2017 年 2 月 19 日

・説教 詩篇102篇「悩める者の祈り」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 19:03

 

2017.02.19

鴨下 直樹

 
 以前、車で根尾のキャンプ場まで行った時のことです。ふと、いつもと違う道を走ったら近道ができるのではないかと思いつきました。今はカーナビを見ればそんなことは起こりませんが、このまままっすぐ行けば近道なのではないかという勘がときどき働きます。

 みなさんも、そういった経験があるのではないでしょうか。私はその道をどんどん前に前に進んで行ったのですが、どんどん道が狭くなり、林の中に入りこんでしまって、結局行き止まりになってしまいました。途中まではわくわくしながら、新しい発見かと期待をするのですが、結果は散々です。あまりにも道が狭かったために、何百メートルも林の中をバックしなければなりませんでした。途中で間違ったと気づいたら、引き返してもとの道に戻るべきですが、そういう時は、行けるのではないかという思い込みが、健全な判断を鈍らせてしまうのです。

 今日の詩篇102篇は七つの悔い改めの詩篇といわれる詩篇の一つです。けれども、さきほどお聞きになられて分かるように、この詩篇には悔い改めの言葉はありません。「悔い改め」というのは、間違って進んでいた方向を改めて正しい方向に進みだすということです。そういう意味では、この詩篇は途中から正しい方向に向かい始めていますから、確かに悔い改めの詩篇であるということが言えるのだと思います。

 この詩篇も先週の詩篇77篇と構造はとてもよく似ています。内容も似ていると言ってもいいと思います。1節から11節までの前半部分は、祈り手が深い悩みのなかで嘆きの言葉を発する嘆きの詩篇です。後半の12節から最後までの部分は一転して、神への賛美となっています。

 表題はこのように書かれています。

悩む者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの。

この表題を見るだけでも、この祈り手が深い悲しみの中におかれていることが分かります。詩人は神に向かって「私の叫びが、あなたに届きますように」と言って祈り始めます。2節にこうあります。

私が苦しんでいるときに、御顔を私に隠さないでください。私に耳を傾けてください。私が呼ぶときに、早く私に答えてください。

 私が時々口にしている言葉に「電子レンジの祈り」というのがあります。今は便利な時代になりましたので、コンビニなどで買い求めた弁当なども電子レンジで数十秒「チン」と温めるだけで、すぐに温かい弁当を口にすることができます。最近は味もなかなかなのだそうです。ファーストフードの店も増えて待たずにすぐにおいしいものが食べられることが当たり前になっています。

 自分が手に入れたいと思うものは待たずにすぐに手に入れられる。本でも、食材でも、今は自分でインターネットで注文して、翌日には家に届くのが当たり前です。そうすると、ついつい神さまにも同じように求めてしまいます。なにしろ、神さまなのだから何でもできるはずだと思うからです。神にお祈りしたらすぐに答えがあって当たり前。私たちはどんどんせっかちになって、ますます自分本位になってしまっています。

私が呼ぶときに、早く私に答えてください。

 この詩篇がつくられたのはおそらく今から2500年ほど昔のことです。もちろん電子レンジもファーストフードもない時代ですが、そんなころから人は神に向かってずいぶん自分勝手な祈りを繰り返していたことになります。今、困っている、苦しんでいる。だから今応えて欲しい。今、答えが欲しい。そうするのが神であれば当たり前であるかのように考えてしまう、そんな思いが人にはあるのです。

 それは、言ってみれば自分が道を間違えてどんどん突き進んでしまったのに、行き止まりになって、「神さま、今何とかしてください。私には時間がないのです」と言っているようなものです。

 この詩篇の祈りはまだ始まったばかりです。ここからまだしばらくこの祈り手の訴えがつづきます。いや、いよいよ本題に入ると言ってもいいかもしれません。
「私の骨は炉のように燃えていますから」3節。
「私の心は、青菜のように打たれ、しおれ、」4節。
「私の嘆く声で、私の骨と皮はくっついてしまいました」5節。
「私は荒野のペリカンのようになり、廃墟のふくろうのようになっています」6節
「私はやせ衰えて、屋根の上のひとりぼっちの鳥のようになりました」7節。

 「私は」「私は」「私は」...こんなにみじめで可哀想なのです。そういう訴えのことばがひたすら続きます。しかも、非常に詩的な表現で自分の苦しさをいろんなものに例えて表現しています。「ペリカン」と「ふくろう」というのは少し分かりにくいのですが、汚れた鳥、孤独な鳥で、自分がどれほど孤独であるかという表現です。「屋根の上のひとりぼっちの鳥」というのも、非常にイメージ豊かな言葉です。自分が今どれほど孤独を感じているか、神に見捨てられたと感じているかを切々と訴えているのです。私は、これほどまでに、こんなにも可哀想なのです。そういう悲痛な訴えがにじみ出ています。

 そして、まだまだこんなのは序の口と言わんばかりに、自己憐憫の言葉が続けられていくのです。8節

私の敵は一日中私をそしり、私をあざける者は私を名ざして毒づきます。

9節

これはみな、私がパンを食べるように灰を食べ、私の飲み物に涙を混ぜ合わせたからです。

 みんなが私を馬鹿にして、私は悲しみの代名詞である「灰」が食べ物、飲み物は「涙」と訴えて、やがて一つの結論にたどり着きます。
10節

それはあなたの憤りと怒りとのゆえに、あなたが私を持ち上げ、投げ出されたからです。

私がこれほどまでに可哀想なのには理由がある。それは「あなたのせいです」、「あなたが憤り、怒って私を投げ出したからです」。

 この詩篇を見ていると、道からはずれて迷い込んでしまった者が途方に暮れ、そのいらだちを神に訴えている姿を客観的に私たちに描いて見せてくれている気がします。それは、自分のことしか見えていない姿。自分のことしか見えていない時、人はどんどんみじめになっていくのだということを、この詩篇は気付かせてくれているのです。

 そして、この祈り手は見る方向を改めます。自分を見つめ続けて内側に向いたこの人の目は、神を見上げようとします。そして、気づくのです。見るべきは神からのまなざしであると。12節以降で、ようやくこの祈り手のいる世界が見えてきます。「シオン」という言葉が何度も何度も繰り返されます。そう、神がシオンを、彼らイスラエルの人々の住んでいる都をどのように見ておられるのかが見えて来ます。16節17節にこうあります。

なぜなら、主はシオンを建て、その栄光のうちに現れ、窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。

 ここまで読むとはっきりしてくるのは、バビロン捕囚が終わって、イスラエルの民がエルサレム、かつてシオンと呼ばれたこの都に再び帰って来ることができるようにされたのだということが見えてきます。

 この言葉は新共同訳聖書の言葉がとても綺麗な翻訳なのでそちらも紹介したいと思います。

主はすべてを喪失した者の祈りを顧み、その祈りを侮られませんでした。

 そうです。ここに来て、祈り手は気付きます。かつて、道を踏み外し、迷い込んで、途方に暮れていた時に、自分勝手に祈ったあのような祈りであっても、神はその祈りを侮られはしなかった。ないがしろにはされなかったのだと。

 しかし、そのように気付くのには少し時間がかかります。神への祈りは電子レンジのようにはいかないのです。けれども、そういうわがままとしか言えないような自分本位な祈りであったとしても、神はその祈りをないがしろにはなさらなかった。この祈り手はそのように言うことができるように今や、なっているのです。
 次の節の言葉も、新共同訳で紹介したいと思います。

後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。
「主を賛美するために民は創造された」

 新改訳はこうです。

次のことが、後の時代のために書きしるされ、新しく造られる民が、主を賛美しますように。

18節です。
 わたしはこの新共同訳の「主を賛美するために民は創造された」という言葉にとても心惹かれます。私たちは、不平や不満を訴えるために神に造られたわけではありませんでした。

神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

と創世記の1章31節に書かれているとおりです。神はこの天地を創造されたとき、そこには賛美しかありませんでした。神の栄光が満ち溢れていたからです。けれども、人が罪を犯し、エデンの園を追われると、人の心は神を見上げることを忘れ、自分を見つめるようになり、嘆きの言葉が積みあげられるようなってしまいました。

 しかし、この詩篇の作者は気付くのです。「主を賛美するために民は創造された」。このことを後の世代のために書き記しておこうと。私たちはこのことを忘れてしまうのです。神がどれほど素晴らしいお方で、神の御業は美しいということを。

主はその聖なるいと高き所から見おろし、天から地の上に目を注がれました。

と19節にあります。神は高い所におられ、そこからすべてを見ていてくださいます。私たちが道を踏み外していることも、迷い込んでしまっていることも、今は自分のことしか見えなくなってしまっていることも、神はすべてご存知です。そして、この神は少し時間をかけて、私たちがもう一度神の方を仰ぎ見て、神の視点に立ち戻ることを待っていてくださるのです。

 祈り手は気付きます。シオンがこの地にあって確かなものとなることをだれよりも願っておられたのは主ご自身ではなかったかと。私たちは、この世にあって限りある時間の中で生きているけれども、神は変わることのないお方であったと。それが27節にしるされています。

あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。

 私たちの主は、永遠の神です。私たちの主は高い所におられるお方。私たちの主は私たちが主をほめたたえることを期待しておられるお方です。

 私たちは壁にぶち当たるとき、出口を見出せなくなっている時、私たちはこの主をもう一度発見しなければなりません。間違った道を進んできたのであれば、そこから引き返すことも必要です。立ち止まり、うずくまっているのであれば、立ち上がって、主を見上げる必要があります。自分のことしか考えられなくなっている時は、主を思い起こす必要があります。そうやって、私たちは主の道をもう一度歩み始めることができるようになるのです。

 今日は、このあと、教会総会を行います。そこで私たちが問うことも一つです。主のみこころがどこにあるのか。主が望んでおられることは何かということ。今年、一年、もう一度改めて主の道の歩みを整えるためのよい総会の時になるようにと覚えて祈ります。

お祈りをいたします。

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