2017 年 10 月 22 日

・説教 マルコの福音書 2章13-17節「主イエスが見ておられるもの」

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2017.10.22

鴨下 直樹

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 少し間が空いてしまいましたが、今日からまたマルコの福音書のみことばを聞きたいと思います。この2章に入って5つの論争の出来事が記されているという話しをいたしました。今日は、2つ目の論争が記されているところです。けれども、ただ、主イエスが誰かと論争したというのではなくて、その前の13節と14節のところで、まず取税人のレビの召命の出来事が記されています。ですから、まずその所をみることから始めたいと思います。13節にこう記されています。

イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群集がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。

 ここに「また湖のほとりに出て行かれた」とあります。「また」ということは前にも行ったことがあるわけです。この前に湖に行ったと記されていますのは、シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネという漁師をしている弟子たちをお招きになった時です。そして、ここで主は再び、カペナウムの町から湖の方に出て来られたわけです。すでに、この湖の漁師であった人々が主イエスの弟子になって、カペナウムの町ではもうすっかりこの主の弟子たちのことは人々に知られていたはずですから、大勢の人々が主イエスのところにやってきたのもよく分かることです。そんな大勢の人々が主イエスの教えを聞く中で、主イエスの眼差しは一人の人に向けられていました。それが、アルパヨの子レビという収税人です。

 収税人というのは、当時のイスラエルはローマに支配されていたので、そのローマが通行税をかけるわけです。昔日本にあった関所のようなものを考えていただくといいと思います。その関所を通過する時に、荷物に税金をかけます。たいてい、こういう仕事はローマ人がやるのではなくて、地元の人間を雇って行います。ここに出てまいりますレビも、その名前から、ユダヤ人であったことがよく分かります。しかも、レビというのは本来神殿に仕える祭司の家系のことをレビ人といいます。そういう神様にお仕えしていた家系の名前を持つ人が、ローマのために、同胞であるユダヤ人から税金を取る仕事についていたのです。ですから、この取税人という仕事は同胞のユダヤ人たちから嫌われる仕事だったわけです。

 私たちでも、それこそ今日は衆議院選挙の投票日ですが、消費税を10%に上げるなどという話が出ています。いつの時代もそうですけれども、沢山税金をとられて喜ぶ人はあまりおりません。ですから、当時のイスラエルの人々はこういう人、ローマのために税金を取り立てるような人たちのことも「罪人」というくくりにひとまとめにして軽蔑していたわけです。

 ところが、主イエスは人々から「罪人」とみられて嫌われているようなレビをご覧になられて、「わたしについて来なさい。」とお招きになられたわけです。人々が「罪人」として軽蔑している人を、主イエスは他の人と同じようには見られないで、全く別の目で人をご覧になられているということがここに書かれているわけです。

 そうすると、このレビはこの主イエスの招きに対して「立ち上がって従った」と書かれています。レビのどこをご覧になられたのか書かれていませんので、いろいろ想像するしかないわけですが、野球のドラフトのように、将来有望な弟子になるに違いないと思って招かれたのでしょうか。そうであった可能性も否定できませんが、おそらく、その人そのものの中に光るものを見出したとか、隠れた才能を見出されたというよりは、むしろ、そこに主イエスの性質があらわされているのです。

 神の選びなどというときもそうです。私たちがクリスチャンになったのは、きっと神様が私の隠れた才能を見ぬいておられて、だから、私をクリスチャンになるようにしてくださったと考えると、なんだかちょっとうれしい気持ちになるわけですが、主イエスの回りにいた人々のことを考えてみると、決してそうではなかったということが分かるわけです。

 主イエスの弟子となった人々を見ても、もっと優秀な人はいくらでもいたと思います。この人は後々すごい人物になるということで、主の弟子として召されるのだとしたら、もう少し他の選択肢はあったはずです。けれども、まさにこの弟子たちから見て分かるように、小さな者に目をとめられるということこそが、主イエスの眼差し、視点なのです。

 そのことを示すように、この後の15節から17節でパリサイ派の律法学者たちが登場してまいります。この時、レビは、主イエスが自分を招いてくださったことがとても嬉しかったのでしょう。同じような取税人仲間、あるいは「罪人」と人々からレッテルを張られている人たちを、主イエスと一緒に食事に招いたのです。その時に、聖書に書かれていることを忠実に行おうとしていたパリサイ派と呼ばれる人たちの律法学者が、主イエスに対して疑問を投げかけたのです。16節にこう書かれています。

なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。

 パリサイ派の律法学者は聖書に記されている神の戒めをきちんと守り行おうとしている正しい人です。ひょっとすると、このパリサイ派の人も主イエスの語る言葉に喜んで耳を傾けていたのかもしれません。心惹かれる教えがあったのだと思うのです。そうやって、主イエスの教えを聞くのを喜んでいると、目の前に、違和感を覚える光景を目にしたのです。つまり、パリサイ派の人たちは普段、「罪人」と呼んで関わりを避けている町の悪い人、神さまの律法、聖書に対して真剣に生きようとしているとは思えない人たちと、主イエスが一緒に食事をしているのを見て面白くないと思ったのです。そして、ここから、このパリサイ派の律法学者と主イエスとの論争が起こるわけです。

 私たちが聖書を読む時にパリサイ派とか、律法学者という言葉を見つけますと、私たちはすぐに、ほとんど自動的に、「あっ、この人たちは悪い人だ」と考えます。「神様のことを悲しませる人だ」と考えるわけです。ですから、この後で主イエスが語られる「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」という言葉を聞くと、どこかで胸がすっとするような、意地悪な人をやっつける水戸黄門の印籠が出てきたような気持でつい読んでしまうのではないかと思うのです。

 これは、こういう話です。教会のみなさんとバスを借りてリンゴ狩りに行きました。バスを降りると、みんなで喜んでリンゴ園に入っていきました。同時に何台かのバスが到着したので、リンゴ園の方が、少しお待ちくださいと声をかけて、後から来たバスのお客さんに対応しています。すると、後から来たバスの人たちがまだ係の人の説明が始まる前に、勝手にリンゴを取って食べ始めてしまいます。長老や、執事の方々がこれはよくないと思って、後から来た人に注意します。「今、係の人がちょっと待って欲しいと言って席を外しているので、まだリンゴを食べてはだめです。少し係の人が来るまで待ってください」。ところが、この人たちは人の忠告も聞かないで、リンゴを次々にもいで食べ始めます。後から来た人たちも、もう食べてもいいのだと思って次々に食べ始めてしまって、芥見教会の人たちだけが注意を聞いて食べないで待っていたのです。その時に、イエスさまが登場します。そうすると、芥見教会の人たちの前を通り過ぎて行って、リンゴを食べてしまっている悪い人たちと一緒にお弁当を開いて食べながら楽しそうに語りあっている。これは、そういう話なのです。

 おそらく、まじめな芥見教会のみなさんはとても複雑な気持ちになるのではないでしょうか。気の短い方だと、イエスさまのところに直接文句を言いに行く人もいるかもしれません。「リンゴを食べないで我慢していた私たちの前を通り過ぎて行ってしまうとは何事ですか。ちゃんと待っていたのは私たちの方です」とイエスさまに言うと、イエスさまは私たちにこう言うのです。

「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」

 こういう話を聞いて、納得して「ああ、さすがイエス様はちがうなぁ、慰められるなぁ」と考える人がどのくらいいるでしょうか。もし、こんなことが私たちの目の前で起こったとしたら、「もう次の週からまじめにやるのはやめよう」ということにならないでしょうか。もう教会に行くのをやめにしようと思う方が出るかもしれません。けれども、ここで主イエスがしておられることはそういうことなのです。

 私たちは、パリサイ派とか律法学者と聞くと、すぐに、悪い人たちで神様を悲しませている人だと考えてしまいますが、この出来事の中で、パリサイ派の律法学者は何か間違ったことをやったでしょうか。何も、変なこと、神さまを悲しませるようなことはしていないのです。けれども、こういう話しの中でこそ、主イエスがどのようなお方なのか、何をなさろうとしておられるのかが、よく分かるのです。

 人は誰でも、正しいことが行われることを求めます。ずるいことをすることが良いことだと考えている人は多くありません。だから、悪いことをする人を見ると、心を痛め、あるいは敵意や憎しみを覚えます。

 自分はきちんと聖書に従って生きて来たという人にしてみれば、ここで、主イエスのしておられることはむちゃくちゃなことに映るわけです。明らかに「罪人」、神さまの教えに逆らっている人に対して、主イエスは正しい人を通り過ぎてでも、この罪人と差別されている人たちの方に心を向けておられるのです。

 もちろん、主イエスは神を悲しませることをこのままどんどん続けていいと思っておられるわけではないのです。でも、誰かが、その罪人のところに入って行って、何が悪いことなのか教える人がいないかぎり、この人たちは自分の誤りに気づくチャンスさえないままなのです。だから、主イエスは、自分が誤解されることも恐れないで、この取税人や、町の人たちから罪人と呼ばれている人たちの友となるために、自分が非難されることを覚悟の上で、その人たちを招こうとなさるお方なのです。

 主イエスの示される愛というのは、正しいことをやった人を良くやったねと褒めてあげる愛ではなくて、ちゃんと出来ない人の中に入って行って、あなたはちゃんとできるようになるのだからね、とその人に寄り添って語りかける愛なのです。

 不思議なもので、私たちは、はじめは自分もちゃんとできませんでした。私を助けてくださいと思いながら主イエスに近づいても、いつの間にか、自分よりもできない人を見つける。自分よりも神さまのことを悲しませる人を見つけるとあの人はあんなに悪い人だと言いつけたくなる。そうやって、自分の正しさを主張しようとしてしまうのです。しかし、私たちがみあげなければならないのは、主のお姿です。主イエスはどうなさったのかであって、私たちがどれほどちゃんとできているかということではないのです。

 私もレビです。私もレビと同じで、神さまを悲しませるような生き方をしてきました。けれども、主イエスが私を招いてくださるのであれば、私も主に従って行きたいですと、このレビのように、主の招きに応えて生きる事を、主は私たちに求められているのです。

 お祈りをいたします。

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