2018 年 1 月 1 日

・説教 ヨハネの黙示録21章6節b「ただでくださる」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:56

2018.01.01

鴨下 直樹

 今日、私たちに与えられている2018年のローズンゲンの聖句はこういう言葉です。

「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる」

 新しく訳された2017年訳ではこうなっています。「わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。」
 「ただで」とそう記されています。「ただより高いものはない」なんて言います。よく街頭でテッシュを配っています。外国人はびっくりするようです。私の知っている宣教師は大きな紙袋をもっていって、「ただならここにたくさん入れて欲しい」と言って頼んだのだそうで、テッシュを配っているアルバイトの子は喜んで沢山入れてくれたのだそうです。もちろん、そんなことはあまりないわけで、たいていの場合、テッシュを受け取るとアンケートに協力して欲しいとか、ドリンクサーバーを買って欲しいと勧められます。あぶないのは、子ども向きの風船を配っているところです。子どもは喜んで貰いに行くのですが、そのかわりにアンケートを書かされたり、英会話の教材を勧められたりするわけで、「ただより高いものはない」ということを実感することになります。

 「ただで」という言葉はそのようになかなか良いイメージとは結びつきません。ただイコール悪いものというイメージさえあります。しかも、ここでくれると言っているのは水です。日本では水はただです。昔は「ひねるとジャー」なんて言ったそうですが、蛇口をひねると美味しい水がジャーっと、どれだけでも出て来ます。特に、岐阜は水の美味しい地域ですからお金を払わなくてもおいしい水を飲むことができるというのはごく自然のこと、日常的なことです。

 今では、井戸に水を汲みに行くこともなく、川から水を汲んで来て、ごみをこして、それを一度沸騰させて、さましてようやく飲めるようになるなどという手間はありません。そのために、一層この聖書の言葉の持つ意味が分かりにくくなっていると思います。

 水、とくに聖書の書かれた地域、イスラエルやその周辺の地域の生活というのは、まさに水はいのちを繋ぐ水でした。雨が降らないということは、そのまま死を連想させます。「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」というこの約束の言葉は、とても大きな意味をもった慰めの約束の言葉であることを、私たちは知る必要があります。

 少し、このヨハネの黙示録が記されている背景を説明する必要があると思います。この21章は新しい天と新しい地、新天新地について記されているところです。ここにはこの世界が最後どのようになるのかが記されています。今の天と地はなくなって新しい天と新しい地が来る。そこで神の民は、神と共に住み、悲しみや嘆きから解き放たれて、死に支配されることのない新しい生活が始められるということが記されています。

  今日の箇所のすぐ前にはこう記されています。

すると、御座についておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」

 この元旦に、年賀状が届いて、もう読んできたという方もあるかもしれません。家に帰ってから年賀状を見るのが楽しみだという方も多いと思います。年賀状に書く言葉の一つに「A Happy New year!」という言葉があります。新しい年がハッピーでありますようにという言葉です。この「ニュー」という言葉、「新しい」という言葉はまさに元旦の今日使うのに相応しい言葉です。ネオスというギリシャ語があります。英語のニューの語源となった言葉です。このニュー、新しさというのは、やがて古くなってしまいます。けれども、この聖書に記されている「すべてを新しくする」の新しいはネオスという言葉ではなくて、カイノスというギリシャ語です。これは絶対的な新しさを意味する言葉です。古くならないのです。このカイノスには古いものは共存しないのです。だから、「以前の天と地は過ぎ去った」と1節に記されているのです。ヨハネの黙示録はここで、まったく新しい世界の希望について語っているのです。

 宗教改革者ルターはあるときに、古い納屋でこんな碑文が書かれているのを読んだのだそうです。

私は来る、どこからかは知らない。
私は生きる、いつまでかは知らない。
私は死ぬ、いつであるかは知らない。
私は行く、どこへであるかは知らない。
それでもなお、私には喜びがあるとすれば、それは驚くべきことである。

 ルターはこの文章をこのように書き換えたのだそうです。

私は来る、どこからかよく知っている。
私は生きる、いつまでか、神語りたもう。
私は死ぬ、いつであるか、キリスト告げたもう。
私は行く、どこへであるかよく知っている。
それでもなお、私には悲しみがあるとすれば、それは驚くべきことである。

 聖書は、その終わりに、私たちの最後はすべて神が支配していてくださって、全く新しいものを私たちにくださると、約束していてくださるのです。アルファでありオメガである主、はじめであり終わりである主が、私たちの人生の主であるとすれば、この主に身を委ねることの出来る幸いは何とははかり知れない事でしょう。

 この主は、私たちに「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる」と約束してくださるのです。神は、わたしたちにこのいのちの確かさをあたえるために、ただで与えるために、大きな犠牲を支払ってくださってくださいました。それが、主イエスのいのちです。

 「ただより高いものはない」それは、まさにその通りなのです。私たちがただでこれをうけるために、神がご自分の御子のいのちをその代価として支払ってくださったのです。この世界で何よりも価値のある、何よりもたっといものを代価として、神は支払ってくださったのです。

 私たちのいのちを潤すために、からからに乾ききっている私たちの心を潤すために、神はいのちの水の泉を与えてくださいました。それが、他のなにものでもない主イエスです。わたしたちは、このいのちの泉である主イエスから、豊かな潤いの水を飲むことができるのです。一年中、いつでも私たちにこのいのちの水の泉は与えられているのです。

 それなのに、どうして私たちが悲しみに支配されることがあるというのでしょう。神は、私たちの人生のはじめから最後までを、豊かなもので満たしてくださるお方です。
 
 主はこの2018年の元旦に、このみ言葉を私たちに与えてくださることによって、私たちがいつでも、豊かに主から受けることができることを約束してくださっているのです。私たちがどこから来て、どこに向かうのか。その間はどういう歩みをするのか、主はいつも私たちにみ言葉を通して語ってくださいます。私たちにはいのちの水の泉が開かれている。この約束の言葉をいただいて、この一年、主に期待する一年を、歩ませていただこうではありませんか。

お祈りをいたします。

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