2017 年 7 月 9 日

・説教 マルコの福音書1章9-11節「主イエスの洗礼、私たちの洗礼」

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2017.07.09

鴨下 直樹

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 先週の木曜日から今日まで名古屋にあります東海聖書神学塾の塾生の方々が伝道実習ということで、この芥見教会にきてくださっています。先ほども神学生の方々が、「聖書のおはなし」と、証しをしてくださいました。今日までの四日間、教会のさまざまな集会で奉仕してくださり、また、教会に集っておられる方々と交わりの時をもってまいりました。昨日もある方が、キャンプをしているみたいで楽しいと言ってくださいましたが、本当に楽しいひと時となっていて感謝です。金曜日の夜は、長良川の鵜飼いを何人かの方々と、神学生たちと一緒に観ることが出来ました。とても良い天気で、岸辺に皆で座りながら、鵜飼を観ながら、お弁当を食べて、楽しいひと時となりました。今は、鵜飼のシーズンですから大勢の観光の方々も船に乗って鵜飼い見学をしたり、私たちと同じように岸から鵜飼を見学しておられる方もおられました。長良川の岸辺で、こんなに綺麗に鵜飼が観られるのだということを、私は知りませんでした。もう、岐阜に来て10年目を迎えようとしていますけれども、改めて岐阜というのは良い街だなぁと知らされた思いです。

 そんな長良川の余韻にひたりながら、今日出てきますヨルダン川はどんなところだったのだろうと色々と想像してみました。ヨルダン川と言っても長い川です。このマルコの福音書でも、他の福音書でもそうですけれども、ここで洗礼を授けていたバプテスマのヨハネが、ヨルダン川のどこで授けていたのかまでは書いていません。今は便利になりまして、インターネットの地図で、今の様子を航空写真でみることができます。ヨルダン川の周辺はどこをみても緑が豊かですから、きっと、当時も水が豊かな川であったのかと想像することはできます。ただ、バプテスマのヨハネは「荒野に現れた」と4節にありますから、緑豊かな森というようなところではなくて、豊かな水の流れている荒野の地区だったのでしょう。岐阜のように観光地になっているわけでもありませんが、その荒野の川に、当時大勢の人々が集まって来て、ヨハネから洗礼を受けました。その時の様子は長良川のように山に囲まれているわけではなかったと思いますけれども、大勢の人たちが集まって来るなかで、洗礼を受けている姿というのは、きっと鵜飼いを観るよりも感動的な光景であったのではないかと想像することができるわけです。

 先週もお話ししましたけれども、このバプテスマのヨハネの授けた洗礼は罪の悔い改めのバプテスマということですから、多くの人々は、真剣に自分の生き方について何とかしたいと考えていたということです。そして、ヨハネの言葉に耳を傾けて、洗礼を受けたのです。自分の人生を変えたい、新しくしたい。そのような人の思いは真剣であるはずです。マルコは、この福音書に主イエスを登場させるに先立って、そのように真剣に生きることを考えていた人たちがいたことを書き記すことから始めました。そして、イザヤの預言の言葉に応えるように、神はその道をこの世界にお示しくださったのだとまず初めに書いたのです。

 そうして、マルコはこの朝私たちに与えられている箇所のところで、主イエスを登場させます。最初の紹介の言葉はこのように記しました。

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。

9節です。

 マルコの福音書による主イエスの紹介は、意外さに満ち溢れています。ヨハネは主イエスのことを書き始めるにあたってクリスマスの出来事を書き記しませんでした。また、主イエスのそれまでの歩みについて、父親と大工仕事をしたこと、バプテスマのヨハネから洗礼をうけるまでの青年時代の出来事のすべてを省略しました。それでよいと考えたからなのでしょう。「イエスはガリラヤのナザレから来られ」と書くだけで十分だと考えたのです。

 ガリラヤのナザレという地名が有名な地名だということは考えられません。この福音書が書かれた当時も、それを聞いて「どこ?」と疑問に思ったに違いないのです。私がドイツに住んでいたことを話す時に、「どこに住んでいたんですか」と聞かれると、いつもズィーゲンの近くのオーバーディルフェンというところだと答えます。ドイツ人であったとしても「聞いたことない」と首をかしげます。今でもそうです。教会はどこですかと聞かれると、「芥見キリスト教会です」と答えます。そして、そのあとで「岐阜市です」と添えても、関東地方に行きますと、「岐阜って何処のあたりですか?」と聞き返されることがあります。残念なことですが、あまり地理が分かっていない方が多くいます。それで「名古屋の近くです」まで言ってはじめて、「ああ」となるわけです。「ガリラヤのナザレ」。この言葉には何の魅力的な響きもありません。ただ、そこに秘められている意味があるとすれば、それは神の子のへりくだりということに尽きるのです。神の子であられる主イエスは普通の町で誰に知られるわけでもない一般の人と同じように生きられたということをこの短い言葉で示したのです。マルコの福音書が「神の子」として描こうとしている主イエスは、小さな町の片田舎でこれまで生きて来られた。これこそが、事実なのだとこの福音書は私たちに伝えようとしているのです。

 そして、そのイエスは、「ヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになった」のです。人々が大勢、新しい生活を期待して受けたバプテスマを主イエスご自身もお受けになられた。マルコの福音書は最初に書かれた福音書です。しかも他の福音書が記されたのはまだしばらく後のことです。ということは、しばらくの間はマルコの福音書しか読むことができなかったわけで、その間、主イエスのことを知りたいと思っていた人々は、この事実に心動かされたに違いありません。主イエスも人々と同じようにヨハネからバプテスマをお受けになられたという事実です。これも、先ほどと同じように、主イエスがへりくだったお姿を人々の前に示されたという以外に理由は考えられないのです。

 主イエスがバプテスマをお受けになった。この事実は大きな意味を持っていると思います。私たちの教会でも、主イエスを信じた時にバプテスマを受けるようにお勧めします。そして、この教会のメンバーとして入会するわけです。神の御前に、これから新しく生きることを願いながらバプテスマを受ける。主イエスがバプテスマを受けられたように、私たちもそのようにするのです。

 この芥見キリスト教会で最初に受洗されたのは誰だったのだろうかと思い調べてみました。Aさんご夫妻の名前が記されていました。今から36年前のことです。ということは、この教会が建てられて半年後に、洗礼式が行われたことになります。それから、毎年のように洗礼式が行われています。それは本当に感謝なことです。この主イエスが洗礼を受けられたように、私たちも主にならって今も教会では洗礼入会式を行い続けているのです。今も、何名かの方々が信仰の学びをしておられます。それも、みな、ここに記されている主イエスを知って、この主のように生きたいと願うようになって洗礼に導かれるのです。

 この主イエスの洗礼の時に何が起こったのでしょうか。マルコの福音書はこのことを10節と11節で次のように記しています。

そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのをご覧になった。そして、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

 ここに二つのことが記されています。一つは、「天が裂けて御霊が鳩のように下った」ということです。もう一つは、「天からの声」です。しかも、よく読んでみますと、これは周りの人たちには一切分からなかったようです。もし、この主イエスが洗礼を受けられた時に、大勢の人たちが洗礼を受けに来たのだとすると、まるで、その他大勢の一人のように主イエスは洗礼をお受けになられたのです。そのとき主イエス自身には聖霊の鳩が下って、天からの声が聞こえたのだけれども、他の人たちには見えていなかったようです。少なくとも、他の人たちに鳩が見えて、声が聞こえたということを、マルコは伝えようとはしていないわけです。

 これは、よく考えてみるととても大事な問題が秘められています。多くの人々は自分を変えたくて、ヨハネの言葉を聞いて罪の悔い改めのバプテスマを受けに来ていました。けれども、その人たちはそこで大きく自分の人生が変わるということはないのです。私たちが何かに失敗をして後悔する。あるいは、人に対してひどいことをしてその人に謝罪をする。もう二度と同じ過ちを犯すまいと心に決めて悔い改めたとして、反省を示したとしても、私たちは、自分を完全に変えることはできません。以前より気をつけることはできると思います。同じ過ちを犯さないように心がけるでしょう。けれども、そういう自分の弱さや、欠点に気づいて、反省して、改めようとしても、私たちの本質は何も変えることができないのです。

 実に、これが私たちの悩みの種なのです。ところが、主イエスがバプテスマを受けると、聖霊が下って来て、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という声が聞こえて来たというのです。

 そして、ここに人の問題の根本的な解決の道が示されるわけです。人はどれほど反省をして、悔い改めても自分の努力や自分の意思で自分を変えることはできません。しかし、神の霊が与えられて、神によって新しくされるならば、人は新しく変えられることができるのです。そして、私という存在そのものを天の神、主が受け入れておられるということが分かるときに、私たちはこの世で生きる不安から解放されることができるのです。

 子どもが喧嘩をするときの姿を最近目にすることが多くなりました。どちらかが悪いことをしてしまったときに、「ごめんね」と謝ります。そうすると怒っていた方が、ひどいことをされた方が、悩みながらやっとのことで「もういいよ」という言葉を絞り出して口にします。すると、赦された方は本当に解放されて、もう一度一緒に遊び始めるという光景を見ると、私は赦しというのはこういうものだということを改めて教えられるのです。

 神が、私たちを新しくするために聖霊を与えて、天から「もういいよ」と声が聞こえてくる。しかも、神の「もういいよ」という承認の言葉は人が言う言葉とは本質的に異なります。「あなたはわたしの愛する子」と言ってくださる言葉の中に、私たちの存在そのものが、また同じ過ちを繰り返してしまうという部分をも含んで、受けいれてくださるということを意味しているのです。この私たちが待ち望んでいる出来事が、まずここで主イエスの身に起こったのだと、マルコは私たちに伝えているのです。

 今日は、説教題を「聖霊・神の子の保証として」としていました。週報にはまだそのように書かれています。昨日の夜行われた夕礼拝の吉村神学生の説教のテーマがまさにこのテーマで驚きました。実は当初はそういう話を中心にしようと考えていたのでこの題をつけたのですが、少し内容が変わってしまいましたので、今日の説教題を「主イエスの洗礼、私たちの洗礼」と変更しました。けれども、この聖霊が神の子の保証として与えられるというのは、このテキストのとても大事なテーマです。主イエスの洗礼の際に示された聖霊は、まさに主イエスが神の子であることの保証です。そして、私たちもこの聖霊を与えられることによって、神の子とされるのです。

 マルコは、冒頭に「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と記した時に、主イエスが神の子であるということがどういうことかを、この福音書で明らかにしようとしました。その最初に記したのが、主は聖霊を与えられることによって神の子であることが明らかとなったということです。それはイザヤ書42章1節にも、主がこの地に遣わされるしもべは「霊を授けられる」ということが語られていて、その預言の成就であることが分かります。マルコは神の子の福音を記すにあたってイザヤ書40章以降に書かれている「苦難のしもべ」と言われる約束された人物こそが、この主イエスなのだろうことを明らかにしているのです。そして、実にマルコの福音書の最後までこの「神の子」という信仰の告白の言葉は出てこないのですが、その最後十字架にかけられる主のお姿を見て百人隊長が「この方はまことに神の子であった」との信仰告白をいたします。つまり、イザヤ書に預言された「苦難のしもべ」と本当に出会って、人は主イエスのことを神の子と告白できるのだというメッセージをこのマルコの福音書は伝えようとしているのです。

 つづく11節では

「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」

という言葉が記されています。これは、まさに、天におられる父なる神ご自身が主イエスを承認しておられるということです。先週の金曜日の午前中に神学生の方々とこの教会のことについて学ぶ時間をとりました。その中で洗礼入会式の時に行われる「試問」の話になりました。洗礼を受ける前に、役員会の方々の前で、信仰についてのいくつかの質問を受けて、その質問について洗礼希望者が答えるわけです。どの教会でも行われているわけではないようですので、洗礼を受けられた時に、試問をされたことがないという方もあるかもしれません。緊張する時ですが、いつも役員の方々はその時を楽しみにしておられるのではないかと思います。その人がどのように主イエスを信じるようになったか。今、自分がどう信じているのか、そういう信仰の言葉を聞く時というのは、本当に嬉しい時です。もちろん、試問の時に天から声が聞こえてきて「合格」というわけではありませんが、試問をする私たちは、この洗礼を受けられる方に、天から同じように「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と掛けられる声を、一緒に聞いているような思いになるのです。

 主イエスにだけ、この声は聞こえたのかも知れません。けれども、この声は、私たちに向かっても、今語りかけられているのだと思うのです。ここに記されている主イエスのお姿は、そのまま、主なる神が私たちに対しても示してくださるお姿です。そして、この主を告白する時に、私たちも神によって受け入れられ、聖霊によって神の子とされるのです。そして、私たちは洗礼へと導かれるのです。

お祈りをいたします。

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