2017 年 11 月 26 日

・説教 マルコの福音書3章7節―19節「大衆と弟子たち」

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2017.11.26

鴨下 直樹

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 先週の日曜日教会で子ども祝福礼拝をいたしました。その後で、少し前から気になっておりました村上進さんのお父さんの村上伸先生のお宅を訪ねて小さな聖餐の集いを持ちました。

 村上伸先生のことをあまりご存じない方も多いかもしれません。日本基督教団の安城や岡崎で伝道なさって、最後は東京の代々木上原教会で牧会をなさっておられた先生です。退職されてからは、岐阜の池田町に住まわれて、執筆活動などを続けて来られました。福音派という言葉を私はあまり使いませんけれども、福音派の中ではそれほど知られた先生ではなかったかもしれませんが、日本のキリスト教会では本当に大きな貢献をなさった先生です。

 特に、ディートリッヒ・ボンヘッファーの研究家として、さまざまな翻訳をしてくださいましたし、ドイツの色々な神学者たちの著作を日本語に訳してくださって、大きな貢献をされた先生です。少し変な言い方かもしれませんけれども、私には雲の上のような存在の先生でしたので、気軽に訪問するというようなことも、あまり考えていなかったのですが、もう長い間聖餐をされていないのではないかと、急に思い立ちまして、この日曜日の夕方にお訪ねしたのです。

 今週の木曜日、祝日の日でしたが、夕方に進さんからお電話をいただきまして、伸先生が亡くなられたと聞きました。本当に、日曜日にお会いした時にはまだ、顔色も良さそうでしたので、できるだけこれからは訪問をさせていただこうと思っていたところでしたので、本当に言葉も出ないほど驚きました。そして、昨日、葬儀をいたしました。家族の方々とごくわずかな方だけの小さな葬儀でしたが、よい葬儀であったと思います。

 その葬儀でもお話したのですが、村上先生が献身の召命を主から受けたのはまだ18歳。高校生の時です。青森の八戸という町で伝道しておられた渡辺牧師がさまざまなところを訪問する時に、伸先生は一緒に連れられていったのだそうです。そうしているうちに、自分も牧師になりたいという思いを持ったのだそうです。けれども、家は貧しくて、牧師になって食べていくことができるだろうかということが心配で、親に話すことができずに思い悩んでいた時に、天からの声を聞いたのだそうです。その声は「死ねばいい!」という声だったのだそうです。気のせいだったかもしれないけれども、確かにそう聞こえたと自伝の中に書かれていました。そして、青森から東京にでて神学の学びをして、牧師になったということでした。

 この「死ねばいい」という言葉を、主からの召命の言葉として聞いて牧師になったというのを本で読んだときに、私はとても驚きました。そういう話はこれまで聞いたことがないのです。「食べていけないのであれば死ねばいい」。そのように、神さまに語りかけられたというのです。この言葉を村上先生は、「神はそのようになさらないのだから」という意味で受け取ったのだと思います。そして、文字通り、神さまにその人生を託してこられたのだと思います。

 臨終の祈りのために、先生が亡くなられた木曜日に、池田町の先生の自宅を訪ねた時に、奥様の雅子先生が私に思い出をお話しくださいました。村上先生はドイツで何年か学ばれていた時に、雅子先生は日本の大学で仕事を得て、ご夫妻で別々の地で生活をしておられたようですけれども、ドイツのボンヘッファーが捕らえられていたという独房を訪れた時に、伸先生にこんな質問をなさったのだそうです。「どうして、このボンヘッファーはナチスに捕えられてこんなところでの生活を強いられても、希望を持ち続けることが出来たのでしょう」。そうすると、村上先生はこう答えられたのだそうです。「生きている時も、死ぬ時も、主と共にいることを知っていたからだ」と。

 これは、ハイデルベルク信仰問答の問いの一の言葉です。こういう言葉です。

問一 生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか
答 わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。

 わたしの体も魂も、生きている時も死ぬ時もキリストのものとなっている。だから、どんな状況でも望みを持ち続けることができる。これは、教会が告白し続けてきた信仰の告白の言葉です。この信仰にボンヘッファーは生きた。だから、大丈夫だったのだと言われたのだと私は思います。ボンフェッファーだけでなく、村上先生もその信仰に生きておられたのだと思うのです。

 今日、どうしてこの話から説教をはじめたのかといいますと、今朝、私たちに与えられているみ言葉は、主イエスの十二弟子を任命なさったところです。主イエスの弟子となるということは、その体も魂も、もう自分のものではなくて、主イエス・キリストのものとなったということです。主はそのように、はじめ12人の弟子を御許に集められて主の伝道のために人を召し出して、その働きにつかせました。それは、今日においても同じです。

「死ねばいい!」主にそのいのちを任せたらいい。そうやって生きたら、そのいのちはまさに主イエスに捉えられた者としての一生を生きることになるのだということなのです。

 この数日間、村上先生のご家族と共に時間を過ごす機会が与えられました。みなさん、本当に驚く程に明るいのです。本当に、賑やかです。自分が葬儀のためにここに来ているのだということを忘れるほどに、みな喜びに支配されています。これほどまでに明るい家族があるのかというほど、誰もが明るいのです。村上先生も、先生の二人の子どもたち、またその孫に至るまでキリスト者の家族です。だから、みなが知っています。亡骸となったとしても、その体も魂も、自分のものではない、主のものであるということを誰もが知っているのです。主を信頼する者の家族は、家族の死に際しても喜びがあふれる。そのことを味わうことができました。

 今日の箇所はとても面白い箇所なのです。7節から12節までのところは、主イエスは群衆から逃げるために舟に乗り込んで行ってしまわれたということが書いてあるところです。ところが8節にこう記されています。

エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大勢の人々が、イエスの行なっておられることを聞いて、みもとにやって来た。

 まわりの地域の町の名前を一つ一つ上げながら、多くの人たちが主イエスのところに押し寄せて来たのだと書かれているのです。多くの注目を集めて、群集は主イエスを求めている。しかし、主イエスはその群衆から身を隠すように逃げておられるというのです。

「大ぜいの人々」という言葉が、7節にも8節に9節にも出てまいります。ギリシャ語では「プレートス」という言葉で「多数者」という意味の言葉です。大勢の人々という場合、そこには個人というのは姿が隠れてしまいます。「大衆」を表す英語で「マス」という言葉があります。マスコミとかマスメディアという時に使うマスという「大衆」を表す言葉です。これも面白い言葉ですが、もともとはギリシャ語のマツァというパン粉を捏ねて作ったものが語源なのだそうです。一つ一つ形がなく見分けがつかないものと同時に、それらが集まったものがマスという言葉の由来なんだそうです。

 ここで大勢の人々はどのように描かれているかというと、10節で説明されていますが、主イエスが多くの人を癒されたので、自分も癒されたいという動機があったとみることができます。これは、それまでマルコの福音書が描いてきた人々の姿です。個々にはさまざまな願いや求めがあるのですが、そういうものが一つに集まって、自分の願いを叶えて欲しい人という集まりになってしまっています。これに対して、マルコの福音書は一貫して、主イエスはそのような大衆に関心を寄せておられないのです。

 なぜなら、主イエスは一人一人を見つめてくださるお方だからです。そのひとりひとりには名前があるのです。シモンにはペテロという名前を与えたと書かれています。ゼベダイの子ヤコブとヨハネには雷の子「ボアネルゲ」という名前を付けられた。アンデレ、ピリポ、バルトロマイ。みんなそれぞれに名まえがあるのです。そして、主イエスはその一人一人と向き合って、語りかけられて、そういう一人一人が主イエスと出会って生き方が変えられていくことを願っておられるのです。

 主イエスの十字架はみんなのための死ではなくて、あなたのための死であったということなのです。わたしたち、ひとりひとりが、その体も霊も主と出会って、主にその身をゆだねることを通して、その人とともに生きてくださるのです。

 14節に「イエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、・・・」と記されています。主の傍らに弟子たちを置いてくださるのです。自分の側に置くのは、自分から学ばせるためです。病気が治ってそれで終わりではないのです。その人が本当に喜んで生きることができるようになるために、身近に置いてどう生きるのか、その生きざまを見せてくださるのです。そして「福音を宣べさせ」と続いて書かれています。良い知らせを語ることができるように訓練してくださる。良い知らせというのは、キリストと共に生きるようになって、どんなに明るく生きることが出来るようになったか、どれほど自分の生活が変えられたのか。その喜びを人に語ることができるようにしてくださるというのです。

 そして、「悪霊を追いだす権威を持たせる」とあります。奇跡ができる力を与えたとは書いていません。病気がなおせるようにしたということではありません。悪霊に支配されている、神に心が向かわないで、神に敵対して生きることに心を奪われている人に、そこから自由になる道がひらけることを示すことのできる権威を与えてくださる、と書かれているのです。

 悪の力、それは悪の支配のもとに生きるということです。神を悲しませる支配の中に身を置いているということです。それに立ち向かう権威というのは、神の支配に生きることができるようになるということです。つまり、神の国の福音を告げる主イエスのことを知らせるために、「権威を与えられるということです。これからは、あなたも神の支配の中に生きることができるようになるのだから、主を知って欲しい、主と出会って欲しい。そう語ることができるように、その力を与えてくださるというのです。

 キリストと出会うなら、人は変わることができます。シモンやヨハネ、ほかの弟子たちが変えられたように、私たちも変わることが出来ます。村上先生が主と共に生きるようになられたことで、家族が本当に明るい家庭でいられるように主は変えてくださいます。主と出会うならば、その人は変えられます。主は、私たち一人一人に出会いたいと思っておられるお方です。

 大勢の人に呑み込まれて生きることを主は願ってはおられません。主は私たち一人一人を知りたいと思っておられるお方です。そして、この主の弟子として、主と共に歩むものとなることを主は願っておられます。その時、わたしの身も、魂も、わたしのものではなく、生きている時も、死の時も神のものとされている幸いが、私たちを包み込むようになるのです。

 お祈りをいたします。

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