2018 年 2 月 11 日

・説教 マルコの福音書6章1-6節「心の痛みに寄り添って」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:33

2018.02.11

鴨下 直樹

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 マルコの福音書を順に読み進めております。このマルコの福音書は主イエスがガリラヤ湖のほとりのナザレの出身であるということを第一章のはじめに記して、ここまでの間、ガリラヤ湖からはあまり遠く離れたところには行かないで、この近隣を巡りながら伝道を続けているように記してきました。

 今日のところは、「イエスはそこを去って、郷里に行かれた」と記しています。広い意味で言えば、ここまでの間、主イエス一行はずっと郷里であるガリラヤ湖のあちら側、こちら側という具合で進んできましたから、ここで「郷里に行かれた」とわざわざ説明しているのも少し違和感を覚えるほどです。けれども、今日のところは、郷里周辺ということではなくて、まさしく、ご自分の郷里に行かれたということです。自分の郷里に行くというのは、どんな気持ちだったのだろうかと思います。

 皆さんの中には、もう何年も郷里を離れて岐阜に住んでおられるという方が何人もあると思います。そういう場合、久々に故郷に里帰りするということになると、色々な懐かしさや、あるいは苦い思い出を抱えながら郷里に赴くということになるのだと思います。主イエスの場合、伝道しておられた期間は全部で3年程度と考えられています。しかも、まだこの6章の時点で考えてみますと、郷里を離れてからもう何年もたっていたとは考えにくく、長くても1年とか、数カ月、そのような期間だったと思うのです。

 ただ、今と違って、この時代というのは少し違った地方に移るということでも、すでに大変なことだったわけです。今、NHKの大河ドラマで西郷隆盛をやっています。今からわずか数百年前の時代であっても、隣の藩にまで行くというだけで、脱藩ということになって大きな問題となるわけです。今の感覚からすると、何百年か違うだけでも理解を超えているわけです。ですから、主イエスの時代、今から二千年も前の時代に、自分の住んでいるところを離れて、わずか数カ月であったとしても、さまざまな場所に出かけて行って、数カ月ぶりに戻って来るということも、大変なことであったに違いないのです。しかも、主イエスの働きはあっという間に有名になって、一度は悪い噂まで立てられて家族が迎えに来たという出来事も3章の20節以下で記されていますから、そういう主イエスが何カ月ぶりかに郷里に足を向けるということは、きっと秘めたる思いがあったと考えて間違いないのです。

 その秘めたる思いとは何かというと、郷里の人にも神の国の福音を伝えたいという思いです。それは、郷里の人々への愛と言ってもいいものです。問題は、主イエスの心のうちにはそのような郷里の人々に対する思い、愛があるのにも関わらず、それが伝わらないというもどかしさです。

 実は、先週の日曜の夜から私自身の体調が良くなくて、月曜に医者に行きますとインフルエンザということでした。そのために、水曜と木曜の聖書の学びと祈り会を休みました。集まったみなさんがこの聖書の箇所をどのように学ばれたのか分かりません。ただ、今日のような箇所を読むというのは、実は簡単なことではありません。この箇所で語られている福音とは何かということが、はっきりしてこないのです。たとえば、今日の1節から6節までのところで、子どもに聖書を教えようと思いながら、ここから、暗唱聖句にするような箇所を捜そうと思っても、見つけることは難しいと思います。

 たとえば、少し格言的な言葉を見つけようと思えば、4節で主イエスがお語りになった「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」という言葉をあげることはできると思います。私自身、牧師になるときにもこの言葉は頭のかたすみにずっと残っていて、自分の生まれ育った木曽川町、今は市町村合併で一宮市となりましたが、木曽川で牧師としてやれるかと考えると難しいという気がします。子どもの頃の私のことを知っている近隣の方々は、私のわんぱくぶりや、落ち着きのなかったこと、もっと言えば勉強もしませんでしたから、私が出来損ないの人間であるということを誰もが知っています。そういう自分の生まれ育った町で伝道するのは難しいだろうという、この言葉の持つ意味は分かるわけです。

 そういう意味ではこの4節の言葉は、とても知恵に富んだ聖書の言葉だと思いますが、でも、これが福音か、と問われると、そうではないわけです。この箇所には、人を慰めるような直接的な言葉もありません。あるいは、偏見はよくないといような、教訓じみたことをここから見つけ出すこともできると思いますが、それもやはり良い模範をここから見つけているだけで、「こういうことはしないようにしましょう」というような内容をここから見つけ出すというのは福音ではないわけです。

 福音というのは、良い知らせです。福音を聞くと嬉しい気持ちになったり、あるいは自分が慰められたり、あるいは自分の生き方が示されるというような内容がそこにあるということです。だとすると、この短い言葉の中に、私たちは何を聞き取ることができるのでしょうか。

 毎年、東海聖書神学塾の主催で、教会学校教師研修会を行っています。この東海地区の教会で子どもたちに聖書を教える教師たちのサポートをしたいということで、もう今年で25回目になります。今回は、「子どもを知る」というテーマで講演を予定していて、マレーネ先生が講師としてお話してくださることになっています。この研修会でいくつかの分科会をしているのですが、私は今年、この研修会の分科会で「教会学校教師のための聖書解釈」という分科会を持つことになりました。先日、このチラシをつくるために、私の分科会の紹介文をどうしますかと聞かれたので、こういう文章にしてくださいとお願いしました。

「聖書を魅力的に子どもたちに語るためには、聖書から福音を読み取る力が求められます。福音を正しく聞き取るために大切な基本を一緒に学んでみましょう。」

 そう書きました。
 そのチラシを見ながら、わずか一時間程度の時間でどれほどのことが出来るのだろうと思う気持ちもありますが、その反面、聖書を読み取る力がついたらそれは、その人にとっても、教会にとってもどれほど有意義なことかと思うのです。

 今日の説教題を先週まで「先入観を捨てて」としていましたが、今日の週報をご覧になって題が変わっていることに気づかれた方が多いと思います。「心の痛みに寄り添って」としました。それは、まさに、この箇所で語られている福音は、このことに尽きると思うからです。

 今日の箇所で問題になっているのは、主イエスの郷里の人々の先入観です。主イエスが外で立派な活躍をしていることを郷里の人たちは聞いていました。また、安息日に会堂で、直接主イエスの話しぶりを耳にしました。それを、聞いて、人々は驚いたのです。説得力のある言葉だったのだと思うのです。感動したり、「そうだ」と思った人は少なくなかったのです。ところが、聞いて、人々はこう言いました。

「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」

2節と3節にそのように書かれています。この人の出身も知っているし、家族も知っている。仕事ぶりも分かっている。この人はこんな立派なことを言えるような身分の人ではない。そう判断したというのです。そして「こうして彼らはイエスにつまずいた。」と書かれているのです。

 主イエスの語る言葉の内容ではなく、主イエスのなさった業でもなく、自分たちが知っていることの中で判断したということです。そして、実は私たちの毎日の生活を苦しめる多くの部分も、そのことによって判断されているということに、ここから気付かされるのです。

 この世界には、正しく評価されていない人がなんと大勢いる事か。たとえば、少し前にテレビのドラマにもなったようですが、主婦の仕事に対する労働対価はいくらというようなものがあるのだそうです。そういう数字が出てくるのは、家事をする妻の仕事がちゃんと評価されていないという感覚があるからでしょう。こういう問題はデリケートなので、そのことをここで詳しく語ろうとも思いませんが、自分の仕事が正しく理解されていない気持ちのある人が多いので、こういうテーマが出て来るわけです。

 今日は、このあと教会総会を行います。いつも、この芥見教会の総会資料をみるたびに私は大変驚きます。この教団の中でも一番分厚い総会資料なのではないかと思うほどです。なぜ、こんなに分厚い総会資料になるのかというと、それだけ、色々な働きが教会で行われていて、それぞれの会の活動報告や、新年度の計画案などが載せられているためです。ということは、それぞれの集まりには、そこで本当に心を注いでそれぞれの働きをしておられる方々がいるということです。

 自分の関わっている会については分かっていても、自分の関わっていない集まりのことは、正直よくわかっていません。それぞれの活動には、人の目には見えないさまざまな準備がなされていて、そのために実にたくさんの時間をかけて、その集まりのために労している方々がおられます。人前で目立つ働きをする方もあるでしょう。誰にも気づかれずに奉仕してくださる方もあります。こういう総会の時というのは、どうしてもそのようにして働いてこられて、自分のしてきたことがどうして理解されていないのかというような悲しい気持ちを持つ方が出てしまいます。

 かといって、一人一人の働きを、丁寧にみなさんのまえで説明する時間をとることもできません。この後も、昨年末に選ばれた新しい教会執事の方々の任職の祈りをいたします。けれども、大変なのは執事や長老だけでなく、それぞれの働きをしてくださる方々も、みなさんの前で祈られるということがなかったとしても、それぞれの働きは主の前で覚えられているということを、是非知っていただきたいのです。

 今日の箇所が語っているのは、私たちの主イエスもまた、ご自分のまさに神の子としての働きが、正しく理解されることがなかったということが記されているところです。きっと、立派な説教をされたと思います。本当に誠実に人と共に歩まれたと思います。それは、まぎれもない事実です。けれども、主イエスの働きは、残念ながら正しく理解されて受け止められることはなかったのです。

 今日の箇所は主イエスのこれまでの教えと奇跡の出来事を通して、何が起こったのかということをまとめて記しているところです。ここで書かれているのは、主イエスの働きは正しく評価されることはなかったのだというのが、そのまとめとして記されているということなのです。それは、つまり、主イエスというお方は正しく評価されていない者の代表者として、ここで記されているということなのです。だから、このお方は、私たちに寄り添うことができるお方、私たちのことを知っていてくださるお方なのだと言うことができるのです。

 主イエスは、ヒーローのように完全に何でもこなして完璧にやってみせる方として人々の前に登場したのではないのです。ちゃんと行っているにも関わらず、人々はそれを見ているのにも関わらず、理解してもらえなかったお方なのです。何でもうまく、上手にできることが私たちの生きている世界では評価されてきました。評価されるということが、人に必要とされるということが、その人の生きている意味だと多くの人は考えるのです。

 できない子どもの姿を見ていれば、親としてはできる子どもになって欲しいと思うのが、親心です。そして、神の祝福というのは、そういうその子に神が何かプラスアルファを与えてくれることが祝福だと私たちは考えるのです。しかし、聖書はそう語ってはいないのです。何でも上手にできることが、主のなさったことなのではなくて、人に認められなくても、人に理解されなくても、自分に与えられている道をしっかりと歩んでいくこと。それこそが、主イエスの歩まれた道、つまり、十字架への道なのです。

 主イエスは高みから私たちを見おろしながら、上から指示を与えるようなお方ではありません。そうではなく、私たちの悲しみを知り、私たちの傷や痛みを受けとめ、私たちのところで一緒に心を寄せて、歩んでくださるお方。それが、私たちが主とお呼びする、主イエス・キリストのお姿なのです。

 そこには、華やかさはないかもしれません。人が憧れる姿とは正反対なのかもしれません。けれども、主イエスは人の評価に価値を見出されるのではなく、人に誇れるものは何にもなかったとしても、それでもその人と一緒に歩むことを選び取ってくださるお方なのです。この、まさに、主イエスがここで味わっておられる痛々しい姿、人に理解されない姿、そこにこそ、主イエスのお姿の本質が示されているのです。これこそが、福音の姿そのものなのです。

 マルコがここで人々に示そうとしている主イエスのお姿、それは「苦難の僕」としてのお姿なのです。マルコの福音書の1章の冒頭で語った預言者イザヤの言葉は、まさに、「苦難の僕」と呼ばれた主の僕として姿でした。この苦しまれているお方こそが、私たちの見るべきお方なのだということなのです。
 
 今週の水曜日から、教会の暦では受難節、レントと呼ばれる日々を迎えます。今週の水曜から40日の間、私たちはこの苦しみを受けられた主イエスの姿を心に刻む季節を迎えます。是非、この時、私たちの目がどこに向かっているのか、何を私たちは求めようとしているのか、そして、主イエスはどう歩もうとされたのか、その主イエスのお姿を心に留める時としたいと思います。そして、主の姿を通して、福音とは何かということをこの時に心に刻みつけていきたいと思います。

 お祈りをいたします。

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