいそうな人間なのだ。こうやって、自分で自分を慰めてしまって、どこにも出口がないことを、自分の思いの中で慰めてしまうのです。しかし、自己憐憫は罪です。自分で自分をみじめに思いながら自分を慰めるところに、本当の救いはありません。自己憐憫は、自分を憐れと思いながら自分で自分を慰めてしまう、安易な方法です。そして、実はどこかで誰かに振り向いてもらいたい、慰めてもらいたいという思いがそこから滲み出してしまうものです。しかし、主の御前にこの自己憐憫はまったく通用しないのです。

 この詩篇の祈り手はそのような自己憐憫の言葉を繰り返しながら、ついに一つの結論に達します。それがここではこういう言葉で表現されています。10節です。

そのとき私は言った。「私の弱いのはいと高き方の右の手が変わったことによる。」

この祈り手は畳みかけるように神に対する不信の言葉をならべたてて、ついにたどり着いた結論は「神が変わってしまったから、私は弱くなってしまったのだ」というものでした。これが自分を見つめて内面を見つめ続けた、ひとつの結論です。私が眠れないのは神のせいだ。私がこれほど切に神に祈り求めても祈りがきかれないのは、神が心を私に向けて下さらないからだ。神の右の手は、昔は私にも伸ばされていたけれども、今となっては神の右の手は私に差し伸べられることはなくなってしまったのだ。そのように結論付けたのです。

 加藤常昭先生が以前、「教会に生きる祈り」という祈りの本を出されました。この本は二部に分かれていて、一部は「礼拝の祈り」、第二部は「ひとりの祈り」となっています。この中に、もう一つの夜の祈りという祈りがあります。少し長いのですが、ここで紹介したいと思います。

また一日が終わろうとしています。夜が来たのです。主イエス・キリストの父なる神さま、私には夜がこわいのです。夜が来るたびに不安になります。眠れない夜を恐れています。一人ぼっちになる夜を恐れています。昼間の生活のようにごまかしのきかない夜を恐れています。
 夜はよもすがら泣き悲しんでも、朝の祈りと共に喜びが来ると詩篇の詩人は歌いました。そのような確信も、私にはありません。自分にもいつの日か、喜びの朝が明ける時が来るのであろうかと疑っています。苦しみの夜がそのまま明けてしまうという経験を、あまりにも多く繰り返してきたのです。誠実な努力もむなしく、愛の労苦も実らず、誰も真実の助けとなってくれてはいないではないかと思ってしまっています。夜になるとその思いはますます強くなるのです。
 試みに遭わせず悪より救い出してください。まるで神さまが生きておられないかのごとく思い込んでしまう、不信仰の心を、あなたが取り除いてください。私には、これを打ち払う力がなくなってしまったようです。そして、自分の心が、神さまに対しても、人々に対しても、石のように硬くなっていることが分かるのです。どうぞ、柔らかな心に変えてください。平安の夜を与えてください。主が夜を徹して祈られた時に知っておられたような、祈りの夜の平安を与えてください。主の祈りを呟きながら、眠ることができるような、信頼の心を与えてください。

 祈りはもう少しありますが途中まで紹介しました。この詩篇に記されているような祈りと同じ心がこの加藤先生の祈りの中にも記されていると言えると思います。夜、眠ることができない不安。そんな不安が自分の闇をさらに深いものとして、神を見出すことができずに、心が石のように硬くなってしまう。心が動かなくなってしまうのです。そうして、祈りをやめてしまうということもあるいはあるのかもしれません。ここに、私たちの闇があると言ってもいいかもしれません。しかし、加藤先生はこの祈りの中で、そうやって自分の心が石のように硬くなってしまう時、その心が柔らかくなる方法があることを知っています。それが、主の祈りを呟くことだと、そうしたら安心して眠ることができるようになる、主を信頼することができるようになると祈っているのです。これは、祈りの一つの大きなヒントだと言っていいと思います。

 この祈り手もさんざん神に対して文句の言葉を並べ立てて、自己憐憫に浸ろうとしていたのですが、後半から急に祈りが変わります。11節です。

私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。

とここにはあります。前半部分でも「思い起こす」という言葉は鍵の言葉として記されていましたが、祈り手が前半部分で思い起こしたのは、自分自身がどれほど可哀想かということでした。しかし、ここに来て、思い起こす内容をもう一度考え直しているのです。そして、何を思い起こしたのかというと、それは「主の奇しいわざ」。主が何をしてくださったのかをもう一度思い起こしてみようと考えたのです。12節にはこう続きます。

私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。

この「静かに考えよう」というのは、3節に出て来る「思いを潜める」と訳した言葉と同じ言葉で、あれこれ考えてみるという意味の言葉です。主のしてくださった出来事をもう一度考えてみるというのです。

 あれこれ考えてみる、主のしてくださったことはどんなことだったのか。この主がなされた事実に目を向けてみると見えてくることがあるというわけです。それが13節以下の言葉です。冒頭にでてくるのは「神よ。あなたの道は聖です」という言葉です。神の道は他にはないと言えるような明確な道であったと、まず宣言しています。それで、神が備えられた道はどんなであったのかと言い表しているわけです。

 それで、ここで記されているのは、「ヤコブとヨセフの子らを贖われました。」とあるように、出エジプトの出来事を思い起こしているのです。しかも、この祈り手の想像力は非常に豊かで、何を思い描いたのかというと、エジプト軍から逃げるイスラエルの民の前に紅海の海が立ちはだかったときに、モーセが杖を伸ばすと水が真っ二つに割れて、民がその海の中を歩いて渡ったあの時の出来事をまるで自分が見たかのような豊かな言葉で再現しているわけです。あの時、海の真ん中にできた道、これこそ、神の聖なる道であったと。この時の道によって、確かに我々は救い出されたのだ。そう言って祈りが終わっているのです。

 ひょっとすると、そこまで祈っているうちに祈り手は安心して眠ってしまったのかもしれません。そこまで考えることができればもう十分とでもいうかのように、唐突に祈りが終わってしまっているのです。ちゃんとしたまとめの言葉もなければ、祈りが聴かれなくて、神が変わってしまったのだと先ほど宣言した言葉を撤回してもいません。けれども、祈り手は明らかに、自分を見つめて自己憐憫に浸っていた思いからは、もうここですでに解放されているわけです。自己憐憫の思いから自由になる祈り、それはまさに主の御業を思い起こすということにつきると思います。自分を見つめてもなかなか解決はでてきません。けれども、主の御業を、主がなさった出来事を見つめなおす時に、私たちは主がどのようなお方であるかを改めて受け止めなおすことができるのです。加藤先生の祈りの言葉で言えば、祈りで自由になれない時は、主の祈りを祈ればよいということになるかもしれません。

 大切なことは、主を見上げることです。自分の落ち込んだ穴ぼこの中で神を見出そうとしてもそこに神はおられません。神は天におられるのです。だから、私たちは心を高く上げて神がおられる高みへと昇る必要があるのです。そして、その神の高みに立つならば、周りを見通すことになるのです。

 私がドイツにいた時にたびだび説教で聞いて印象に残っている言葉があります。それは「ホリゾント」という言葉です。日本語で「地平線」を意味する言葉ですが、日本の教会ではほとんど説教で聞いたことがありません。ひょっとすると日本ではあまり地平線が見えないからかもしれません。天におられる神を思う、そのように神が高い所におられることを思い起こすと、それは高い山から先を見通すことができるように、神のまなざしを知ることができるようになります。平地にいては神の道は見えなくても、少し高い所に立つならば、その道を見出すことができるのです。

 神よ、あなたの道は聖です。この祈り手は神を思い起こすことを通して、神の高みに気づき、そこから神の道が先に続いていることを見出します。神の道は聖い。祈りながらこう言う言葉を発見するのです。神の道は聖い。それは、かつてこんなことが起こったではないか。だとしたら、これから自分の進むべき道も、この神の備えられた道を歩んでいくことになるはずだ。そう信じることができるようになるのです。

 私たちもそのように、祈りを通して、神と向き合い、そして、神と出会い、この神と共に歩む道を見出していくことができるのです。それが、私たちの祈りの生活となるならば、私たちは、この神によって確かな道を歩むことになるのです。

お祈りをいたします。

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