2018 年 2 月 4 日

・説教 マルコの福音書5章21-43節「新しく生きる」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:21

2018.02.04

鴨下 直樹

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 いつの時代もそうですが、親というのは自分の子どもが病気にかかると必死でなんとかしたいと思うものです。今日の聖書を読むと、それは時代を超えてそうだのだという思いをいだきます。子どものつらそうな姿を見ると何とかしてやりたいと思うのです。

 先週から、娘の通っている幼稚園でインフルエンザが流行っているという知らせを聞いていました。幸い、木曜までは元気だったのですが、この日の夕方から微熱が出始めました。翌日には高い熱が出たのですが、その日幼稚園の子どもたちも同時にお休みした子どもたちがいたようで、Y君も、Tちゃんもインフルエンザなのだそうです。私もあまり他の方と接触しないほうがいいということですから、できるだけおとなしくしていたいとは思っております。昨日もこの説教の準備をしている時に、妻から子どもの熱が40度になったと知らせを聞いて、手をとめて祈りました。何とか子どもを癒してやって欲しいと願うのです。そこには、立派な信仰などというものはありません。ただただ、切実な親の思いがあるだけです。

 こういう病の癒しという聖書の物語を読む時に、おそらく誰もが頭の片隅によぎる思いがあると思います。それは、どうしたらこの願いは聞き届けられるのかということです。真剣に祈ったらいいのか、長い時間かけたらよいのか。疑いを持たないで祈ったらよいのでしょうか。昔から、お百度参りという祈りの習慣があります。百回、宮参りをして祈る。百回、冷たい明け方に水浴びをしながら祈る。そういう熱心さが、熱意が届くのだと考えてきたのです。それは、キリスト教であろうが、他の宗教であろうが、共通する思い。つまり、何とか祈りを聞いてほしいという思いがそのような形になってあらわれるというのです。

 けれども、同時に私たちは祈っても聞かれないということを経験することがあります。聖書に出て来る使徒パウロであっても、自分の病のために祈りましたが、その祈りはかなえられませんでした。私たちは、自分の祈りはかなえられると信じたい、という思いがあります。それは誰だってそうでしょう。こうやって祈ったらうまくいくというようなコツがあるのであれば、誰だって知りたいと願うのです。

 今日の聖書は、二つの癒しの物語です。そして、単純に読んだ印象ということで言えば、主イエスに信頼するものは癒されるということになると思います。けれども、ことはそんな単純なことではありません。今日の聖書は何を語っているのか、注意深く見ていきたいと思います。

 まずは聖書を順に見ていきましょう。はじめの21節で「イエスが舟でまた向こう岸に渡られると」とあります。湖の向こう側の異教の地、他民族の地域から帰って来たのです。そうするとまるで、待ち構えていたかのように大勢の人が集まってまいります。みな、主イエスに、それぞれに何か期待するものがあったのでしょう。そういう大勢の人の一人として、会堂管理人のヤイロという人物が出て来ます。

 会堂というのはユダヤ人たちが聖書を学ぶ共同の場所ですから、そういう大切な場所の管理を頼まれるということは、この地域の中でも認められた人であったということです。そういう人が、主イエスの足もとにひれ伏したのです。人の足もとにひれ伏すということは、ドラマか何かでなら見ることがあるかもしれませんが、そういう機会というのはあまりないのではないかと思います。けれども、このヤイロはそうしようと思うほどに、娘の病のために必死であったということが分かります。そして、主イエスはこのヤイロのところに来てくれることになったのです。

 ところが、主イエスがヤイロの家に向かう途中で、長血の女の癒しの出来事が挟まっています。そして、結果として、その間にヤイロの娘が亡くなったという知らせがくるわけです。

 聖書にはそんなことは書かれておりませんが、自分がもしこのヤイロであったなら、時間を奪ったこの長血の女性に腹を立てるかもしれないなと思うのです。この人が入りこんできて、そのために時間がとられてしまって、家の娘は死んでしまったではないか、と言いたくなるのではないかと思えるのです。

 しかし、まず聖書はヤイロのことはここで一旦中断して、長血の女の物語に視点を移します。25節からです。それで、まず、聖書に従って長血の女のことについて考えて見たいと思います。

 以前マタイの福音書から説教した時に、教会の看板に前の週から告知されている説教題に「長血の女」と書かれていました。私がとりあえず、便宜的にその名前を月報に書いたのですが、そのままにしてしまったために、こういうタイトルになってしまったのです。その当時妻が家の前を通りかかって看板の説教題を見て、「あのタイトルはない」と注意を受けてしまいました。ホラー映画でもあるまいに、というのです。一般にこの聖書の出来事を長血の女の出来事と言います。けれども、私にとってこの病がどういう病気なのかあまり良く分かっていません。先日も祈祷会でこの話になったときに、何人かの方は身近にこういう症状の病になった方がいるのだということを知って驚きました。

 この箇所を見ますと、この人は病のために色々な医者にかかったようですが、どこでも治すことが出来なくて、財産を失ってしまったということが書かれています。「泣きっ面に蜂」とでもいうような状態です。治りたいと思いながら、何とかお金を準備して医者に診てもらうのに、お金ばかりかかって病気は一向に良くならない。しかも、ここでは十二年という長い年月、その病に苦しんでいたということが書かれています。この人がどれほどつらい状況に置かれているかということは、よく分かると思います。

 またレビ記15章には、出血が止まらない人の規定というのが記されていますが、その人が使った食器だとか衣服だとか、そういうものに触れた者も汚れるので、触った者は水浴びをして夕方まで汚れると記されています。ですから、12年間この病であったということは、家族と一緒に過ごすことも難しい状況に置かれていたということになります。もちろん、人に触れるなどということもできません。ですから、この人が主イエスの「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えたようですが、本当はやってはいけない行為であったわけです。

 家族とも一緒に過ごせない。当然結婚も諦めていたでしょう。お金もなくなってしまう。誰からも見放されたような状況で、この女の人はどれほどの悲しみを抱えていたのかと思うのです。生きていながら、生きる喜びを感じるところを奪われた人です。ところが、どこかで主イエスの話しを聞いたのでしょう。こういう方がおられるのであれば、きっと自分も癒していただけるのではないかと希望を持ったに違いないのです。

 27節にこう記されています。

彼女は、イエスのことを耳にして、群集の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。

 後ろから触ったのです。主イエスの前にでる勇気がなかった。けれども、癒されたいと願ったのです。そして、主イエスに後ろから触ったのです。ここではっきりさせなければならないことがあると思います。これは、信仰なのかということです。

 宗教改革者カルヴァンはこう言います。「この女の信仰には悪徳も誤謬も宿っている」と。表現が少し古い言葉ですが、この触ったら治るだろうという信仰には間違いが宿っているというのです。何が間違いなのでしょうか。何が悪徳とまで言わせるのでしょうか。

 どこどこの泉に行くと病気が治る。ここの煙をあびれば病が治る。このイコンには癒す力がある。そういうものが、私たちのまわりには後を絶ちません。壺を買ってどちらかの方角に置く。そうやって、財産を失う人たちが沢山います。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」これは、信仰と呼べるものではありません。誰の心の中にも浮かんでくる願い。癒されたい。この問題から解決を得たい。そういう願いは、神に向かってはいません。いつも、自分の問題解決という方向にしかむかってはいないのです。それは、信仰ではありません。

 けれども、主イエスは、まさに誰もが思い描く、癒されたいという願いをきっかけにして、対話することを求められました。30節にこう記されています。

イエスも、すぐに自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群集の中を振り向いて、「だれがわたしにさわったのですか。」と言われた。

 これを聞いて、弟子の一人が答えます。

「群集があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしの着物にさわったのか。』とおっしゃるのですか。」

 こういう返答が出てくるほど、大勢の人々が周りにいたということです。誰もが主イエスに触ることのできる状況だったのです。そういう状況ですからこの女の人も簡単に逃げて行くこともできたはずです。

 けれども、主イエスはこの人が、主イエスと向かい合って話すのを待たれたのです。それで、この人は自分のことを主イエスに打ち明けます。「真実を余すところなく打ち明けた」と33節にありますから、自分のこれまでの葛藤、律法を破って主イエスに触れたことも、どのように思って主イエスに触れたのかも、すべて話したのでしょう。そして、まさに、主イエスはこのことを求められたのでした。病気が治りたいと思って、触れたら治ったというのは、原因と結果でしかありません。しかし、大事なのは、主イエスと出会うこと、主イエスを知ることです。そして、主イエスは彼女にこう言われたと記されています。

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

 ただ、治りたいという願いがあったこの女性から、主イエスは対話をすることで信仰へと導かれたのです。主がもとめておられる信仰、それは、主と出会うこと、主と出会い、主を知ることです。はじめは自分勝手な願いであったとしても、主はその人の中から信仰を見出してくださるのです。

 さて、この一つのすばらしい出来事の間にも、一つの時間は進んでいます。それが、会堂管理人ヤイロの娘です。この出来事の間に、娘は死んでしまったという知らせが伝えられます。そして、「先生を煩わすこともない」と使いの者は告げるのです。もう可能性はなくなったということです。ヤイロがここでこの前の長血の女を恨んだかどうかは分かりません。けれども、主イエスはヤイロに「ただ信じていなさい」と告げられるのです。

 ここで、信じるという内容が変わっていることに気づかれるでしょうか。それまでヤイロは、はじめ、娘の癒しに心が向いていました。けれども、ここで主イエスは、主を信じるようにということを求められたのです。そして、ペテロとヨハネとヤコブという3人の弟子だけを伴っていきます。そして、家に着くと人々の取り乱している声、叫びや嘆きの声が聞こえてきます。娘の死という現実がそこには待ち受けているのです。けれども、主イエスはこの人々にこう言われました。

「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」

39節にそう書かれています。この娘の死を目の当たりにした人たちは、この主の言葉をおかしく感じます。だからあざ笑ったのです。もう、どうすることもできないという、死という動かぬ事実がそこには待ち構えているのです。しかし、主はそうではない、「眠っている」と告げて、父と母、そして三人の弟子たち以外の者は部屋には入れないで、「タリタ、クミ」と言われました。最近の2017年訳では「タリタ、クム」となっています。どうもそちらの方が正しいようです、「少女よ、起きなさい」と、ごく普通に、朝子どもを起こす言葉をかけられたのです。すると、子どもは起き上がったというのです。

 「タリタ、クム」特別な言葉でも何でもありません。恐らく、この子どもは次の日から同じ言葉を親からかけられて朝、目を覚ますのです。しかし、決定的に違うことがあります。それは、主イエスと出会ったという事実です。きっとこの子どもも、両親も、朝が来るたびに、この言葉を口にするたびに思い出したに違いないのです。主イエスがいのちを生かしてくださった。主が新しい命を与えてくださったのだと。

 この二つの癒しの奇跡の出来事は、主イエスという方は人を癒す力をもっている方だということをここで宣言しようとしているのではないのです。お気づきの方もあると思いますが、長血の女が癒されたということは、実は本人しか分からないことです。痛みがなくなったとここにあります。私にはどういうことなのかも分からないくらいですが、経験のある方は分かるのだそうです。でも、それは他の人には分かりません。目に見えてすごいことがここで行われたわけではないのです。ヤイロの娘のこともそうです。死んでいたのが生き返ったということにはならなかったと思います。生き返ったのを見たのは父と母だけです。しかも、主はそのことを誰にも話さないように命じられたのです。ということは、この時、回りにいた人々、嘆き悲しんでいた人々は、本当に眠っていただけだったのだということしか、知りようがないのです。

 この前の二つの奇跡もそうです。嵐がしずまった奇跡も、レギオンというたくさんの汚れた霊に疲れた人も、この事実を直接目にしたのは本人と弟子たち以外にはいなかったのです。つまり、主イエスの奇跡の業というのは、みんなに分かるようにしれ、みんなに広めるためになさったのではなかったということなのです。

 なぜこんなことを主イエスはなさるのでしょうか。こんなすごい力を持っているのだったら、みんなに見せて回ればいいのにと、私たちは思うかもしれません。しかし、主は知っておられるのです。奇跡を求める人は、自分の願いが中得られることを求めるだけで、主イエスを知ろうとはしないということを。

 何度も、何度も同じことを繰り返しているのですが、主イエスはその人の願い事をかなえてくださる神ではありません。そうではなく、私たちのことを知りたいと思っておられるお方です。個人的に、出会いたいと願っておられるのです。そして、主イエスというお方を知って欲しいと願っておられるのです。どれほど、私たちのことに心を向けていてくださるか。どれほど、私たちを愛してくださっているのか。そのためならば、自分のいのちを犠牲にしてもいいと思うほどに私たちのことを愛しておられると言うことを知って欲しいと願っておられるのです。そして、私たちの毎日が、「タリタ、クミ」と言われるたびに、朝を迎えるごとに、私たちのいのちを支えて下さるお方のだということを知って欲しいと願っておられるのです。この主を知ること、主イエスをもっと知りしたい願うこと、この主イエスの愛を受け取りたいと願うことを、主は信仰と呼んでくださるのです。

 私たちの主は、私たちが安心して帰ることができるように、病気にかからず、すこやかでいられることを心から願っておられる主なのです。

 お祈りをいたします。

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