2017 年 5 月 7 日

・説教 詩篇66篇「全地よ、喜び叫べ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 08:37

 

2017.05.07

鴨下 直樹

 
 このゴールデンウィークの29日に東海聖書神学塾の主催でCS教師研修会が行われました。今年は非常に大勢の参加者が与えられました。今年のテーマははじめてパネルディスカッシヨン形式で行われ、4つの教会の子どもの伝道の働きが紹介されました。私は、この集会の司会をさせていただいたのですが、とても刺激的な研修会であったと思います。いくつものアイデアを知ることが出来ましたし、実際にこれからの教会の子どもの伝道についてとてもよく考えさせられました。

 今ら20年ほど前までは今に比べると比較的、教会に子どもを集めることは難しくありませんでした。けれども、オウム真理教の出来事以来、人々は宗教に対して警戒感を強めるようになりました。それで、子どもだけで教会の集まりに参加させるというようなことが難しくなっているわけです。私たちの教会でもそうですけれども、このパネラーの多治見中央キリスト教会の山本先生は、親と子供を一緒に教会に招くという方法に切り替えたということを話してくださいました。宗教は怖いというイメージを持っている人たちに対して、教会がどのように間口を開いていくかという教会の在り方がそこでは問われていると思います。何をやっても、子どもが来ないということではなくて、どうやったら地域の人たちに教会を信頼してもらえるかということを考えていく必要があるわけです。

 今日はひさしぶりに詩篇のみことばを聞こうとしています。この詩篇66篇は、復活節の第四主日と第六主日に読む聖書の箇所となっています。今日は復活節第四週、「ユビラーテ」と呼ばれる主の日です。「全地よ、喜べ」というこの1節から名づけられた主の復活を全世界で喜ぶようにと招かれている日です。また、最後の20節から「いのれ」、「ロガーテ」と言われる日の聖書箇所となっています。

 今日はこの復活節の個所だけではなくて詩篇66篇全体を見て見たいと思っていますが、実はこの詩篇66篇は大きく内容が二つに分かれています。前半部分は1-12節までです。ここでは主語はつねに「私たち」となっていまして、何度も何度も命令形の言葉が繰り返されていまして、イスラエルの民全体、あるいは、全世界の人々に語りかける壮大な神の御業を讃える詩篇です。ところが、13節から20節では主語は「私」となっていて、個人的な神への祈りです。これは、このように考えてくださればと思うのですが、民全体として神の御前に礼拝を捧げている中で、自分としても神に対する喜びや感謝の祈りをささげているようなイメージをもってくださるとよいと思います。

 この詩篇が今の私たちに問いかけている大切なことは、今の世界というのは、個人のことばかりに目が向かってしまいがちで、民全体、あるいは世界全体の喜びということにまであまり目が向かなくなってしまっているのだということに気づかされるわけです。

 この詩篇は、イスラエルの民を超えて、全世界の人々に命令しています。

全地よ。神に向かって喜び叫べ。

1節にそのように記されています。1節から2節までで「叫べ」「歌え」「賛美せよ」と命令形で書かれています。

 その内容は3節と4節、「神の偉大な御力のために」とあります。5節では「神のみわざ」とあって6節では「神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は川の中を歩いて渡る」とあります。ここに書かれているのは、神がイスラエルの人々をエジプトから救い出された時に、ヨルダン川をせき止めて、その川の真ん中をイスラエルの民たちが歩いて渡ったという出来事のことが記されています。

 神がこの世界の歴史の中でどのようなことを実際に行われたのか。その神の御業は、イスラエルの民だけでなくて、すべての人にとって明らかになったのだから神を褒めたたえよと、イスラエルの人たちだけではなくて、その回りにいる諸民族に対して訴えているわけです。

 この詩篇の前半部分の大きな内容は、神は歴史の主であるということです。神がこの世界で行われた御業を目の当たりにすると、人はこの神を畏れ、敬い、ほめ歌を歌うようになるということを語っています。神はこの世界全体に目を向けておられて、この神によって全世界は喜ぶことができるのだというのです。

 私一人が幸せでいられるかという、小さな視点を通り超えて、神の御業はこの世界に及び、この神によって世界の歴史は進んでいるという壮大な神への賛美です。

 それが、7節になるとこういう言葉で表現されています。

神はその権力をもってとこしえに統べ治め、その目は国々を監視される。頑迷な者を、高ぶらせないでください。

とあります。

 このゴールデンウィークの間、私たちは常に一つのニュースを気にかけていました。北朝鮮がミサイルを撃って来るのではないかという危機意識が私たちにはあります。先日の報道では個人用の退避シェルターの注文が殺到して生産が間に合わないとかという報道さえありました。こうなると、私個人の幸せの問題をいくら追及しても、ミサイル一つ飛んで来たら、個人の問題はどこかへいってしまいます。この詩篇は、神がその権力をもって永遠にこの世界を監視しておられる。どうか、頑迷な者は高ぶることがないようにと、この神に向かって祈っています。

 12節にはこう記されています。

あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。

 イスラエルの民がエジプトで奴隷の生活を強いられていた時、民を導く者としてモーセが神に立てられて、エジプトから約束の地カナンへと連れ上りました。それはまさに戦火をかいくぐり、水の中を通ってのことでした。けれども、イスラエルの民はその後も同じような経験を何度もすることになります。火の中、水の中という表現は、イスラエルの人々がバビロン捕囚から逃れてきたときのことではないかと考える人もいます。それほどに、イスラエルの民は何度もそういう経験をしてきたのです。けれども、確かに神はそのような厳しい困難な状況からイスラエルの民を導いて救い出されたのでした。

 10節から12節の中には「あなたは・・・されました」という言葉が何度もでてきます。この書き方も、神が困難から救い出された歴史的な記録という書き方です。この困難からの救出を聖書が書き記す時の書き方は、やはり神が主語なのです。「神が救い出される」これが、神の御業です。

 先日行われたCS教師研修会で、午前中パネルディスカッションをして、午後からはいくつかのテーマに分かれて分科会が行われました。その分科会の一つを私が担当して「CS教師のXYZ」というテーマでお話をいたしました。これは、「ABC」といえば大抵は「入門」ということになるわけですが、「XYZ」というテーマで、長年教会で教師を務めて来た方々に、そこから「さらに教師として学ぶべきこと」という内容の講演を行いました。

 そこでは、三つのテーマについてお話しました。X.「み言葉を語るためにさらに知っておくべきこと」。「Y.次世代の教師を育てるために」そして、最後に「聖書と祈りの生活」というテーマでお話しました。

 祈りの生活というのは、教師としてまず最初に身に着けるべきことですが、最後にもう一度同じテーマを取り上げました。というのは、それは、牧師でも起こることですけれども、教会で子どもに聖書を語るとき、ついなってしまうのは、自分と神さまとの交わりを豊かにするということでなくて、いつのまにか、聖書の話しをするために聖書を読んでしまうことです。いつのまにか、聖書を読んで祈るという本当はクリスチャンにとって一番大切な時間が、機械的な作業になってしまうので、もっと豊かに聖書を読むことが出来るようにという話しをしました。

 その中で私がお話したのは、五感で感じるように聖書を読むということです。想像力を働かせて聖書を読んでみるということです。聖書がなかなか自分の心に入って来ない時というのは、聖書を正しく理解しようと思って、言葉について考えてみたり、意味を理解しようと思ってだんだんと聖書が取っ付きにくくなってしまうということが起こります。そういうときは、まるでその聖書を自分で体験したような気持になって読んでみるということをやってみるわけです。食べ物の話しであれば、自分が食べた気になって読んでみる。あるいは、自分でその場面をみたことがあるような気持ちになって聖書を読んでみると、聖書の世界を肌で感じることができるようになるという読み方です。

 今日のところであるならば、自分がエジプトで奴隷だった時に、モーセに導かれて神がせき止められたヨルダンの川の真ん中の渇いた地を歩いて、助かったような気持になってこの箇所を読んでみる。あるいは、火の中、水の中から実際に救い出されたとしたら、神をどのように思うか、神にどれほど感謝したい気持ちになるかを想像して読んでみると良いわけです。そして、この詩篇の前半、この神に向かって喜び叫び、神にほめ歌を歌えと言われていることがどういうことか、実際にどういう意味を持つのかを想像してみたらよいわけです。

 そうすると、この詩篇の後半部分が個人の賛美の歌になっていると最初にいいましたけれども、そういうことが自然に受け入れられるのではないかと思うのです。

13節から15節は神の御前に礼拝をささげるためにささげ物をもって礼拝に出かけていく姿が描きだされています。そのことも自然に理解できると思います。

 けれども、そうやって読んでいくとどうしても引っかかる言葉が出て来ます。それが18節と19節です。ここにこう記されています。

もしも、私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。

 心に不義を頂いているなら神に祈っても聞き入れていただけない。しかし、祈りは聞き入れられた。ということは、私の心は潔白だ。だから、祈りが聴かれたのだというニュアンスとして読み取れると思います。ここは、読む者が心を寄せるほどに、そういう読み方がなりたってしまいます。

 この箇所は「祈れ」「ロガーテ」という復活節の聖書日課の箇所です。それだけに、特に気をつけて聖書を読む必要があるところです。新共同訳聖書ではこう記されています。

わたしが心に悪事を見ているなら主は聞いてくださらないでしょう。しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け聞き入れてくださいました。

と訳されています。これだと強調点が自己の正義ということではなくて、神に向かう心が問われていることが分かります。

 私たちは祈るときに、どうしたら叶えられる祈りができるのかと考えることがあるかもしれません。もし、祈ることが何でも叶えられるなら、鬼に金棒ではないかと思うからです。けれども、祈りがきかれないと反対に情けない気持ちになりますし、そういうことが続くと、祈ることの意味がないように思えて来て、祈ることをやめてしまうということも起こりかねません。

 祈りは神との交わりです。神のことを知り、自分のことを語るとても大切な時です。この祈りが豊かであれば、私たちは神さまとの豊かな交わりを持つことができますから、平安な心を持つことができます。祈ることを通して私たちは神を知り、自分のことを正しく知ることができるようになります。そういう祈りの心が「心にいだく不義がある」というのはどういうことか、新共同訳では「心が悪事を見ている」とありますが、神を知ろうとしない、神に心が向かわないで祈るということを意味しています。つまり、自分に徳があるように、自分にいいことがありますようにというような祈りというのは、心が自分に向かっているわけです。自分を喜ばせるために祈る祈りというのは、主なる神に心が向いていません。そういう祈りは神の心に届かないということでしょう。

 これは、考えてみれば当たり前のことで、テレビを見ながら上の空で会話をしているようなものです。人と話をするときには、ちゃんと相手を見て話すことが大事なように、神を見上げながら祈ることが大切です。しっかりと、主と向かい合っている時に、私たちは主から豊かな喜びや平安を与えられて、自分自身も喜んで生きることができるようになるわけです。この神との豊かな関係が築き上げられて、はじめて、自分の生活というものがしっかりしてくるわけです。

 目先のことに捕らわれているところから解放されて、まずは根本的なことを見つめなおす。そうすると、私たちの主なる神との関係というものがしっかりと見えてくるのだと思います。まずは、主を知ること、主がどんなに豊かなお方なのかを知ること。そのことが、私たちの生活の土台を築くことになっていくのです。

お祈りをいたします。

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