2017 年 7 月 2 日

・説教 マルコの福音書1章1-8節「福音のはじまり」

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2017.07.02

鴨下 直樹

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 今日からマルコの福音書のみ言葉を順に聞き続けていきたいと考えています。このマルコの福音書は四つの福音書のはじめに記されたものです。主イエスのことを簡潔に、しかし、とても丁寧に記しています。この福音書を読む人は、まさに最初に書かれているように「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」がどうであったのかを知ることができるのです。ですから、この冒頭の一節はこの福音書の内容をすべて言い表した、この福音書全体のタイトルと言ってもいいほどです。「神の子イエス・キリストの福音はこうしてはじまった」と翻訳した人がありましたが、その方がこの冒頭の言葉をよく捉えていると言ってもいいかもしれません。

 この福音書がなぜ書かれるようになったのかというと、主イエスがこの世を去られた時に、主は再び来られることを約束されました。ですから生まれたばかりの主の教会は主がすぐにおいでになると信じていました。けれども、次第に主のよみがえりの証人と言われる人たちが死を迎えていくにつれて、主の教えて下さったことを主の弟子たちから直接聞くことができなくなってしまうので、記録に残しておかなければならないということに気づき始めます。

 このマルコの福音書のマルコという人物は、はじめパウロとバルナバと共に伝道の旅に加わった者です。けれども、途中で伝道に同行しなかったために、パウロはこのマルコを次の伝道旅行には連れて行かないと言い出します。このマルコはバルナバと従弟であったこともあり、パウロとバルナバはこのために別々に伝道することになります。その後、マルコはペテロに仕えるようになったことが知られています。つまり、パウロと共に伝道し、次にペテロと共に働いた人物ということは、主イエスの記録を書くのに格好の人物であったということが言えるわけです。

 この福音書はこのマルコが書き記した福音書と考えられ、マルコの福音書と言われているわけです。もう少し簡単な説明を最初にしておきますと、歴史上では紀元70年頃にユダヤ戦争が起こり、70年にはエルサレムが陥落します。この福音書にはそのことが記されていないために、紀元70年以前には書かれていたということが分かっています。あるいはローマの大火といわれる出来事が紀元65年に起こります。その前ではないかと考える場合には65年か、64年には書かれていたのではないかというのが、今ではほとんど確かなこととして受け止められています。つまり、主イエスが天に戻られてから30年から35年ほど後に、このマルコの福音書が記されたということになるわけです。

 この時代にはすでにキリスト者たちの数はどんどん増えていた時です。ローマの迫害の中で、キリストを信じる人々は次々与えられながら、多くの人は主イエスの福音というのはどのように始まったのかを、誰もが知りたいと願っていたのです。そのような中で、マルコは、「神の子イエス・キリストの福音はこのようにはじまった」と主イエスの福音を書き記したのです。

 その冒頭に「預言者イザヤの書にこう書いてある」と旧約聖書の引用から始めました。ところが、よく読んでみますと、これはイザヤ書40章3節の引用となっているのですが、実際には出エジプト記23章20節の引用からはじまります。そして、2節の後半はマラキ書3章1節の引用です。ある解説によるとマルコはもともとイザヤ書だけを書いていたのかもしれないと言います。けれども、マルコの福音書を手にした人たちが、いや、ここにもこういう旧約聖書の約束の言葉がある。ここにもあると、書き加えられていったのではないかという説明をしています。そうであったのかもしれません。明らかなことは、イザヤ書に約束されていた「主の道を用意する者」の現れを長い間、イスラエルの人々は待ち焦がれていたということです。マルコはそのことをここで書こうとしています。聖書に約束されていた、キリストが現れる前に、約束の「主の道をまっすぐにする者」が与えられることを心待ちにしていたのです。

 今日の箇所の大切なテーマの一つは「待つ」ということです。長い間、イスラエルの人々は約束が実現する日を心待ちにしていました。もう待ちくたびれたというほどに、人々は待ち焦がれて来たのです。この「待つ」というは、私たちの心に何を引き起すのでしょうか。

 私たちは小さな頃から「待つ」ということを訓練されます。子供と一緒に買い物に出かけると、いつものように、おもちゃ売り場をめがけて子どもは走り出します。「何も買わないよ」と最初に伝えるのですが、ここから子どもの駆け引きがはじまります。このおもちゃがあると自分の生活がどんなに素敵なことになるか、子どもが力説しはじめます。そうすると、今度の誕生日まで待ちなさいとか、一か月考えてそれでも本当に必要かどうか考えてみようと言います。私もそのように言われて育ちました。そして、実際にほとんど買ってもらったことはありませんが、そうやって待たせて、その間、色々考えさせて、そうして手に入れるという喜びを知るようになるのです。そうやって待ち焦がれて手に入れたものは、そんなに簡単に飽きてしまうようなことはありません。それが、昔からの知恵というものです。そうやって、宝のような経験を積み重ねていくわけです。

 神の民イスラエルの人々も長い間待ち続けて来ました。あまりにも長すぎたために、興味を失ってしまったり、他のもので気を紛らわすというようなことが起こってしまいました。けれども、他の誰でもない主なる神ご自身がお語りになられた約束は素晴らしいものに違いないと期待し続けたのです。

 そして、まさに、その約束がいよいよ目の前に現れました。

そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。

のでした。4節です。このバプテスマのヨハネのところには、「ユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところに行き」と5節に記されています。大げさではないと思えるほどに多くの人々がヨハネのところに集まって来たのです。ヨハネは荒野にいました。荒野というのは何もないところです。何もないというのは、人を拒むものが何もないということでもあります。立派な建物で敷居が高いなどということもありませんでした。誰もがヨハネの語る言葉に耳を傾けることが出来たのです。ヨハネは悔い改めと罪の赦しを語りました。

 旧約聖書では、罪を犯した人、神の前に汚れを持った人々は犠牲をささげて罪の赦しを求めました。ところがいつしかこの手が汚れているとか、汚れているものにふれてしまったというような外面な罪よりも、その人の心こそが神の前に問われていることが預言者たちによって語られるようになりました。特に、バプテスマという習慣は旧約聖書の中で直接的にはそれほど記されていないのですが、ユダヤ人たちはこの時代にバプテスマといわれる水の中で罪の汚れをきよめるという習慣を取り入れていったようです。記録では異邦人からの改宗者の場合にはこのバプテスマを行ったという記録があります。

 ヨハネはそれをここで積極的に用いて、神の御前に罪の悔い改めをして、神と共に生きるようになることを勧め、そして、多くの人々がヨハネの言葉に耳を傾けてバプテスマを受けたのでした。ここに書かれているイスラエル中の人々、全住民と言えるほどの多くの人々がヨハネのところを訪ねたとすると、これはもう一つの事件です。

 しかも、6節にはヨハネの風貌が記されていますが、これはエリヤの姿として人々に知られている姿でした。つまり、あの偉大な預言者エリヤのような力強い人物が荒野に現れて、人々に悔い改めを語り始めたということなのです。

 それは言ってみれば、素晴らしい晩餐会の、前菜がもうテーブルに並び始めたようなものと言っても良いかもしれません。最初に出されたスープに口をつけてみるとそれはあまりにもおいしくて、口の中がとろけるようなおいしさに舌づつみを打っているのに似ています。それを口にしながら、このスープはまだたいしたことはありません。これから出てくる料理に比べれば、このスープなどたかが知れています。そんな言葉を聞いたら期待しないではいられないのです。

 そのヨハネはそのようにこれからおいでになるお方、主イエスを紹介しつつこう語りました。8節

私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。

 水のバプテスマというのは、水で身を清めるという意味があります。自らの汚れを水で洗い流すように、罪を洗い落として新しく生きようとすることです。けれども、いくら、水で汚れた体を綺麗に洗い流しても、私たちの心の中の汚れは一向に綺麗にはなりません。私たちの心そのものが綺麗にされなければ、私たちの罪の問題は解決しないからです。それは、神が直接私たちに働きかけることなしには不可能なことです。神の霊である聖霊が私たちに与えられて私たちの罪がそのもとから綺麗にされることなしに、私たちの本当の救いはないのです。そして、主イエスは私たちのこの聖霊による清めをあたえるために、私たちのところに来て下さるのだと、ここでヨハネがあらかじめ宣言しているのです。

 はじめに、このマルコの福音書はこう記されていました。「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」。ここに「福音」という大切な言葉が記されています。この福音は、その知らせを聞くと私たちが嬉しくて喜びで包まれるような知らせです。長い間、人々が心待ちにしていたのは何か。それは、まさに福音でした。つまり、神がいつも一緒にいてくださって、どんな外敵が襲って来ても安心して生きられる、自分の毎日の悲しみや痛みや不安から解放されて、神が近くにいてくださって、私たちが幸いに生きることができる神の慈しみを感じることができるようになるということでした。

 けれども、この神からの平安はなかなかイスラエルには訪れませんでした。それは、人々が神の心から遠く離れてしまって、自分勝手に生きたからでした。この自分自身の醜さの問題が解決されないかぎり、本当の幸いはないということを、預言者たちは語り続けて来たのでした。

 神の福音。私たちが安心して喜んで生きることができるようになるには、この私の罪の問題が解決され、私が神に受け入れられるような生き方ができるようにされなければなりません。どうしたらいいのか、どうしたら、私は変われるのか、どうしたら、福音に身をゆだねることができるのか。そのことが、このマルコの福音書には記されているのです。この福音はここから始まるのです。

 最近出された別の翻訳では、この「はじめ」という言葉を「源」と訳しました。これもまた大胆な翻訳ですが、私たちが喜んで生きることのできる源がこのマルコの福音書の中に詰まっています。この福音書を通して、私たちは主イエスの与えくださる福音に耳を傾け、待ちに待ち続けた約束の福音を喜んで味わいたいと思います。

お祈りをいたします。

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