2017 年 12 月 31 日

・説教 マルコの福音書4章21-25節「光の中へ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:48

2017.12.31

鴨下 直樹

 今日は大晦日ですが、教会の暦では今日が降誕節第一主日、主イエスの誕生を覚える主の日です。先日少し買い物に出かけたのですが、年末ということもあって、お店には物凄い人であふれかえっていました。もちろん、クリスマスの商品は隅に追いやれて、安売りされていて、真ん中にはお正月のものが並びます。今年も一年が終わるのだという実感がわいてきます。

 でも、少しほっとするのは、クリスマスのイルミネーションの明かりは、すぐに片づけないで、そのまま夜の街を彩っているところが多い気がします。暗く、寒い夜に明かりの持つ力を誰もが認めているのではないかと思うのです。暗い寒い冬の夜空に輝く明かりは、冬にもたらされる風物詩となっています。

 今日、私たちに与えられている聖書は、主イエスがお語りになったたとえばなしです。明かりの話しです。

あかりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。

 そのように21節に記されています。原文では「あかりが来る」と書かれています。でも、あかりは自分では来ることが出来ないので、翻訳としては誰かが持って来るという訳し方がされています。

 先週の礼拝で燭火礼拝を行いました。礼拝堂の中を聖歌隊が、あかりを携えて歌いながら前に進みまして、クリスマスの讃美歌を歌い、そのあとで暗くした部屋のみなさんのところに明かりをともして回りました。おそらく、座っていた方々は「明かりが自分のところに来た」と感じられたのではないかと思います。誰が持ってきたかというよりも、暗い中で明かりが自分のところにやって来る。そう感じるわけです。それは、まさにクリスマスの知らせそのものです。暗い世界に主イエスがお生まれになる。光がもたらされる。それこそがクリスマスの知らせです。

 主イエスはこのたとえ話を神の国を知らせるためのたとえ話となさいました。神の国、神の支配というのは、暗い所にいる人のところに明かりがもたらされるようにしてくるようなものだということです。そうやってもたらされた明かりを、隠すようなことがあるだろうかと主イエスはおっしゃっているのです。というのは、明かりを隠すということが起こり得たからです。

 誰があかりを隠そうとするのでしょうか。それは、主イエスの弟子たちによってです。まだ、私が若い20代の時のことです。当時、ある伝道者の牧師が各地で伝道してくださって、路傍伝道の喜びを一所懸命語って下さった先生がおられました。アーサー・ホーランドという牧師です。当時、青年だった私たちが教団の青年たちと大きな駅の前に集まって、よく路傍伝道をしました。20名ほどの青年が集まってクリスマスの賛美を歌い、教会のチラシを配ります。岐阜の駅の前でもしたことがあります。一人の青年が、みんなが歌っている中に入れないで、通路の隅でしばらくどうしようか悩んでいたようです。少しして彼は勇気を振り絞って仲間に加わりました。後で彼は「隠れキリシタンのようだったよ」とみんなを笑わせました。その彼は今牧師になっています。今考えると、純粋に伝道したかったというよりは、半分度胸試しみたいなことでもあったと思います。

 でも、自分がクリスチャンであるということを隠そうとする思いが起こることがあるのです。教会に行っていることを、なかなか家族に言えない。友達に言えない。何を言われるか分からないし、あまりよくは思われない。そういう思いが働いて、自分が福音に生きるようになったということを明らかにすることができない。そういう葛藤を持つことがあるのです。

 主イエスはこのたとえをお話しになりながら、けれども、あかりに包まれているならばそれは隠せるものではないでしょう。そのあかりの力はおのずと明らかになるのだとここで言われたのです。

 私たちが闇を感じるとき、それは先行きが見えない将来であったり、あるいは抜け出すことができないような試練を経験する時です。あるいは、自分自身に絶望する時、どうすることもできない闇を覚えます。闇を感じるとき、私たちはその先を思い描くことが出来なくなっているのです。けれども、光が来る、と主イエスは語ります。光が闇の世界にもたらされるのです。その光とは何でしょう。主イエスはそれこそが、主イエスの示そうとしておられる神の国だというのです。神があなたを支配してくださる。その時、それはまさに闇の中にいる自分に光が射しこむ。先が思い描けるようになる。出口が見えるようになる。自分自身に絶望していたのに、新しい生き方が分かって来る。そういう光に包まれると、それは隠しようもないくらい、その光は、その輝きは、その人を闇から救い出すのです。

 24節にからもう一つのことが語られています。

聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。

 この新改訳聖書の翻訳をみると、人を見る量りで自分も見られているという意味のように読み取れます。しかし、もともとの聖書では最初の「人に」という言葉はありません。意味が分かるように補った翻訳です。今度の新改訳2017年訳では「自分が量るその秤で自分も量り与えられ、その上に増し加えられる」と翻訳が変わりました。大した違いではないように思いますが、第二版や第三版の方では目的語を「人」を量るとしましたが、2017年訳ではそこは書いていません。原文がそうなっているように、自分で読み取るように促されているわけです。「自分が量る」といった時に、何を量るのかということになるわけですが、ここで量るのは「人」ではなく、「神の国」です。

 ここで語られているのは、主イエスが語られる「神の国」、この前の言葉で言うと「あかり」ということになるわけです。主イエスが与えてくださる光、「神の国」に期待する者は、神の国を正しく量ることが出来る秤を与えられるというのです。そして、それだけではなくて、自分が期待している以上のものを受け取ることになるのだと言っているのです。
その後の25節でこう記されています。

持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。

 これは、神の国を量る秤をいただいている人は、さらに与えられることになると言っているわけです。

 神の国を受け取るというのはどういうことでしょう。光を受け取るというのはどういうことなのでしょう。それは、自分は闇に生きているということに気づくことです。そして、闇に生きることをやめて、神の国に生きる。つまり、悔い改めるということによって、神の国を受け取ることができるようになるということなのです。
 自分が闇の中に生かされていることに気づかない人が、光を受け取ることはできません。神の光の中にいないということに気が付いて、神の光の中に生きようとすること、それを悔い改めると言います。

 先月のことですが、村上伸先生の葬儀をした時に、ドイツの古書店で買い求めた「神学者の顔」という写真集の中に、村上先生が乗っていたので紹介いたしました。先日、奥様から村上先生がドイツに渡ったときのことが書かれている本をお借りしまして、今それを楽しんで読んでいます。そのドイツの写真集に載せられた、村上先生がドイツに渡った当時の写真と、そこに添えられた短い村上先生のあかしが載せられています。

 そこに、こんな文章がそえられています。

「私が初めて聖書の言葉を聞いたのは15歳の時。戦争が終わった直後のことです。マタイの福音書の「汝の敵を愛しなさい」という言葉を聞いてショックを受けました。今までこんな美しい言葉を聞いたことがありませんでした。それまで、学校では「汝の敵を憎むのだ」と教えられて来たのです。新しい言葉と、新しい愛の歌が来たのです。その時からまったく突然に新しい喜びの世界が広がりました。私は、聖書を読むようになり、教会に通うにようになりました。それが、私の信仰の始まりです」

 ドイツ語で書かれているのですが、「新しい言葉が来た!」と書かれています。それはまさに、ここに記されているように「あかりが来た」という言葉と同じです。それは、突然もたらされ、敵を憎むことを教えられて来た暗い世界から、まさに光の世界がひろがったのです。ここに身を置こう。聖書を読もう。教会に通おう。こうして、村上先生は神の国に生きる者とされたのです。信仰に生きるというのは、このように新しい世界が広がる中に身を打委ねるということです。そのところから、まったくこれまでとはちがった人生がはじまるのです。

 悔い改めるというのは、自分のそれまでの生き方を変えて、光の中に生きることを願うことからはじまります。悪い生活をして自ら闇の中にいるならば、それと決別しなければなりません。神の光の中に身を置いていないなら、その光の中に身を置くことをしなければ光に生きることはできません。もし、悔い改めるなら、新しい道がそこから開けて来るのです。それは、また、新しい言葉が来たという経験であり、まったく新しい広い世界に生きることになるのです。

 もう、今日で2017年も終わろうとしています。今年、私たちに与えられた年間聖句の言葉がエゼキエル書36章26節の言葉でした。

あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。

 この言葉は、まさに神の国に生きることそのものを語っている言葉です。神は、この一年、私たちのこのみ言葉を与えてくださいました。神は私たちに新しい心、新しい霊を与えてくださるお方です。この神によって私たちはいつも新しく生きる者とされる。そういう約束の言葉を一年聞き続けて来たのです。今年は、このみ言葉のカードを4種類作りました。

 元旦に、また誕生日に、いろいろな時にこのカードを目にしたと思います。何度も何度もこのみ言葉を思い起こしてほしいと願ってそうしてきました。神は、私たちの心が新しく変えられること、私たちに新しい霊を注ぎたい、私たちが神と共に生きることが出来るようにしたいと願っていてくださるお方です。

 明日はまた新しい年間聖句のカードを差し上げたいと思っています。主はこの年も、新しい年も、私たちを光の中へ、神の国へと招いてくださるお方です。それは、いつも主のみ言葉を聞くこと。よく聞いて、正しく受け止める時に、それは私たちの思っている以上の豊かな恵みとなるのです。

 新しい年も主に期待しつつ、新年を迎えたいと思います。

お祈りをいたします。

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