2017 年 3 月 5 日

・説教 詩篇91篇「全能者の陰に宿る人」

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2017.03.05

鴨下 直樹

 
 先週の水曜日から教会の暦でレント、受難節を迎えました。主イエスが十字架につけられる40日前からの期間を、受難節と言って、主イエスの苦しみを覚えながら歩むという習慣があります。もちろん、私たちには主イエスが受けられた十字架の苦しみを理解するということはとても難しいことです。主イエスが受けられた苦しみは、私たちの日常の歩みの中で受ける困難さや、苦しみとは、まったく種類の異なるものといっていいと思います。主イエスの受けられた苦しみは、自分がつらい、苦しいというのではなくて、人の苦しみを受け取るという苦しみでした。主イエスは人の罪のために、苦しめられ、十字架につけられたのです。こうして主イエスの受難は、主イエスの愛のしるしとなりました。

 この受難節に、私たちは詩篇のみ言葉からともに聞きたいと願っています。この詩篇91篇は、個人の祈りという性質のものではありません。むしろ、語りかけの詩篇です。この中に、何度も「あなた」という呼びかけの言葉があります。一般的には詩篇で「あなた」と語りかける場合は、主ご自身に対する語りかけですが、この詩篇は、祈りの聞き手である読者に対して語りかけている詩篇です。

 先週の祈祷会の時に、この詩篇をみなさんと一緒に読んだのですが、いつもは詩篇を一緒に学ぶためにプリントを用意するのですが、先週はできませんでした。ですから、まさに、何の備えもなしに、みなさんと共にこの詩篇を味わいました。その時に、マレーネ先生が、この1節がドイツ語の翻訳と日本語訳とではずいぶん異なっているということに気づかせてくれました。

 新改訳聖書で1節はこうなっています。

いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。

とても、綺麗な言葉です。特に翻訳に問題があるわけではないのですが、ドイツ語や英語の翻訳はこの1節がつづく2節につながるように訳されているのです。そういう人は、自分に語りかける、「わが避け所、わがとりで、私の信頼する神」と。となっていて、3節からでてくる「あなた」は、誰のことを指しているかというと、1節のように生きている人、つまり、全能者の陰に宿る人は、こうなるのだという文章になっているというのです。

 実は、このマレーネ先生の指摘はこの詩篇を理解するうえでとても大切なことです。この詩篇の内容は、「あなたは守られるのだ」というのが、全体の内容です。けれども、この「あなた」がどういう人のことか分からないと、誰が誰に語りかけているのかさっぱりわからない文章になってしまうのです。

 全能者のところに、身を避ける人は、この全能の神に守られるのだというのが、この詩篇の大きなテーマです。これは、まさに、受難節のはじめに聴くのに良い詩篇だと思います。どんなに困難なことが身に降りかかろうとも、全能者のもとに身を隠す人は、この全能者によって守られるというのです。

 私事ですけれども、先週の金曜日のことですが、名古屋の神学塾で入塾試験がありました。私は教務主任という立場ですので、その試験を準備する責任があります。ところが、名古屋の栄の大通りを車で走っている時に、スピードはほとんど出ていなかったのですが、横から一台の車が突っ込んで来まして、小さな衝突事故が起こりました。幸いに、お互いケガもなく、車が少し傷ついただけで済んだのです。

 みなさんもこういう経験をすることがあると思いますけれども、名古屋の真ん中で何台も車が走っている中で、ちょうどドンピシャで、自分の車に突っ込んで来る車がある。一秒でもずれていたら、私は何の関係もなくそこを通過することができたわけです。もちろん、それが神様の御心なのだというような話をしたいのではないのです。私たちは普段、私たちの気が付かない間に、どれほど守られているのだろうかということを、改めて気づかされます。一秒一秒、神の守りの中にあるのだということを、改めて気づかされるのです。

 4節にこうあります。

主はご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。

 いつも、礼拝の説教を、同時に手話で通訳をしてくださっている方があります。私は詩篇の説教の時に、時々、ちらっとどんな手話で表すのかなと思ってみることがあります。こういう箇所はとても面白いのです。翼とか、大盾とか、砦というような手話をどうやるのか、私は知らないのですが、見ていると、イメージがよく伝わってきます。この手話を見ていると、これまでただの言葉の説明が、急に具体的なイメージを伴う言葉になるのです。神の守りは、鳥の翼のようにその下に匿ってくださる。あるいは、大盾が自分の前に備えられているように守られているとか、それは砦のようなものだという時に、自分がどんな状況におかれているのかを少し想像してみながら、そういう状況でも神が守ってくださるということを身近にイメージすることができます。

 この詩篇にはそういう様々なイメージが記されています。5節の「夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない」というのもそうです。6節の「暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも」もそうでしょう。夜眠れない怖さ。疫病の恐怖。そういうものからも、全能の神はお守りくださるというのです。この詩篇はさまざまな困難のイメージを描きながらも、あなたが、全能の神の陰に身をゆだねるならば、守られるのだと語り続けているのです。

 さて、そうすると、もう一度ここで、「神の全能」ということについて、考えてみたいとおもいます。この「全能」と言う言葉はヘブル語で「シャダーイ」と言います。実は、この「シャダーイ」という言葉はどういう意味の言葉なのか、今となっては意味が分かりません。ただ、いつも出て来ますけれども、今から二千数百年前に、すでにこのヘブル語の翻訳が行われていまして、これが70人訳聖書というのですが、この70人訳聖書ではこの「シャダーイ」という言葉を「全能」と訳しています。それで、きっと当時はそういう意味だったのだろうと、ある程度想像できるのですが、この70人訳聖書の翻訳を参考にして、今も「全能」と訳しているわけです。ですが、その翻訳が正しいのかどうかは今となっては誰も分かりません。しかも、この詩篇91篇の場合、70人訳聖書は「天の神」と訳しています。

 私たちは「全能」という言葉を聞くと、「どんなことでもできる」とイメージします。そうすると、それぞれに自分勝手に、なんでもできる神さまを連想して、それができないと分かると全能の神など存在しないという結論を簡単に出そうとします。屁理屈といってもいいものですが、私も子どものころから色々考えながら、牧師をしていた両親に難題をふっかけたことがあります。けれども、自分が牧師になりますと、今度は難題をふっかけられる側になります。

 この全能の神と書かれている、私たちの主は、私たちを救うために、まさに、ご自分のおできになる最大限の力をもって、私たちを救ってくださるお方です。私たちはそのことを知っていたら良いのだと思います。この詩篇91篇に記されているように、さまざまな困難が私たちを襲って来ても、主は私たちを守ってくださる。この神のご性質を、全能と呼んでいるのです。

 さて、この詩篇には有名な言葉が記されています。11節と12節です。

まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が、石に打ち当たることのないようにする。

 この言葉は、主イエスが荒野で四十日四十夜断食をされたとき、悪魔の試みを受けられた出来事が、福音書のはじめに書かれています。マタイの福音書の4章では、空腹を覚えておられた主イエスに、悪魔は石をパンに変えるように言います。しかし、主はこの時、「人はパンだけでいきるのではないと書いてある」と、聖書を取り出して、悪魔の誘惑を退けます。すると、今度は、主イエスを神殿の頂に立たせて、ここから下に身を投げてみなさいと語ります。その時に、悪魔が引用したのが、この詩篇91篇のこの箇所です。聖書に書いてあることが大事というのであれば、その聖書には、「御使いに命じてあなたを守る」と書かれていて、「石に打ち当たることのないようにする」とも書かれている。だから飛び降りても大丈夫だろうと主イエスを試みたのです。

 この悪魔が主イエスを試みた方法は、私たちも同じように主イエスを試みようとするのではないかということに気づかせてくれます。この詩篇に記されている約束の言葉は、捉えようによっては、ずいぶん私たちに都合の良い約束です。ここで悪魔が主イエスに語っているのは、聖書に約束されているのだから、その約束を自分のために利用すればよいというものです。それは、私たちもそのままそのように理解するのではないでしょうか。

 聖書にこう約束されているのだから、この約束は自分に果たされるべきだと。そして、聖書の約束を逆手にとって、神の守りがあるから自分は何でもやっていいというように理解してもいいのでしょうか。確かに、聖書の約束は私たちを励まして、希望を与えてくれます。どんな困難なことがあっても主は守ってくださるというのは、これ以上ないほどの主からの約束だと言っていいと思います。戦争からも守られ、疫病からも守られ、石にあたることもなく、ライオンやコブラからも守られる。ここまでくるともはや敵なし、無敵の気分です。

 主イエスはこの悪魔の試みの時に、一度も神の約束を自分のために用いられませんでした。ここに、大きな答えがあるのだと私は思っています。神の約束は本当に私たちに対する愛に満ちています。けれども、この神の私たちに注がれた愛は、私たちがそれを自分の幸せのためや、自己目的のために、示されているのではありません。この神からの愛は、私たちを通して、神に返されるのです。

 主イエスの生涯がまさにそうでした。神の愛を主イエスは御自分のためには利用しようとはしないで、ただ、他の人に愛を示すことだけをなさいました。そして、その結果、主イエスは十字架につけられてしまいます。けれども、このことが、まさに、神の愛がこの世界に示されることになったのでした。このように、神からの約束は、それを受け取った者を通して、神の栄光を示すものへと変えられていきます。こうして、神は私たちを通して、神の福音のすばらしさを世界に現わしてくださるのです。

 最後にひとつの話をしたいと思います。この11節には

まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。

と書かれています。

 聖書に「御使い」と書かれていると、私たちはすぐに「天使」を連想します。その場合の天使というのは、頭に輪がついていて、背中に羽がはえているあのエンジェルのことです。

 私たち、同盟福音キリスト教会には「信仰基準」という、信仰告白があります。私たちの信仰のルーツは「同盟」という名前がついていることから分かるように、ドイツの国が海外に宣教する時に、それぞれ違う教派が一緒に協力するために「同盟」して、海外宣教に取り組んだ流れにあります。この「同盟」を英語で「アライアンス」と言います。ですから、私たちの教団はドイツ・アライアンス・ミッションというグループに所属している宣教師たちが送られてきて生まれた教会です。このもともと違う教派の教会が、一緒に協力するためには、それぞれの教派の違いを尊重し合わないと何もはじめられませんから、ごく基礎的な信仰の部分で一致できるところでやっていきましょうということで、これを「簡易信条主義」といいますが、簡単に言うと、「使徒信条」は共通の信仰理解なので、この使徒信条を共通の信仰理解として、教会で伝道していきましょうということで、生まれた教会です。

 ですから、私たち同盟福音キリスト教会の信仰基準は使徒信条をもって、その信仰告白とするということが書かれています。そして、その基本的な信仰理解を自分たちの言葉で表現したものが10条からなる「信仰基準」です。これは、本当に、ごく基本的なことしか書かれていないのですが、一つだけ特徴的な文章があります。それが、第9条です。ここにはこう書かれています。「天使は主とキリスト者に仕える霊的存在である。一方サタンと悪霊はキリストとその福音にそむかせ、神から栄光を奪おうとする霊的存在である」。

 日本には色々な教派の教会がありますが、その信仰告白の中に「天使と悪魔」について述べている教会はほとんどありません。なぜ、この9条が加えられたのか、はっきりした経緯は知りません。昔、アメリカの偉大な伝道者であったビリーグラハムが、「天使」という本を書きました。おそらく、その本の影響で天使についてきちんと書いておいた方がいいと思ったのかもしれません。

 内容は、特に何か特別なことが書かれているわけではありませんが、天使と悪魔という霊的な存在があるということを信じると書かれていたのは、少し驚きです。というのは、最近の見解は、天使と悪魔というのは、一つの信仰上の表現であって、そういう霊的な存在があるとか、ないとかということを議論するような問題だと、あまり考えられていないのです。

 ただ、私は人を神から離れさせようとする悪魔的な働きは今でもあると感じています。また、エンジェルのようなイメージが正しいかどうかは別として、神の不思議な守りというのは確かにあると信じています。そして、私たち同盟福音にはこのことを示す一つのエピソードがあります。

 同盟福音の最初の宣教師として日本に来日されたマリア・ハーデンベルグという女性の宣教師がおりました。マリア先生ははじめ、中国の宣教師でしたが、中国の共産主義があまりにも強くなって、キリスト教の宣教師はある時からみんな中国を追われることになります。ところが、マリア先生はせっかく漢字を覚えたので、漢字の使える国で伝道したいと考えて、日本に宣教師としてくることになったのです。そして、私の父は、このマリア先生から洗礼を受けます。私は子供の頃に父から、このマリア先生の話を時々聞かされました。

 そのエピソードの一つが、マリア先生の中国でのある体験談でした。実は、今から10年前、私たちがまだドイツにおりました時に、奉仕していた教会の子ども集会で紙芝居をやるからと、スタッフの方が呼んでくれました。この話は、なんと私が子どものころ聞かされたマリア先生の物語でした。今から80年ほど前の話でしょうか。

 マリア先生はあるとき、中国の山の奥地で伝道しようと計画して、一人で山奥に向かいました。ところが、山に向かう途中、山賊に襲われます。何人かに取り囲まれて、山賊はマリア先生の荷物を取ろうとします。けれども、マリア先生は「ここには薬や、食べ物が入っています。これは、山奥で暮らす人たちを助けるためのものなので、あなたたちにお渡しすることはできません」と断ります。そのために、山賊たちが一斉にマリア先生に襲いかかろうとしました。マリア先生は、もうだめかと思いながら「神さま」と祈ると、山賊たちは顔色を変えて、急に逃げ出してしまったというのです。

 それで、何とか、無事であったマリア先生は、山奥で伝道します。すると、その時の伝道で救われたひとりの男の人が、マリア先生に質問したのだそうです。「私は、実はマリア先生がここに来る途中に先生を襲った山賊の一人です。一つ質問があるのですが、私たちが先生を襲おうとした時に、先生の後ろに抜き身の剣を持った屈強な戦士が二人立っていたのですが、あの人はどこにいったのですか」ということでした。マリア先生はそんな人は知らないと答えたのですが、きっと天使が私をまもってくれたのかもしれませんねと言われたのです。

 この話はドイツのアライアンス・ミッションの宣教報告で取り上げられて、その話を誰かが紙芝居にしたのでした。おそらく、日本でも聞いたことのある人はあまり多くはないと思いますが、ドイツではこうして、子どもたちに紙芝居でマリア先生の証しが今でも聞かされているのをとても嬉しく思いました。

 マリア先生は自分でこの「天使」を見たわけではありませんが、この元山賊の人の話しでは、何者かによってマリア先生が守られたのは事実です。そして、この先生によって、日本でも福音が伝え続けられて、今の私たちの教会があるのです。私は小さい時から、このような宣教師たちの話を何度も聞いてきました。どの宣教師たちも顔を生き生きさせながら、昔の日本での伝道の話しをしてくれます。私たちの教会も、神の不思議なまもりによって今もここで伝道されているのだと思うと、不思議な気持ちになります。

 私たちの主は、主の福音がこの地に届けられるために、時々不思議なことをなさいます。それは、確かに、神の霊的な働きとしか言えないものが幾つもあります。この神の不思議な御業は、いつも、神ご自身の栄光を表すためものです。

 私たちはこのような、不思議な主、全能の神の御許に生きることがゆるされているのです。そして、この主は、私たちの理解を超えたことをしてくださりながら、神の栄光を表してくださるのです。

お祈りをいたします。

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