2017 年 3 月 26 日

・説教 詩篇130篇「深き淵より主を呼び求める」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 17:53

 

2017.03.26

鴨下 直樹

 
 受難節の第4主日を迎えました。この詩篇130篇はこの受難節に読まれる詩篇の一つで、七つの悔い改めの詩篇の一つです。ここには直接的な悔い改めの言葉はありませんが、テーマはまさに悔い改めです。

 冒頭の1節。

主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。

とあります。「深い淵」というのは、現代人には少し意味が分かりにくい言葉だと思われます。絶望の穴とでも言ったら良いでしょうか。深くはまり込んでしまって、抜け出せそうにない深い穴に、この詩篇の著者は落ち込んでしまっているのです。

 そういう時に、安易な慰めの言葉は心に届きません。誰からも共感されるとは思えない深い絶望の穴に落ち込んでしまっている人を、簡単に、自分の経験と対比させて慰めることはできないのです。そのような、人からの慰めを拒みたくなるほどの、深い悲しみというのを、人は人生の中で何度も経験するわけではありません。けれども、そうなったときに、どうしたらよいのか。どこに本当の慰めがあるのかと、人は思い患いながら、救いを求めるのです。

 先週の月曜日と火曜日、東海聖書神学塾で教えている教師たちの研修会が行われました。そこで、二人の教師の話を聞く機会がありました。神学塾で教義学といいますけれども、神学を教えてくださっている河野勇一先生は、先日一冊の本を書かれました。『神のかたちの福音』という本です。この本は、聖書が語っている「救い」とは何かということを、非常に分かりやすく解説したものです。先日の発題でも、河野先生が冒頭でこんなことを言われました。教会で「救い」という話しをするけれども、この「救い」という言葉だけを考えてみると、実は中身のない言葉だと言われました。というのは、「救い」という言葉だけでは、その救いの内容について、まるで分らないわけです。病気で苦しんでいる人の救いは、癒されることです。人間関係で悩んでいる方からすれば、その人との関係が修復されることが救いです。経済的に困っている人は、お金の問題を解決することが救いです。一言で、救いと言っても、その内容はそれぞれ異なっているわけです。

 ですから、そういうふうに考えてみると、この詩篇が語っている「深い淵」という言葉も、それを「絶望の穴」と言い換えてみたところで、その内容については、聞く人それぞれで思い描くことは違うわけです。もちろん、この詩篇に、その「深い淵」の内容について丁寧に書かれていなければ、それが何をさしているのかは簡単には分かりません。だから、少し想像してみるわけです。

 この詩篇の表題はこのように書かれています。「都上りの歌」とあります。都上りというのは、エルサレムの都に神殿がありまして、イスラエルの人々は当時、三大祭といわれるお祭りの時になると、エルサレムの神殿に上って行って「宮参り」をするという習慣がありました。これは、過越しの祭りと、七週の祭りと言われている祭りの時と、仮庵の祭りという三つのお祭りです。お祭りといっても、そこでするのは、神殿に出かけて行って、そこに犠牲を捧げて礼拝をしたのです。

 そういう決められた時期が来ますと、イスラエルの人々は犠牲を捧げるために神殿に上って行って礼拝をします。特に、そこで罪のための捧げ物をして、和解のいけにえを捧げると、このいけにえとして捧げた肉は、その日のうちにみんなで食べ尽くさなければなりませんでしたので、ちょっとした家族の会食の機会になったようです。その食事を一緒にするということは、神に罪が赦されたことを家族みんなで一緒に喜び合ったので、神による罪の赦しというのを、そこで実感することができたわけです。
 ですから、イスラエルの人々は、エルサレムに宮参りをして、罪が赦されるという経験を知っていましたから、その日を心待ちにしていたということが想像できるわけです。

 この130篇の祈り手はこう祈っています。2-4節です。

主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそ、あなたは人に恐れられます。

と書かれています。
 自分がどん底にいると感じているこの人は、自分のした行いが神の目にとめられていたら、神の前に立つなんてことは恐ろしくてできないと言っています。けれども、神は赦してくださる。私を受け入れてくださる。だから、みんな神を畏れ敬うのですと、ここで言っているのです。最後の「恐れる」は、恐怖するという意味ではなくて、「畏れ敬う」という意味です。

 神が私を赦してくださるお方だと知っているから、神の御前に出ることができるのですと、言っているのです。この歌は、都上りの歌ですから、都に上る人たちが、おそらく、この歌を口ずさみながら神殿に上って行ったのだろうということが想像できます。みんなこの詩篇の歌を歌いながら、大丈夫、神さまは私たちを赦してくださるお方だからと、心にとめながら、礼拝に出かけて行った歌だということなのです。

 イスラエルの人々はこの時代、年に数回、神殿に出かけていって礼拝を捧げることを心待ちにしていました。それぞれ、その歩みの中で、自分が落ち込んでしまうことがある。深い淵に落ち込んでしまっているような気持になることがある。そういう時に、エルサレムの神殿で行われる礼拝に出かけていって、自分がリセットされるかのように、もう一度、神の御前に出て、新しく生活を仕切り直しをするということができることを心待ちにしていたのです。

私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。

と5節にあります。
 待ちに待っている。自分がもう一度回復することを待ち望んでいるのですが、自分がそうやって、神殿に出かけて行って、主のみことばを聞くことを待ち望んでいるというのです。神の言葉を聞くことだというのです。

 先週の月曜日に、先ほどお話ししましたが、神学塾の教師の研修会で、神学校で教会の歴史を教えてくださっている壇原先生がお話しくださることになっていました。残念ながら、先生は直前に来られなくなってしまいまして、この発題のために、資料を作って下さっていたので、それを一緒に読みました。とても、興味深い内容でした。ポストモダン時代の人間理解ということをまとめてくださったのです。

 ポストモダンというのは、直訳すると「近代以降」ということになります。私なりの言い方をすると、これから来る時代のことを言い表した言葉です。去年のアメリカの大統領選挙の後から、ポストトゥルースということが言われるようになりました。トゥルースというのは、「真理」ということですが、真理に代わって来たのは何かということになります。アメリカの選挙では、真理が大事ということではなくて、人の感情に訴えかける言葉が政治的な影響力を持ちました。今という時代は、人は真理とは何かということには興味が薄れていって、自分がどう感じるかということが、判断の基準になったということを、このポストトゥルースという言葉は言い表しているわけです。

 この壇原先生はこのあたりのことを色々な本を紹介しながら、とてもよくまとめてくださったのですが、ポストモダンと言われる今の時代というのは、インターネットで自分の好きな情報を集めて、より自分にピンときたものだけを自分で選び取ることができる時代になって、そのために、人がどんどん自分の感情とか感覚とか、そういうものに重点をおくように変わってしまっていることに、気づいている必要があるということを書いておられます。

 少し前にも、このテーマについてお話したことがありますが、人が本質的なことに関心をどんどん失っていて、表面的なもの、目に見えることや、自分の感情や感覚というものを判断の基準にしていっているわけです。そうすると、人間関係も上っ面だけになりますし、それこそ、自分の心の中にある心配や不安というものも、目に見える現象だけに目が移っていくので、大事なことは置き去りにされていくわけです。

 自分で何でも選び取れるので、まるでそれは善悪の知識の木の実を食べたアダムのように、神なんかいらない、自分で判断したいのだということにどんどんなっていっているわけです。そうなっていくと、人は今何が流行っているのか、みんなが夢中になっているのは何か。そういうことに関心は高まりますが、本当に大事なことは何かということには、ますます目が向かないようになっていきます。そして、自分が大事なことを忘れていくように、他の人も自分を大事にしてくれなくなっていくという世界になっていくわけです。

 この祈り手は、何を待ち望んだのかというと、神の言葉だというのです。神の言葉こそが、私を生かすことになるということを、この祈り手は知っています。自分を本当に生かすものは、自分が集めてきた知識や、経験や、人間関係ではなくて、神の言葉なのだということです。

イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。主は、すべての不義から、イスラエルを贖い出される。

7節から8節です。
 この言葉が、この詩篇の結論です。主なる神は私たちを一人ぼっちにしない。私たちが絶望の穴に落ち込んでしまっても、気づきもしないなどということはありえない。主は、私たちを慈しみの眼差しで見つめていてくださる。これこそが、神の恵みなのだというのです。そして、神は、そういう私たちを贖ってくださる。

 「贖ってくださる」というのは、神が買い戻してくださるという意味です。私たちの人生が、本当の人生ではない生き方をして、他の方に進んでしまっているのを、
神が買い戻してくださって、神の道に私たちを置きなおしてくださる。そして、進むべき道へと歩ませてくださるというのです。これが、神の贖いです。そして、そのような生活は豊かな生活なのだというのです。

 神の救いのことを、ここで贖いという言葉で言い表しています。神に買い取られることだというのです。神が私たちの人生を買い取ってくださって、神が私たちの人生の主人になる。それで、神のことを主という言い方をするのです。私の人生は、この私たちを買い取られる神のために生きる。それが、私たちの本当の生きる道になるということです。神の目的にかなった生き方をするために、生きる。それが、豊かな人生だというのです。

 今、受難節を過ごしています。これは、神が私たちを買い戻すために、主イエスが神に支払った代償を知る期間ということです。主イエスの苦しみは、その十字架に現わされています。主イエスは自分を捨てることを通して、私たちを買い戻そうとしてくださったのです。私たちが、目的から外れた、深い穴ぼこにはまり込んで生きることがないために、その穴ぼこの中に、主イエスが入って来てくださって、自分のいのちを犠牲にして、その穴ぼこから私たちを引き出してくださった。これが、贖いです。これが、主イエスの十字架です。

 こうして、穴から救い出されて、本来あるべき神の目に叶った生き方をすることができるようになるのです。この救いの言葉こそが、私たちが聞くべき神のみ言葉。私たちが待ち望んでいる神の救いの言葉なのです。 私たちは、このお方に救い出されて、神の国で、豊かに生きる者とされるのです。

お祈りをいたします。

コメントはまだありません

まだコメントはありません。

この投稿へのコメントの RSS フィード

現在、コメントフォームは閉鎖中です。

HTML convert time: 0.161 sec. Powered by WordPress ME