2017 年 7 月 16 日

・説教 マルコの福音書1章12-13節「荒野に立つ主」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 12:05

2017.07.16

鴨下 直樹

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 今年は、宗教改革500年の記念の時です。それで、私たちの教会では今年の10月に4日間に及ぶ、連続講演会を計画しています。先週そのチラシができました。本当に、よいチラシが出来たと思っています。宗教改革とは何か、それが、私たちにどのような救いをもたらしたのか、宗教改革の祝福は今の私たちの生活にどんな影響を与えているのか、様々な視点や切り口で6人の講師から話を聞きたいとおもっています。

 明日、私が教えております東海聖書神学塾で、毎年この海の日に、古本のみのいちを開催しています。どういうわけか、私がその担当をしているのですが、ただ、古書を買うためだけに名古屋まで出て行きたくないので、何か講演をしてほしいと頼まれて、昨年から一時間ほど、講演の時を持っています。それで、明日は、宗教改革者ルターについて、お話をしたいと思っています。それで、先日もキリスト教書店に行きまして、何か良い本はないかと探していましたら、今年、宗教改革記念と合わせて「ルター自伝」という小さな本が復刊しておりました。思わず買いそうになったのですが、この本をすでに持っていることを思い出して、買わずに帰りました。時々、こうやって、すでに持っているのと同じ本を買ってしまうことがあるので、そういう本を古本のみのいちに出すわけです。いかに自分の書庫の管理ができていないかということでもあるかもしれません。

 この「ルター自伝」というのは、ルターが自分で自伝を書いたというより、「卓上語録」と日本語では言いますけれども、ルターがテーブルを囲んで仲間たちと談話をした会話が記録されていました。その中から、自伝と言えるエピソードを集めて編集されたものです。この本の中に、「誘惑」という項目があります。ルターが修道士の頃に、この誘惑といつも戦っていたのは大変よく知られた話です。まだ、修道士のころですから、カトリックの信仰に生きていた時です。カトリックには今でもそうですけれども、「告解」とい、罪を告白して教会の中につくられた小さな部屋のなかで、「聴く罪」と書きます、「聴罪師」に罪を聞いてもらうわけです。

 ルターは恩師であったシュタウピッツ博士と呼んでいる人に、何度も告解をしていました。ルターが誘惑と感じていたのは何かというと、性的なことではなくて、「自分の罪を裁かれるのは神である、ならば、神は罪人の敵ではないか」という疑問がいつも頭に思い浮かぶからでした。そのつど、シュタウピッツは、「そんなことで悩んでいるのはお前だけだ」といつもルターをあしらい続けていました。シュタウピッツがどう応えてもルターは納得することができません。それでも、ルターは来る日も、来る日も同じ誘惑を感じるたびに、シュタウピッツに告解をすると、ついに、シュタウピッツはこう答えます。「あなたは愚か者だ。神があなたに怒っているのではなく、あなたが神を怒っているのだ」と。ルターはこの言葉によって、それまでのカトリック教会の教えに対して怒りを覚えていたことの気づきとなっていったのでした。

 「誘惑」それは、長い間、人の悩みの源になっています。たいていの場合、誘惑というのは、私たちの弱さを衝いてきます。悪い事と分かっている。誰かを傷つけると分かっている。それでも、「自分のやりたい」という思いが勝ってしまう。それが誘惑です。誘惑に苦しまない人は誰もいません。それは、大きな罪の誘惑ということもありますし、ダイエットしようと思っているけど、また食べてしまったというような日常的ものまで、実に様々です。

 今日の箇所は主イエスが誘惑をお受けになられたことを記しているところですが、とても短い所です。けれども、ここには実に様々な内容が語られています。冒頭に「そしてすぐに」とマルコはここで書いています。「そしてすぐに」というのは、主イエスがバプテスマを受けられてすぐにということです。バプテスマを受けてすぐに主イエスを待ち構えていたのは誘惑だったと、マルコは書いているのです。

 これは、私たちの誰もが経験することです。主イエスが私たちの弱さを、失敗を、罪を乗り越えさせるために、そのいのちを私たちに与えてくださって、私たちを新しくして下さる。このことを受けとめて、主イエスを信じるようになって私たちは洗礼を受けます。信仰に生きるようになるということは、自分のことが、神に受け止められて、聖霊の助けをうけて、もう大丈夫、神が私の味方となって下さったと安心することができるようになるということです。ところが、そうやって洗礼を受けた直後から、急に周りからいろんな声が聞こえ始めるのです。家族と別の道を歩むことがどういうことなのか、騙されているのではないのか、あるいは、思っていたほどに自分の目の前の課題が解決されなくて、本当に神が私の見方でいてくださるのだろうかという不安が生じることも出てくるのです。主イエスを信じたいと思っていた時よりも、心の中の不安が大きくなってしまうということが起こり得るのです。

 洗礼を受けても変わらず問題が解決されていないとか、今までよりも周りから理解を得られなくなったとか、私たちにはいろんなことが誘惑となります。こんなことが起こっているのは私だけなのかという不安がよぎることがあります。それこそ、ルターのようにそうして神に対して腹を立てるというようなことも起こって来るのです。

 洗礼を受けた。良かった。そう思っている矢先、「するとすぐ」誘惑へと追いやられてしまうのです。けれども、それは主イエスもそうなのだということをマルコはここで書き記しているのです。しかもここに続いてこう記されています。

御霊はイエスを荒野に追いやった。

「御霊が・・・追いやった」というのはとても強い言葉です。神の霊が、洗礼を受けたばかりの主イエスを荒野へと追いやるのです。強制的にそこに置かれたというのです。

「荒野」、それは、荒涼とした寂しい所です。カラカラに乾いた地へ送り出されたということです。まるで、神に見捨てられているかのように感じるところへ強制的に追いやられる。洗礼を受けるまではちやほやしてくれたのに、洗礼を受けた途端、冷たくなったというようなことが連想できるのかもしれません。突然荒野に放り出された人は、そこで一人でその荒野の生活を克服しなければなりません。不安になります。心配になります。自分の置かれている状況に耐えられないと感じる時、人は「神よ、どうして」と叫びはじめるのです。

 先週、テレビのニュースで、九州で起こった大雨の災害のために自分の田んぼが川になってしまった人がインタビューでこう答えていました。「どうして神様はこんなことをなさったのだろう、自分には理解できない」と。自分の理解を超えた困難を目の前にするときに、それは、誰もが口にする言葉です。私たちもそういうときに考えるのは、「この出来事は神が引き起こしておられるのか」ということです。これは、神の裁きなのではないかと考えるのです。

 それは、大きな大災害でなくてもそうです。足を踏み外してケガをしてしまった時も、あるいは、スピード違反をして警察に高額な反則金を請求された時も、同じように、これは神の裁きなのではないかと考えはじめる。私たちは自分が体験した不都合な出来事を一つ一つ、これは神の裁きなのか、何かの刑罰ではないかとすぐに個々の問題について考え始めます。けれども、そういう時、私たちが忘れてしまっているのは、この世界は神の意思から離れてしまった罪の世界、神の裁きの世界に生きているということです。私にはこちらの方が問題に思えるのです。普段、問題を感じないで生活できている時は、神のことを考えることもなく、罪の自覚を持つこともなく、これが普通だと思ってしまっているのです。

 はじめ、神は天と地を創造されたとき、この世界は神の目にかなった麗しい世界でした。しかし、人が神から離れて、神の意思に逆らって生きている世界を選び取ったときから、この世界は神の意思に反している世界、罪の世界、神が忍耐しておられる世界なのだということを忘れてしまっているのです。

 「どうして神はこんなことをなさるのだろう」それは、ルターの問いと本質的には同じです。神は罪人をこらしめられる。どうしてなのか。そう問うことによって、私たちは自らの問題をどこかに忘れ去ってしまい、不当なことをなさる神に怒りを向けてしまうのです。

 「聖霊はイエスを荒野に追いやった」とあります。「荒野」、そこは確かに、神から捨てられた場所と考えるには十分すぎるほど寂しい場所です。けれども、主イエスはそこで「サタンの誘惑をうけられた」と続いて記されています。私たちの日常生活を考えて見ると、誘惑を受けるのは繁華街であり、街中、人の多い所です。そこには、さまざまな罪の誘惑が待ち伏せしています。お金、異性、お酒、繁華街にはありとあらゆる誘惑が手ぐすねを引いて待っています。しかし、聖霊は荒野に追いやるのです。何もないところで、人は何かに誘惑されるというのです。

 何もないところ、荒野で人が受ける誘惑とは何でしょう。少し考えてみたいと思うのです。祈祷会で先立ってみなさんにお尋ねしました。まず、最初に出てきたのは「食べ物」という答えでした。確かに、マタイの福音書はルカの福音書は「食べ物」を最初の誘惑として記しました。しかし、このマルコは「断食をした」とは書いていないのです。つまり、食べ物のことを意図してはいないということです。むしろ「野の獣とともにおられた」と記しています。そこにあったのは命の危険であり、それは自分で自分の身を守らなければならないという不安です。そこでは、自分しかあてになるものはありません。気弱になってしまって、自分を信じることが出来なくなる時、人はとたんに不安に陥ります。自分の内面を見つめる時、人は弱くなります。私たちが孤独の中で誘惑に直面する時、最も苦労するのは自分の弱さでなくてなんでしょう。そのこで、多くの場合、仕方がなかったとか、魔が差したとか、自分の意思が弱かったのだとして、その誘惑に付け込まれてしまう自分と私たちは向き合わなければならないのです。

 私たちは、自分にはどうすることもできない、外側からの攻撃に対しては、「神よ、どうして」と訴え、自分自身、その内面が攻撃されてしまうときには抗うことができずに、自分の弱さに嘆く。そういう二面性を持っているということが、私たちを苦しませているのです。これが誘惑の二面性です。

 ここで、主イエスに目を向けてみると、「御使いたちがイエスに仕えていた」と結ばれています。たとえ、命を脅かすような野の獣がいたとしても、神のみ使いが主イエスを守っていたというのです。だとすると、この御使いが私たちも守ってくれるということを、このマルコの福音書は私たちに気づかせようとしているというのでしょうか。恐らくそうではないのです。

 この短い主イエスの荒野の誘惑の出来事は、私たちにどのような福音を告げているのでしょう。今日の説教題を「荒野に立つ主」としました。この荒野に主イエスがいてくださる。そこから、主の歩みがはじめられたのだということこそが、私たちが知るべき主イエスのお姿なのです。

 「荒野」それは、私たちが生きている世界そのものです。私たちはエデンの園を追い出されて以来、誰もがこの世、この罪の世界、荒野に生きることを強いられています。私たちの毎日の歩みの中にはさまざまな誘惑があります。洗礼を受けたと言っても安心できないほど、毎日、私たちは試みを受けているのです。もちろん、その中で、主によって平安が与えられ、喜んで生きられるように導かれているということができると思います。しかし、それでも、私たちはこの罪の支配する世界で、自分ではどうすることもできないような、数々の出来事の中で、祈りながら生かされているのです。自分の不信仰を感じ、孤独を感じ、自分の弱さや罪の性質と向かい合わなければならない出来事が次々に私たちを襲うのです。

 その時、私たちが目を向けるのは、主イエスはこの荒野にいてくださるという事実です。主イエスもここで、この荒野で私たちと共に生きてくださる。そこで、私のことを知り、私のすぐ傍らにいてくださる。そして、御使いではなく、主ご自身が、私たちと共にいてくださって、私たちを支えて下さって、その荒野の中で力強く歩むことができるように支えていてくださるのだということに目を向けることができるのです。

 主は荒野に立っておられる。主はここに、私たちの生活の場に、共に立っていてくださる。ここに、私たちの慰めがあり、私たちの励まし、支えがあるのです。

 お祈りをいたします。

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