2009 年 10 月 4 日

・説教 「バベルの塔 ー 言葉の届く喜びー 」 創世記11章1節-9節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:58

鴨下直樹

 私事で始めて大変恐縮なのですが、今週でドイツから帰国して一年が経ちました。時々、こんな質問を受けることがあります。 「日本に戻って来て何か違いがありますか?」というものです。その度に、私は心の中で思うのは、「日本は言葉が通じるからいい」という思いです。まだ、私たちがドイツで生活し始めて間もない頃の事ですけれども、通っていた教会のお年寄りの方々が、言葉がまだあまりできない私たちに向かってこう言ったことがあります。「バベルの塔のせいで言葉が通じなくなってしまったのは残念ね。だけど、天国では十分に話し合うことができるから楽しみだわ。」と。 もちろん、三年半という期間ドイツに住んでおりましたので、最後の方はだいぶ苦労もしなくなってきましたけれども、十分とは言えません。けれども、言葉が通じるという経験は、本当に大きな喜びとなりました。 ですから、こうして日本語でお互いにストレスなく話すことができることは、私にとって本当にありがたい事です。けれども、同じ日本語を使いながら、普段からよく話していても、言葉が通じるとは言えないということも同時に考えさせられています。

 先週の月曜日のことです。名古屋にあります日本基督教団の金城教会で、全国で説教を学ぶ牧師たちを指導しておられる加藤常昭先生をお招きし、私も所属しております中部説教塾の講演会が行われたので、参加してまいりました。ここでは、いつもひたすらに、神の言葉が人の心にどのようにして届くのかということを考え続けています。この説教塾というのは、私が初めて集わせていただいた15年ほど前は東京と名古屋にしかなかったのですが、今では北海道から沖縄まで、各地域でこの説教塾が開催されるようになっています。と言いますのは、それほどに、全国の牧師たちが同じ悩みを持っているということなのです。どの牧師も言葉が届かないと感じているのです。

 その講演でも加藤先生が話されたのですが、神の言葉を聞いた時に、人の中で何かが起こる、これを「出来事」という言い方をしますけれども、ドイツ語では「事件」などと訳すこともできる言葉です。この神の言葉を聞いた時に、私たちの心の中でただならぬ出来事となる、私たちの中で、ちょっとした事件を引き起こすのです。ある人は悔い改める。あるいは慰められる。あるいは、これからどのように生きればよいのか教えられる、などその出来事は様々です。けれども、何も起こっていないとなると、それは言葉が届いていないからと言わざるを得ないのです。

 

 昨日も教会でぶどうの木の句会が行われました。俳句の会です。そこに集っている方に、昨日も、「先生はこの句会の後には、必ずそのことを説教に話されていることにお気づきですか?」と言われました。そのことは昨日は話しませんでしたけれども、気づいているというよりも、私は実は意図してそのことを話しているのです。今日も少しお話したいと思っているのですが、先週、私は一冊の本を頂きました。辻恵美子句集、萌葱(もえぎ)という題がつけられた俳句の書物です。萌葱色の大変綺麗な装丁の本です。今、角川書店から、角川21世紀俳句叢書が刊行されておりまして、まだ全て刊行されていないようですけれども、この芥見教会の教会員でもある宮崎恵美子さんがこの夏に出されたものです。辻という苗字は俳句の時に使われている名前だということですが、昨日も句会でお話したのですけれども、この本のあとがきに、この場合は辻さんが、と言った方がいいと思いますけれども、こんなことを書いております。 「神の被造物の美しさを俳句に詠むことができる恵みに感謝しつつ、今後も物をまっすぐに見、俳句していきたいと思います。」この言葉は帯にもそのまま使われております。「神の被造物の美しさを俳句に読む」。私はこれを読んだ時に、すぐに思ったのは、辻恵美子さんの俳句というのは、神は天地を創造された時、神はそれをご覧になり、非常に良いと言われた。その神が非常に良いと言われたものを、自分も自分の言葉で詠みたいということだと思いました。

 神が私たちに与えてくださったものを、自分の言葉で言い表すという作業は、まさに信仰の作業です。それは、神への賛美以外のなにものでもありません。そこには、神が自然というものを通して語りかけてくださったことが、恵美子さんの中で出来事となっているのです。そして、その応答として俳句ができるということなのでしょう。ですから、この句集を私はいただきまして、本当に新しい思いで俳句に触れさせていただいています。

 

 これは、言葉が通じている時に起こることです。神の語りかけに、耳を傾けている時に起こる、一つの神への応答の姿です。けれども、今日の聖書の個所では、そのような神の語りかけに対して、全く間違ってしまった人間の姿が描き出されています。それが、バベルの塔の出来事です。この物語はこのように語り始めます。

 

 さて、全地は一つのことば、ひとつの話しことばであった(11章1節)

 

 面白い聖書の箇所です。それまでの世界は一つの言語であったというのは、今日の世界から考えると、ちょっと創造することの困難な事柄ですけれども、創世記は、アダムとエバから世界が始まったとしているのですから、当然です。この創世記はここで、今日には、世界に様々な言語があるけれども、それはいったいどうしてなのかということを、説明しようとしています。そして、それもまた人間がもたらした罪の結果であると語るのです。

 これは、今の日本ですとあまり実感が湧かないかもしれませんけれども、陸地で他の国とつながっている国では常に言葉が通じないということが大きな壁です。たとえば、ドイツ人は一年の間に六週間を休暇として過ごします。毎年、そのような長い休みを取りますと、ドイツ国内ばかりというよりも、近隣の外国に出かけます。そうすると、すぐに言葉の問題が生じます。英語ができれば、とりあえずどこの国にでも行けるのですけれども、誰もが英語を話せるわけではありませんから、英語ができない人はドイツ語の通じるオーストリアとかスイスとか、言葉が通じるドイツ寄りのベルギーとかオランダなんかに行くのです。車で二時間走ると、もう全く言語が異なる国という感覚は、私にとっては不思議な経験でした。

 「一つのことば、一つのはなしことば」の世界というのは、言葉が通じる世界です。お互いの思っていることが、相手にしっかりと聞き届けられ、受け入れられる世界です。ところが、このような素晴らしい世界にいたはずなのに事態が変わっていきます。

 

 この後の聖書をみると、東のほうから移動してきてシヌアルの平地に住み着いた人々はれんがを焼くようになった。そして、彼らは言います。

 

 「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地にちらされるといけないから。」(11章4節)

 

 この時の権力者は創世記10章に出てきたニムロデだと考えられています。9章10節に、「彼の王国のはじめは、バベル、エレク、アカデであって、みなシヌアルの地にあった」と書かれているところからも分かります。

 権力者ニムロデはシヌアルの地に頂が天まで届く塔を築き上げ始めたのです。その理由はこうです。「頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地にちらされるといけないから」。

 ニムロデは自分の名をあげたかったのです。そして、自分がどれほどの権力を持ち、どこから見ても分かるほどの巨大な塔を建て上げ、自分の偉大さを知らせるとともに、人々がそこに集まってくるようにと願ったのです。自分の名をあげる。ここには、神のことを完全に忘れた世界があります。神の言葉が、もはやこの世界には届かないのです。

 関根正雄という無教会の指導者がおりました。昔岩波の文庫本で旧約聖書を訳したことで知られている人で、旧約聖書を専門にしています。この関根正雄が創世記1章~11章までの創世記時代講解という分厚い書物を記しました。この本の中で関根正雄は、このバベルの塔の出来事は、文化の持つ危険を語っているのではないかと書いています。この11章で「文化それ自体は許されたものなのですが、文化には非常に自己中心的な、あるいは神に反抗する本質的な危険があるということが言われている」のではないかと言うのです。 この本に書かれていることを簡単に言いますと、文化というのは、人間が自己満足を生み出すことができる世界なので、そこで満足した人間は神の方にはいかなくなって、ひそかな誇りというものを持たせる。このひそかな誇りを持った人間は、本当の自分の姿ではないのに、そこで満足してしまうからちゅうぶらりんのままの人間にしてしまうのではないか、と言っているのです。

 誰の目から見てもすぐに分かる大きな建物を建てる。これが自分の生きている世界であると、本当は自分は何も変わっていないのに、大きな建物の中にいるだけで、何だか自分が偉大な人物になった気がしてしまうことになる。この本が書かれたのは今から25年も前のことですけれども、恐ろしいほどに現代の世界の罪をしっかりと見抜いていると思います。

 そのような世界で、「ひそかな自分の誇り」と、関根先生は名付けられましたけれども、自己満足を見つけてしまった人間は、神の言葉が耳にはいらなくなる、むしろそのような言葉はうるさくしか聞こえなくなってしまっているというのです。そうなると、自分で自分の聞きたい言葉しか捜さなくなるのです。そのような人間の思いが、「われわれが全地に散らされるといけないから」という4節の言葉の中に秘められているのです。

 

 このように、ひそかな満足を見出した人間は、壮大な世界で生活しているように見えて、実に狭い世界で生きているのです。時々ニュースなどで、都会で生活している若者が突然何かの犯行を犯してしまうなどというのを私たちは見ます。華やかな、都会での生活に憧れて大都市に行ったのでしょう。けれども、そこで話す相手も見つからず、自己満足だけの実に狭い世界で生きているという姿は、何も現代に始まったことではなく、世界が創造されて人々が歴史を作り始めた時にもうそんなことは始まっていたのです。

 神の言葉が届いていないのに、自分が本当に聞かなければならない言葉を失っているのに、そのような生活の中で、ひっそりと自己満足を持って生きる。それは、関根正雄先生が言うように、ちゅうぶらりんな生き方でしかないのです。地に足がついていないのです。それは、すでに言葉を失った世界以外の何物でもないのです。それなのに人々は、自分はこれほど大きな文化都市で生活しているのだと誇っている。けれども、大きな建物ばかりを見ているうちに、自分がどこにいるのか見えなくなっている。そして、そんな自分の姿にさえ気が付いていないのです。

 そのような時に、主は何をなさったのでしょうか。5節にこう記されています。

 

 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。(5節)

 

 ここにも、神の強烈な皮肉が語られています。バベルの塔と後に呼ばれるようになったこの塔は、人間たちは天にも届くほどの大建造物と誇っている。われわれの力は神にも及ぶと誇っている人間を尻目に、神は、「さて、何やら人間たちがやったというものでも見に行こうか」とでも言わんばかりに、わざわざ天から降りて来られたというのです。天からでは見えないほど小さなそれを神は見るために重い腰をあげて、わざわざ見に来られた。何という神の皮肉かと思いますけれども、私たちのやれる大事業というものは神の目からすればそれほどのものにすぎません。けれども、私たちはそういうもののために、自分の人生を注ぎこみ、自分で満足してしまって、いつのまにか誰とも言葉の通じない世界で生きてしまうのです。 

それで、神は言われます。

 

 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」(6節、7節)

 

 こうして、世界は言葉がお互いに通じ合わなくなってしまったのだと創世記は私たちに語ります。神の言葉を拒んだ人間は、ひそやかな自己満足の世界のとどまることを選びとり、結局孤独な存在となっていったのだと聖書は私たちに語りかけているのです。

 

 今日、私たちはこの創世記に先立って、もう一か所の聖書の言葉を聞きました。イザヤ書55章6節~11  節です。

 

 主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。わたしたちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。

 –主の御告げ– 

 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。

 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしくわたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。(イザヤ書55章6節~11節)

 

 

 私たちの神、主は私たちと出会いたいと願っていてくださる方です。私たちと語り合いたい、言葉を交わしたいと思っておられるお方です。そしてそのお方の言葉は、ただ発せられたということに終わりません。何かが起こるのです。初めに神は言葉によって世界を創造されたように、主が語られると、このイザヤ書の言葉にあるように何かが起こる、出来事となるのです。主の言葉が私たちの身に起こるのです。 そして、それは私たちの思いを超えた出来事となります。

 

 ドイツにいた時に、最後の半年間は教会で実習をいたしました。その間、ドイツ語で説教することを求められました。日本語でも難しいのにという言い訳は通りません。私は自分の説教の原稿をまず日本語で書きまして、そこからドイツ語で書いた文章と両方持って、日本で宣教師をしておられたヘルガー・タイス先生のところに尋ねていきました。日本の生活が30年以上に及ぶ先生ですから、私の考え方を非常によく理解してくださいます。そうやってできた原稿ですが、私たちに住まいを提供してくれていた友人にも見せました。この原稿で説教しようと思うんだけれどもというと、彼は私のドイツ語見て言いました。こんなドイツ語はない、と言うのです。文法上は合っていても、ドイツ人はそういう風には言わないといって、その原稿をドイツ人の表現に直してくれました。それを見て私は不安になりまして、最後に教会の牧師夫人に見せました。ドイツでは牧師夫人というのは神学校で学んでいるというケースは日本ほど多くありません。幸いなことに私が実習をした教会は、日本に宣教師として来ていたクノッペル先生が当時牧会していましたので、奥様のクラウディアさんはだいぶ日本語の方は忘れてしまっておりましたが、私の原稿をもう一度、自分の教会の人々に語るならもっと違う表現の仕方があると、さらに手を入れてくださいました。

 完成した私のドイツ語の説教原稿は、初め三枚半で会った原稿が六枚になり、私が最初に書いたものは痕跡も見当たらないくらいの美しい原稿になりました。けれども、いくら原稿のドイツ語が正しくても、それで説教ができるというわけでもないのです。正しく発音することができなくては意味がありません。私が教会で説教をいたしますと、教会に熱心に来ている引退された牧師がおりまして、この老牧師が私の説教を心配しながら、私が一つの単語をうまく発声することができず、私が読み間違いますと、それを説教の間中、彼が大きな声で後ろを振り返りながら言い直してくれるのです。「彼は本当はこう言いたいのだ」と言わんばかりにです。そんなことが説教の間続くのです。私は説教すればするほど、何だかやりにくくなりまして、本当に情けない気持ちになってきました。説教が終わりまして、もう誰の顔も見たくないような気持ちで、教会から逃げ出したいような思いでいたのですけれども、ある老婦人が、すぐに私を呼びとめました。「ありがとう」と言われたのです。「私は今日、主の御言葉を確かに聞いた。そして悔い改めさせられた」と。

 私のような拙い発音も間違いだらけのような外国人の説教であっても、聞く人に神の言葉として届いたというのです。私はこの時の感動を忘れることができません。

 「わたしの口から出ることばも、むなしく、わたしのところに帰ってこない」と主が言われるのです。主の言葉は、混乱を意味するバベルではありません。主の言葉は、出来事、事件を引き起こすのです。この言葉が、今日、あなたの中で何かを引き起こすのです。私たちはこの世の与える、ひそやかな満足によって生きているのではありません。私たちは、この主の言葉によって生きるのです。その神の言葉こそが私たちを生かす力なのです。

 

 お祈りをいたします。

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