2009 年 9 月 6 日

・奨励 「聖書のたとえ話と日常生活」 ルカ15章4節ー32節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 15:32

本日は、芥見キリスト教会員 赤塚尚武兄と山田健兄が奨励をして下さいました。

 

赤塚尚武

 聖書の中にいくつのたとえ話が出てくるでしょうか? 

 それを幾人の画家がいくつの作品に描き、この世に残しているのでしょうか? 

 私が最初に聖書の中のたとえ話を絵画作品で知ったのはレンブラントの「放蕩息子」です。最初は画集で見ました。しかし、その後、私は二度もその作品が常設されているサンクト・ペテルスブルクにあるエルミタージュ美術館で、それを鑑賞する機会に恵まれました。

 それは毎年4月にサンクト・ペテルスブルクにある露日友好協会主催「日本の春」が開催されており、その行事に2001年と2005年に二度招待を受けて合唱団を連れて出かけました。その時にエルミタージュ美術館へ招待されたのです。

 この本はその時に、記念品として協会長のグレゴリー教授から貰った画集です。彼は大の親日家で退職後、京都の鞍馬に、それも竹やぶのあるところに住みたいと語っていました。

 これがそのレンブラントの名作「放蕩息子」です。

 

 さて、ルカ15章4節から32節までに三つの有名なたとえ話がでてきます。

 初めの二つのたとえ話は取税人や罪人とイエス様が交わりをされることに対してパリサイ人や律法学者が侮辱的な言葉を浴びせることに対する主の答えだと思います。迷った一匹の羊と銀貨のたとえは神の捜し求める愛の姿を表しています。

 第三のたとえ話は神の赦しと愛を表し、父によってのみ現わされる深くて温かい恩恵を描かれ、独特な美しさに輝いています。そこには「喜び」が基調となっています。

本日は時間の都合もありますので、三つの例え話の内、最初と最後について、語ってみたいと思っています。

 

 この最初は子ひつじのたとえ話です。

 ここではイエスの基本姿勢、つまり、「小さな者たち」「弱い者たち」「人生に過ちを犯した者」への配慮が書かれています。簡単に多数決で物事を決めてしまう現代社会は、ともすると個人への尊重が失われてしまう傾向が見られます。そして、小さい者、弱い者の存在がないがしろにされ、無視されてしまう傾向が強くなっています。こうした中で、今の世の繁栄の影には、無視され、打ち捨てられた多くの、個人・集団を問わず弱者がいることを忘れてはならないと思います。最近、現代社会を現わす言葉として「格差社会」と言われています。この傾向が最近では経済を中心とした社会生活だけでなく、教育現場にも見られるようになってきているのです。主イエス・キリストはこの「格差社会」を嫌われる方です。片隅で迷い悩んでいる者、小さくて弱い者一人一人に心を留めてくださるのです。つまり、神は人を十把一からげとしては絶対に扱われないお方です。だから、私たちはもっと神によりすがる姿勢をもつべきだと思います。

 

 聖書で「ひつじ」は大人しく、素直で、従順さを現わすものとして書かれています。この背後にはおろかで、弱く、迷いやすい者。即ち、我々人間を現わす言葉として用いられていることを忘れてはなりません。 

 当時、ユダヤ人社会では羊は財産でした。100匹も羊を飼っている人は裕福な金持ちだったでしょう。しかし、一匹でも失うことは大変なことでしたので、イエス様はこのたとえ話をされたのです。この一匹、一人は100匹、100人の中でどうでもいい一匹、一人ではないのです。かけがえのない一匹、一人なのです。

 羊は群れをなしてこそ生きる動物なのです。鋭い牙も爪も力もありません。性格は大人しい動物です。迷い出たらとても一匹では生きていけないのです。その一匹を必死に探し出し、喜び、羊を担いで帰って来て、喜びの声を上げたのです。

 

   (教会の受付横の木彫りイエス像を示す。)

 

 これは教会の受付横にあります。羊をこのようにして担がれ、群れに戻そうとしておられる主イエスの姿なのです。

 また、ここでの99匹を当時イエス迫害の急先鋒であった取税人・パリサイ人・律法学者・軽薄な一般の人々とし、この1匹は主を信じていた僅かな人とすれば、主は弱く、迷っている人を見つけるまで徹底的にお捜しになるのです。

 ここで忘れてならないのがマタイ18章11節です。ここは「人の子、つまり、イエス・キリストは、失われている者を救うために来たのです。」とか、「人の子は滅んでいる者を救うために来たのです。」と書かれています。この部分は古い写本には書かれていないので、括弧付きの御言葉となっています。しかし、私は大切な御言葉であると思っています。

 

 次ぎは先ほどお見せしたレンブラントの「放蕩息子」の話です。この話は「福音中の福音」とか、「世界の短編物語中の最高傑作」「福音の中に輝く一粒の真珠」と言われています。

 一人の息子は父親がまだ生きているのに、財産を請求し、手に入れたのです。当時でも今でも父親が生きているのに、財産分与を子どもの方から請求するとは非常識なことです。しかし、父は次男に請求されるままにかなりの財産を分与したのです。

 当時のユダヤ人たちはパレスチナ本土の在住人口よりも数倍のユダヤ人たちが「離散の民・ディアスポラ」としてローマ帝国領土を中心として各地に散っていたので、彼もそうした遠くの地にいたのでしょう。やがて、遊興三昧の結果、財産を使い果たし、生活はどん底にまで落ちぶれたのです。当時のユダヤ人にとって最も忌まわしい職業とされていたブタの世話をしながら、空腹には打ち勝つことができなくて、ブタの餌まで食べたという常識では考えられない惨めな生活をしていましたが、とうとうそれに耐え切れない生活となり、家に戻る決心をしたのです。帰宅の道のりは厳しく、重いものであったことが想像されます。それは彼の履物から伺い知ることができます。

 ここに描かれている父親は当時の服装からして、ただ財産があるというだけでなく、社会的地位の高い人であったということが想像されます。ここには何日も待ち続ける父親の姿があります。いつまでも悔い改めて現れる息子を待つ父親の姿。これは私たちの主の姿そのものです。父親の方から息子を見つけて、迎えに走り寄ったのです。迎えた父親はどうしたのでしょうか。主は父親を通して、戻れる場所、落ちぶれた息子の居場所を用意していてくださっていたのです。息子は父親の足元にすがりつきました。履物の一方は脱げ、一方は裏が破れ、足の裏には血がにじむ直前であったことを容易に想像することができます。一方、帰ってきた息子の両肩におかれた愛情あふれた父親の両手は、イエス様の手、主の手と言えるでしょう。

 『待った』結果なのです。信じて待つ。これは社会でも、家庭でも、現代人の心に大きく欠けてしまっているものです。勤務先でも社会でも、互いが信じて待つことができなくなってきています。あくせくした世の中。無味乾燥は日々の生活となっています。

 息子は父親に対して、「お父さん、私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました」と述べています。

 そして、ルカ15章18節に『立って』という短い言葉が書かれています。これは悔い改めへの決断の言葉であり、更に、『こう言おう』は罪の告白を表す言葉なのです。

 そして、ルカ15章18節では「私は天に対して罪を犯し~~」と書かれています。しかし、ルター聖書はここではっきりと天と貴方と目的語を二つに分けて、つまり、ここで放蕩息子は父親と神の前、即ち、主に自分の罪を認め、悔いて、それを素直に詫びようとしたのです。ここに一人の若者と主との『和解』があるのです。

 そして、最後に忘れならない御言葉が書かれています。

 子ひつじのたとえ話には「喜びが天にある」で、銀貨のたとえ話には「神の御使いに喜びが湧き起こる」で、最後の放蕩息子が「死んでいたのが生き返った。楽しんで喜ぶのは当然」と書かれています。これらのことは現代の社会で見出すことは無理だと思います。しかし、私たちが呼び求め、探し続ける天の御国では、これらのことが日常茶飯事に行われているのです。

つまり、天での喜び。御使いたちの喜び。地上での喜び。更に、神との和解があるからこそはっきりと描かれています。

 

 今朝は私と山田健執事が奨励をさせていただきました。普段は鴨下牧師です。一週間の初めのひとときに愛する兄弟姉妹、求道者の方々とともに同じ御言葉を読み、話を聞き、互いに一つの言葉を共有できることに喜びを感じます。

 

 毎朝、山田良彦兄弟からメールで御言葉が送られてきます。また、私のこの小さな本、ドイツの「ローズンゲン」を読むことにより、多くの兄弟姉妹と御言葉の共有ができるのです。


 

 メールで芥見教会の皆さんと、ローズンゲンでドイツの多くの兄弟姉妹と御言葉を共有できるのです。生きる糧の共有ができるのです。一昨年以来、芥見教会の年間聖句は今年で279年の歴史をもつ本からとられています。

 御言葉を共有し、互いに祈りあい、祈りの輪を共有しつつ広げていくことは素晴らしいことだと思います。

 ドイツへ演奏に出かける時、ドイツの旅先でホームステイをします。朝食時にこれをもって行くと、そこの家族が一瞬驚き、嬉しそうにして、私に読むように言われます。それによって一挙に彼らとの距離が縮むことを体感します。私にとってこれが日々の生活において御言葉を共有することの喜びです。

 

 では、お祈りをさせていただきます。

 

 

  *準備資料  ①「放蕩息子」(レンブラント画)エルミタージュ美術館 発行

                   ②木彫りのイエス像 (教会の受付横)  

                                       ③ Losungen 2009  

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