2018 年 1 月 21 日

・説教 創世記1章26-28節「神のかたちに」

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2018.01.21

鴨下 直樹

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 今日は、ファミリー礼拝です。毎月第三週に、ファミリー礼拝を行うことにしています。いつも続きで聞いている福音書から離れまして、このときは、できるだけ分かりやすく聖書の話しをしたいと思っています。それで今朝は、聖書は人間のことを、あるいは夫婦のことをどのように記しているのかということをお話したいと思っています。今朝は創世記の天地創造のところから、お話をしたいと思います。先ほど、子どもたちといっしょに天地創造の物語を聞きました。そして、神がこの世界や動物、そして人間をどのようにお造りになられたのかを聞きました。聖書は、神が世界をお造りになられたと書いています。これが、聖書の最初のメッセージです。これは、この世界にあるものは、すべて神に造られ、神はそのお造りになられたひとつひとつに、大切な意味や役割を持たせておられるということです。

 聖書のお話をする前に少しだけ大事なことをお話しておきたいと思います。実は、今日お話する聖書の言葉は、同じ新改訳聖書をお持ちの方でも、以前の第二版と少し前に出されました第三版では大きく異なっています。教会に置いてある聖書もこの第二版と第三版があります。また、昨年改定された新改訳2017も、翻訳が多少異なっています。ですから、私がここでお読みする聖書とみなさんのお持ちの聖書の言葉が少し違っているかもしれませんが、どの聖書をお持ちでも、大きく内容が異なっているわけではありませんので、安心してお聞きください。

 私は第二版という一番古い翻訳の聖書を使っていますので、第二版で読んでいきます。少し違っている方もあると思いますが、意味は同じですのでそのままお聞きくださればと思います。26節にこう記されています。

そして、神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」

 そのように記されています。

 少しその前のことを説明させていただきたいのですが、聖書は神がこの世界の動物や人間を創造されたと書いています。一日目、「光よ。あれ」と仰せられると、光ができた。そのように、神が声を発せられると、そのようにこの世界は造られたと書かれているのです。ところが、人間には「人間よ、あれ」と言われて人間ができたのではなくて、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」と仰せられた、と書かれているわけです。

 つまり、人間には特別な思いが込められているわけです。それが人間と動物との決定的な違いです。人間は道具を使うことができるとか、言葉があるとか、あるいは宗教があるとか、そういうことが動物と人間の違いと説明されることがあるのはそのためです。聖書の言葉で言うと、人間は「神のかたち」に造られたということになります。

 この聖書には「われわれ」と書かれています。文法用語では熟慮の複数と言います。神が、まるで自分自身に相談するかのようによく考えて造られたのを、「われわれ」と記しているのです。ただ、そんな文法の説明をするよりも、昔からここは「三位一体の神が語られている」と言われています。

 人間は三位一体の神のように造られた、それこそが「神のかたち」と言っていいわけです。けれども、三位一体などと聞くと、分かりやすい話ではなさそうで、何だか難しい話だと思われるかもしれません。少し分かりやすくなるためにイメージしていただきたいのですが、もうすぐ、冬のオリンピックがはじまろうとしています。あの、オリンピックの五つの輪っかのマークをちょっとイメージして欲しいのですが、5つではなくて、3つの輪が重なっているイメージをしてくださるとよいと思います。丸が二つ隣同士重なり合っていて、その上にもう一つ輪が重なっている。三角になるように輪が三つ重なるイメージです。その三つの輪にそれぞれ、父なる神、子なる神、聖霊なる神という神の位格があります。

 位格なんて言うとまた難しいということになるかもしれません。ちょっと特別な言い方ですが、英語ではパーソナリティーという言葉です。簡単に言うと、人格ということです。ですが、神は、人ではないので位格という言い方をするわけです。神はそれぞれ父なる神、子なる神イエス・キリスト、そして聖霊なる神という三つの位格を持ちながら、それぞれが一つになるように、まるで、三つの輪が一つに重なるように関わり合っているというのです。それを三位一体といいます。三つの位格があるけれども、ひとつの神というわけです。つまり、神は、それぞれの異なる位格があるけれども、互いに認め合っている、受け入れあっているということです。そして、その神のイメージで、人間をお造りになられた。それが、男と女と神と、三つの輪が一つになるようにして人間を造られたということなのです。

 簡単にいうと、自分の人格がちゃんと認められるような関係が築けるように、神は人間を造られたということです。そして、その表れとして男と女がいて、そのお互いを支えるように神もまた私たちに関わってくださるということです。

 実は、この人間はこの神のかたちに造られたというのは、とても大切な意味を持っています。なぜ男がいて、女がいるのかということも、神は男と女という違う存在を造られることによって、相手を理解するということを求められたわけです。これは、神はひとりひとりを違う存在として造られたということです。みんな顔も形も性格も違います。神は、違うからこそお互いに向かい合って理解し合うように、助け合うように、受け入れあうように人間をお造りになられたわけです。

 こういう話をしますと、頭の中に色々なことが出てくると思うのですが、ああ、あの人は私の人格を認めてくれていないなぁ、ということが頭をよぎった方があるかもしれません。私たちはどうしても、自分が被害者になるときのイメージを持ちやすいのですが、聖書から言うとその反対もあるということです。

 自分も受け入れてもらう必要があるのと同じように、人も受け入れなければなりません。ところが問題は、性格も良くて、気もあうので受け入れ易いという人もいるのですが、この人はどうしてもだめという場合も出て来ます。みんな違うのでそれは仕方がないわけです。もし、二人しか相手がいないと、関係がこじれてしまうとそれで終わりということにもなりかねません。ハリネズミの夫婦の話をどこかで聞いたこともある方があると思います。冬になると巣穴で寒いのでお互いに寄り添いたいけれども、近づき過ぎると相手の針が刺さって痛い。だから、寒くもなく、痛くもないちょうどいい距離を一生懸命探すのだそうです。二人というのは、そのようにどちらも我慢しながらの生活ということになるわけですが、相手の針が刺さりすぎるともう我慢の限界ということになってしまうわけです。

 ところが、神は三つの人格で一つになるように人間を創造されたのです。つまり、仲介人も最初から想定しておられるわけです。その仲介人というのが神ご自身です。神がお互いの上におられて、私がいて、あの人がいる。私とあなたが、ここでは男と女ですが、男と女が互いに傷ついて関係が難しくなってしまっても、それぞれ神に訴えることができると、この仲介人を通して、お互いのことをもう一度別の見方で受け止めることができるようになる。神はそのように人間をお造りなられたと聖書は書いているのです。

 ですから、神が三位一体であるというのは、なかなか理解が難しいのですが、二人だと煮詰まるので仲介人という三者で人間の関係が成り立つように造られているのだと言えば、少し理解していただけるのではないかと思うのです。

 もし、神が仲介人としていなくなるとどうなるのか。それはもう大変です。お互いに意思のぶつかり合いをするしかないわけですから、最終的には我慢する方と、意思を貫く方という形になる。もうそうなると、勝ち負けの関係になってしまうわけです。この人間関係はとても厳しく、また、傷つくのです。でも、それぞれの言い分をちゃんと聞いてくれて、ちゃんと納得できるように神がその仲介者として入ってくださるなら、どれほど安心して生活をすることが出来るか、ということが分かっていただけるのではないかと思います。

 人間を特別な存在として創造された神は、人間がどのようにしたら生活し易くしていられるのか、ちゃんとその道も考え、示してくださいました。ここに、人間の、私たちの生活の基盤があるのです。

 ところが、人間はこのあとで、神なんかいらない、と神から禁じられた木の実を食べてしまいます。今日はそのところはあまり丁寧に説明する時間はありませんが、神に支配されないで、自分の考えだけで生きることができると考えて、神の戒めに逆らってしまいます。そうすると、人間はお互いの問題を仲介人である神に持っていくことができなくなってしまいます。そして、その後、男は女のせいで私は誘惑されてしまった、女が悪いと言い訳をし、そもそも、女を与えた神に原因があると、神のせいにしてしまいます。この結果、この三つの輪の関係は崩れてしまいます。男と女の関係は壊れてしまい、仲介人である神も失ってしまいます。そうすると、人は互いを信頼することができなくなってしまいますし、仲介役も失ってしまうので、どんどん孤独になってしまうのです。

 こうして、神のかたちに造られたはずの人間は、神のかたちを失ってしまいます。それは、相談できる人もいないし、助けてくれる人もいない、仲介できる人もいない。結局のところ、私はひとりなのだと考えるようになってしまうわけです。そして、その状態を聖書は罪と呼ぶわけです。神が願っていた生き方ではないあり方を聖書は罪と呼ぶのです。何か悪いことをしたことを罪というのではなくて、神のかたちを失ってしまった人間のことを罪と言っているのです。

 私たちは大抵、私は私、人は人と考えて生きていると思います。たとえば、結婚して子供が生まれますと、よく出てくる言葉ですが、夫とは血は繋がっていないけれども、子どもとは血が繋がっているという言い方をすることがあります。けれども、聖書をみると夫婦はこのように書かれています。創世記の2章の後半を読んでみると、23節では「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」と言っていて、つづく24節では「男は父母を離れて、妻と結び合い、二人は一体となるのである」と書かれています。聖書ははじめの人アダムとエバには父と母がいなかったにも関わらず、父母を離れてと書いているのはとても興味深いのですが、これはアダムやエバの話ではなくて、人間のことが語られているからです。聖書の時代というのは男女平等という考え方はなかった時代です。それは、日本でもようやく認められつつあるようなことですが、聖書では、そのはじめから男と女とが結婚して一つになる。夫の家に嫁ぐという考え方もここにはなくて、男は家を出て、新しい二人の家庭を築くのだということが語られているわけです。

 聖書が進歩的な考えをしているということではなくて、もともと、神はそのように考えて人間を造られたのですが、人は自分本位に生きるようになったために、神との関係を失い、家族の関係を失い、自分だけという生き方を人間は選んできてしまったということなのです。

 ですから、夫婦の関係は血が繋がっていなかったとしても、まず夫婦の関係、男と女がしっかりと理解し合い、受け入れあい、支え合う関係を作りあげて、そうしてそれができるように神が助けてくださることによって、人ははじめて人として生きることができるということなのです。

 そして、この神のかたちはもちろん、夫婦だけに限ったことではなくて、私とあなたという、私たちの周りに生きている人との関係においても同じです。親に対しても、子どもに対しても、近隣の人、職場の人、ありとあらゆる人の関係は、私とあなたという関係に、神が一緒にいてくださることによって良い関係が保たれるということなのです。

 創世記1章31節ではこのように記されています。

そのようにして、神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

 このようにして造られたこの世界も人間も、神がお造りになられたままの状態でいられたら、それこそが、完璧だったということなのです。けれども、残念ながら、私たちは完璧ではありません。自分も完全ではないし、相手も違います。そうすると、毎日、我慢や忍耐や諦めの中で生きていかなくてはならないのでしょうか。

 そうではないのです。私たちは、私たちの間に立ってくださる神がおられるのです。まず、神を取り戻すこと。神と共に生きる事。自分の辛いこと、自分が十分ではない事、何でも、私たちは神に訴えることができます。尋ねることができます。それが、神に祈るということであり、神のことを知るために聖書を学ぶということです。教会で聖書を読んで、神について知るときに、私たちはもう一度失ってしまった神のかたちを回復することが出来る道が開かれるのです。そして、やがて、わたしとあなたと神という三者の人格的な関係が確立されるようになることによって、私たちは本当の幸いということを知ることができるようになるのです。

 自分が完全ではないということは、相手も完全ではありません。けれども、そのお互いを、自分も受け入れるし、相手にも受け入れてもらう。そうやって聖書が語っている「愛する」ということを学んでいくことができるようになるのです。それは、神を知るところから始まります。私たちを愛してくださる神と出会うことが始まるのです。ぜひ、神様なんかいらないと思わないで、神を取り戻すことが、自分の幸いな人生のはじめなのだと知っていただきたいのです。そこから、わたしたちは神のかたちを取り戻すことができるようになるのです。

お祈りをいたします。

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