2018 年 1 月 14 日

・説教 マルコの福音書4章35節―41節「なぜ私だけ苦しむのか」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:15

2018.01.14

鴨下 直樹

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 今日の説教題はひと月も前に自分でつけたものです。まだ、聖書を丁寧に読んだわけでもないのに、説教題をつけるというのは時々無理があると感じているのですが、どうしてこういう題をその時付けたのだろうかと考えさせられています。

 自分のことを話して恐縮なのですが、この一週間は私にとって心苦しい一週間を過ごしました。大きな岩が私の頭の上にのしかかっていて取れそうもないのです。水曜日の祈祷会のまえにSさんが、「仕事に行く時に気が重くなる時がある」と話してくださいました。「とても気持ちが重たくなって眠れなくなったとしても、私たちはお祈りすることができるので、そういう時はお祈りして、神様に委ねて出かけるようにしています。」その言葉を私自身に言われている言葉のように聞きながら、そういう時いつも祈る祈りの言葉を呟きます。

 「マイゴット、マイオール」「わが神、わが全てよ」。アッシジの修道士フランチェスコの祈りです。まるで念仏を唱えるかのように、ぶつぶつと同じ言葉を繰り返します。「わが神、わが全てよ。わが神、わが全てよ。私の神、主よ、あなたは私の全てです。私のすべてのあなたのものですから、あなたに委ねます。」心からそう祈ることができるようになるまで、何度も、何度も祈ります。

 「なぜ、私だけが苦しむのか」。私たちはこのように叫びたくなる思いを持つことがあります。何故こんなことが起こるのか。主はこのことをおゆるしになっている。残念ながら、私たちは毎日平和で、安全が保障されているところで生きることができるわけではありません。

 今日の聖書の箇所はまさに、そのような弟子たちの叫びが記されています。
「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」という38節の言葉は、現実的な問題の大きさを物語っています。

 この4章の35節からは主イエスのなさった神の国のたとえばなしが終わって、4つの奇跡の物語が記されているところです。この部分は、主イエスが語られた神の国とは、実際にどういうことなのかということが、ここで示されています。

 前回の箇所は26節以下でした。ここでは、種は寝ている間に人知れず成長するというたとえが語られていました。27節のところでは、「夜は寝て朝は起き」と記されていて、このイスラエルの当時の生活というのは、一日が始まるとまず寝て、神さまに委ねることから生活が始まるということを話しました。神の国は、寝ている間にひとりでに成長する。神は人が寝ている時に働いていてくださって、まさに神に信頼してゆだねる時に、神の語られた言葉が、実を実らせることを知ることになる。そのように語りました。

 今日の嵐の出来事は、まさにそこのことを弟子たちに試みておられるような出来事だということが分かるわけです。

 少し、新改訳2017年でどのようになっているか紹介してみたいと思います。

さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。そこで弟子たちは群集を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。

 ここまでお読みしますと、今度の新しい翻訳によってこの時の場面がイメージしやすくなっていることに気が付かれたと思います。「激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった」。

 何年か前のことですが、夏に岡山の聖約教団の青年キャンプに行ったことがあります。牛窓という海のすぐ近くの崖の上にキャンプ場がありまして、昼にはキャンプ場から下って行きますと、すぐ下に砂浜が広がっています。私は、泳ぐのが得意ではないので、そこに置いてあったボートに他の3人の青年たちと乗り込んで、海に出ました。もう夕方にさしかかるころ、少し沖に出ていた私たちは浜まで戻ろうということになりました。ところがちょうど引き潮になったのです。

 私は引き潮というのが、ボートにとってこんなに怖いことになるとは知りませんでした。どれだけオールを漕いでもほとんど舟が進まないのです。ボートに乗っていたのは私たちの教団の青年たちでしたから、残念なことに、海のことはだれも知りません。斜めに進んだら早く進むのではないかと誰かが言いました。ところが、舟を波に対して横向きにすると水が入り込んでしまって、ひっくりかえりそうになるのです。もっと上手なやり方があるのかもしれませんが、誰も分かる人がいないので、結局二人ずつ順番に、とにかく力任せにオールを漕いで何とか、かんとか、戻って来ることができました。

 この聖書を読むと、もう舟の中に水が入り込んでしまっていて、しかも、舟の中は水がいっぱいになったと書いてありますから、もうそれは大騒ぎであったに違いないのです。幸いに、弟子たちの4人は漁師たちでしたから、対処の方法は分かったと思います。ただ、主イエスの舟の他にも舟が出ていますので、ひょっとすると弟子たちは二人ずつ分かれていたかもしれません。いずれにしても、舟の中には何人かの主イエスのお弟子、しかも舟にはド素人がまじっていました。そして、この人たちの慌てようときたらない。

「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」

2017年訳では「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか。」ここにいた弟子たちの表情まで浮かんでくる気がします。

 では、この時、主イエスは何をしておられたのでしょうか。28節にはこう書かれています。

ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。

 想像してみると色々面白い光景です。主イエスは、夕べに枕を舟に持ち込んでいたのでしょうか。もう完全に寝る気モードです。そして、枕に頭を置いて眠っている。外は突風、弟子たちは大騒ぎ、舟の中は水でいっぱい。決して寝ていられるような状況ではなかったと思います。舟は揺れるし、大声は聞こえるし、きっと主イエスご自身も水浸しだったはずです。それなのに、主は枕に頭を置いて眠り続けている。弟子の一人が「先生、私たちが死んでもかまわないのですか」と思わず叫ぶのです。

 このままでは死ぬ。もう駄目だ。しかも、相手は大自然の現象ですから、どうすることもできないわけです。そんな中でも図々しく枕している主イエスに腹を立てる。何というお方だ。こんな大変な状況で、一人でも水を掻き出す手が欲しいというのに。

 どんなに素晴らしい聖書の話しを聞いても、神の国、神が私たちを支配してくださる、共にいてくださるということがどれほどのことか、聞いても、それは、実際の現実的な問題には何の力にもならない。そういう感覚が私たちにはあるのだということを、この出来事は私たちに示してくれています。

 しかし、現実問題、泥舟に乗り込んでいて慌てふためかない人などいるでしょうか。「私たちが死にそうでも何とも思われないのですか」というセリフは私たちの日常生活の中でどれほど口にされているのでしょう。

 「教団の代表役員などという仕事のために、狭心症の発作がでるようになってしまいました。神さま、私が死んでも何とも思われないのですか」

 ここに描かれている私と、弟子たちとの間には何の違いもありません。「なお私にはこういう問題があります。神さま、私がこのまま苦しみ続けていることを何とも思われないのですか。神さま、こんなに大変です。神さま、神さま・・・」そんなふうに慌てふためきながら、舟の中に入り込んだ水を掻き出しながら、何とかしてほしいと嘆いてしまうのです。

 しかし、私たちがそこで見るべきなのは、ここで主イエスは何をしておられるのかということです。「イミタアティオ・クリスティ」という言葉があります。もともとは一冊の本につけられた名前でした。「キリストにならいて」という意味です。キリストのように生きる。それが、クリスチャンの生きる目標だということです。キリストのようになる。それは、パウロがその手紙の中で何度も語ってきたことです。主イエスのお姿をしっかりと心に刻んで、主イエスの真似をして生きるのが、クリスチャンの生き方だというのです。

 ここで、主イエスが何をしておられたのか。それは、わざとらしいほどに、枕まで持ち込んで嵐の中を眠っておられる主イエスのお姿です。私たちはキリストにならうのだとすると、こういう時にどうするか。まず、自分でできることをすると考えてしまいがちですが、まず問われるのは、そこで主イエスと共に枕を並べて眠ることができるのかということが、問われているのだということになるのです。

 私たちは、問題の解決というのは、舟に乗っている時に引き潮に遭遇しても、何とか岸につかせてくださるのが解決だと思い描いています。困った時代になったら、その前の状況に戻ることが問題の解決だと考えているのだと思います。私たちは、どこかで主イエスが与えてくださる神の国、救いというものがこうだと決めつけてしまって、それが与えられることを求めてしまいます。しかし、主の解決はそこにはないのかもしれないということに、私たちは気付かなければならないのです。

 主イエスは弟子たちの叫びにたたき起こされてしまいます。それで、主はどうなさったのかというと、39節では「風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ。』と言われた。」と書かれています。主はここで風と湖に向かって厳しい言葉を発せられました。「黙れ、静まれ」本当はこの言葉は、弟子たちに向けられていてもおかしくはなかったと思います。うるさく叫んでいるのは弟子たちです。主のさきほどまで語られていたたとえばなしをすっかり忘れてしまって、目の前の出来事に心奪われて大騒ぎしている弟子たちを、主がお叱りになられても何の不思議でもありません。しかし、主はそうはなさいませんでした。今の問題の原因となっている風と湖を収められたのです。

 そして、弟子たちを安心させた後で、弟子たちの方をむいて言われました。40節です。

「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのはどうしたことです。」

 主イエスはここで弟子たちにはっきりと宣言なさいます。「信仰がないのか」と。2017年訳ではこう書かれています。

「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」

 ここではまだ、「信仰がない」と言っています。まだ分かっていない。目の前の問題だけをみて慌てふためくのは、信仰のある者の行動ではないと。これを読みながら、こんなに厳しい言葉はないのではないかと思わされます。マルコの福音書のなかで出て来た最初の厳しい主イエスのお叱りの言葉です。けれども、主イエスはここで弟子たちを突き放したわけではないのです。まさに、神の国の福音はどういうものなのかを身をもって体験させ、信仰とはなにかをここで分かるようにしてくださっているのです。

 最後の41節にこのように記されています。

彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

 ここをお読みになった方は、弟子たちが主イエスのことを分かっていなかったのか?と不思議に思うかもしれません。弟子たちは病気を治してもらったり、教えを聞いたりして、主イエスのことを知り始めていたと思います。けれども、彼らが理解できたのは自分の理解できる範囲内のことです。ところが、ここで自分のイメージを超えた、主イエスの御業のスケールの大きさに驚いてしまったわけです。

 けれども、主イエスは私たちのイメージの中に納まるようなお方ではありません。主は私たちの願っていること、考えていることをはるかに超えて豊かなものを与えてくださるお方です。私たちが、主に信頼して、安心して任せている時に、それは私たちが考えている以上の出来事となって私たちの救いとなるのです。

 私たちは主イエスのように、たとえ嵐の中に置かれたとしても、主に任せて安心して枕をして眠ることができるのです。それを、信仰と主はいわれるのです。主はそのように私たちが主に信頼することを期待しておられるのです。

 お祈りをいたします。

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