2017 年 12 月 24 日

・説教 ルカの福音書2章1-20節「クリスマスの主役は誰?」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 13:58

2017.12.24

鴨下 直樹

 昨日、子どもの通っている幼稚園のクリスマス祝会が行われました。年長組は、毎年クリスマスのページェントを行うことになっています。劇と歌でクリスマスの物語を演じるのです。十数人の子どもたちですが、小さな学年の時から上の子どもが演じるのを見ながら、私はマリアをやりたい。天使をやりたい。東の国の博士をやりたいと、いろいろ子どもなりに夢をふくらませているのです。でも、自分のやりたい役に、何人も希望者がでると残念ながら、自分が希望していない役であっても受け入れなければなりません。

 そんな時に、娘がこんなことを言いました。「クリスマスの主役はマリアさんでしょ」と言うのです。確かに子どものページェントでは特に女の子には人気のある役ですから、そう考えても不思議ではないのですが、でも、主役となるとどうでしょうか。単純に言えば、この日誕生されたイエスさまが主役ということになるかもしれません。けれども、イエスさまはここではセリフもありませんし、主役というには少し寂しい気もします。

 クリスマスには様々な人が登場します。マリアにヨセフ、東方の博士たち、羊飼い、天使ガブリエル、荒野で賛美をする天使たち、ヘロデ王に、ヘロデに仕える学者、宿屋の主人。クリスマスの劇をするならそのくらいでしょうか。誰が主役なのか。そんなことを問うまでもないほどに、それぞれにドラマがあります。

 先ほど、短いスキットをしていただきました。マリアとヨセフが住民登録のために故郷であるベツレヘムを訪れました。マリアは身重になっていて、そこにいる間に月が満ちたとありますから、お腹ももう大きかったことでしょう。妊婦でありながらナザレからベツレヘムまで旅をしているのです。距離にして約120キロ。その長い距離をロバに乗ったでしょうか。身重のマリアが夫に支えられて旅をする。それだけでもかなりのドラマです。そうやってようやく着いたベツレヘムでは、どこも部屋がいっぱいで、断らなければならない宿屋の主人にも現実的な問題があったと思います。泊めることができませんと断ったのも、決して意地悪ではなかったでしょう。けれども断った相手は妊婦です。実際問題として部屋は他の人で埋まってしまっているのです。どうしようもなかったのです。

 「飼い葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」と7節にあります。ですから、昔から多くの人は、きっと宿屋の主人が可哀想に思って、家畜小屋に泊まらせたのではないかと想像しました。飼い葉おけ。つまり、家畜のえさ入れです。そこに生まれたばかりの新生児を寝かせるということは、想像しにくいのですが、せめてもの宿屋の主人の気持ちがあったのではないか。そう読み取ることができます。この聖書の時代も今とまったく変わることなく、それぞれが自分の人生を必死で生きているのです。

 クリスマスの物語というのは、そういう現実的な生活の中に、神が赤ちゃんの姿となって入ってこられたこと。そこにメッセージがあるということができます。

 私たちは毎日、心のゆとりをなかなか持てない日々を過ごしているのかもしれません。そんなところに、神が入り込む余地がなくなってしまっている。本当は、だからこそ神様がその生活の助けになりたいと思っておられるのに、家に入れる余地がないのだとすると、クリスマスというのは、人にとって何と悲しい日であるかと思うのです。

 8節からは荒野で羊の番をしている羊飼いが出て来ます。この人たちはだれからも忘れられた人たちです。この時代、夜も家畜と共に生活するというのは、雇い主に雇われた人でした。みなが、夜は家で休んでいる時に、外に追いやられてしまった人です。

 夜も外で動物と一緒に生活する。もちろん、羊飼いたちですから、羊を可愛がっていたと思います。けれども、暗闇の世界で獣を見張りながらいるというのは、とても多くの苦労があるのだと思います。

 私がドイツに住んでいた時、時折夜に長い距離を運転して家に帰って来るということがありました。長距離を走っているとよく感じるのですが、人があまり住んでいない道を何時間も運転することがあります。森を抜ける道というのは、高速道路でもそうですが、暗いのです。そんな時に、時々小さな町が近づくとその光にホッとします。ずっと山の間の暗い道を走り続けていると、町の光が嬉しいのです。

 この羊飼いたちとって、闇の中で突如として天からまばゆいばかりの光がこぼれ落ち、天使たちの歌声とともに救い主の誕生の知らせがもたらされたことはどんなに驚いたことか、そして、どれほど嬉しかったことでしょう。そんなことを考えて見ても、ここにもクリスマスの神からのメッセージがあるように思います。

 私たちは、私たちの人生の主役として生きています。筋書きはその都度その都度書き換えられます。悪いように進むこともあれば、良いように進む場合もあるでしょう。そういう私たちがクリスマスをお祝いします。クリスマスの意味を考えようとしています。神が人の世界に赤ちゃんとしてお生まれになるというのはどういうことなのかと、考えるのです。

 神は、私たちの人生に無関心ではおられません。闇の中にいることも、心のゆとりがなくなってしまうこともあるのが、私たちです。そういう私たちの中に、神はイエス・キリストを生まれさせたのでした。それは、私たちが毎日、忙しくて心に余地がなくなっていくようなときにも、夜の闇の中を誰も気が付いてもらえないで悲しい夜を過ごすことがあったとしても、そこに神は入り込んで、そこで新しい何かを始めようとしておられるのです。私たちは自分の人生の主人公として生きています。そこに神が入り込んでくださって、その人生を書き換えてくださるのです。神なしの人生から神とともにある人生へと。そのあゆみは、闇の中に光が照り輝くような人生となるのです。

 それこそが、クリスマスの神からの贈り物です。私たちの生活の中に、主イエスが生まれる事。それこそが、私たちに対する神からの最大の贈り物なのです。神は、私たちに無関心ではないのです。私たちに光を届けたいと思っておられるのです。私たちの大事な場所を備えたいと思っておられるのです。そうして、私たちが心から喜んでクリスマスを祝い、毎日を迎えることができるなら、神は何よりも喜んでくださるのです。

 おいのりをいたします。

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